第70話 彼女の怒りは誰のため

「お母さん! 何でそんな恰好!?」


 後ろから聞こえた美園の焦った声で、少しだけ冷静になれた。

 パーティーにでも行くかのような恰好をした目の前の女性は、やはり美園のお母さん。45歳と聞いていたがどう見ても三十代前半にしか見えない。化粧や髪型によっては二十代にさえ見えるかもしれない。

 しかし良かったのは、この格好が美園にとってもおかしな物であるとわかった事だ。少し情けないが、二人で異常事態に立ち向かえるのは心強い。

 お母さんは「あらそうかしら?」と頬に手を当てて首を傾げている。そんな様子を見て、少し力が抜けた。


「初めまして。美園さんとお付き合いをさせて頂いています、牧村智貴と申します。本日はお招き頂きありがとうございます」


 用意していたフレーズとは少し違ってしまったが、何とかつっかえずに言い切って一礼出来た。

 顔を上げるとお母さんは「まあまあ」と顔を綻ばせていて、正確に言えば逆ではあるが、そこには美園の面影があった。


「お口に合うか分かりませんが、よろしければ」

「あら、ご丁寧にありがとう」


 右手に提げた袋から、美園に手伝ってもらって選んだお土産を取り出して差し出すと、受け取ってくれたお母さんは、「何かしら?」と嬉しそうに呟いた。


「ささ、上がって頂戴」

「牧村先輩、どうぞ」


 お母さんがそう言ってすぐ、美園がスリッパの用意をしてくれた。それを見てお母さんは微笑んで頷いた。美園が気を遣ってくれたから良かったが、先にお土産を渡して手を塞いでしまったのは失点だっただろうか。


「ありがとう。お邪魔します」


 しまったな、と思いつつ靴を揃えて上がらせてもらうと、美園が僕の靴をすぐに靴箱にしまってくれた。


「せっかく牧村君が下さったんですから、早速頂きましょうか。美園。お茶をご用意してくるから、牧村君を応接までご案内してあげてね」

「はい」


 美園は当然と言わんばかりの返事をしたが、僕は家に応接室があるという事実に衝撃を受けていた。


「じゃあ牧村君、美園と一緒に応接間で待っていてくださいね。主人も待っていますから」

「ありがとうございます」


 そう言ってお母さんは玄関から長い廊下を通って奥へ消えて行った。


「母がすみません。普段通りでという話だったはずなんですが」

「驚いたけど、緊張はほぐれたよ。わざとやってくれたのかな?」


 美園は申し訳なさそうに言うが、花波さんといい、突飛な事で僕の緊張をほぐそうとしてくれているのだとしたら、その心遣いが嬉しい。


「いえ。母に限ってそれはあり得ません。多分ですけど、牧村先輩をお迎えしようとしていて、高揚してしまったんだと思います」

「お母さん、もしかして天然系?」

「はい。かなりの」


 美園に言われるんじゃ相当だな、と思いはしたが口には出さない。拗ねたような可愛い表情を見たくはあるが、流石に彼女の実家なので自重した。


「それでは行きましょうか。応接はこちらです。どうぞ」


 そう言った美園は少しいたずらっぽい笑みを浮かべて僕の手を取った。


「秘密の関係みたいでドキドキしませんか?」

「バクバクするよ」


 そもそもオープンにする為に来ている訳だが、美園はこの状況を楽しむかのように、先程お母さんが向かったのとは90度違う方へと僕の手を引いた。

 玄関のドアと同じ少し濃い色のフローリングの突き当りには、更に濃い色の扉が待ち構えていた。


「ノックしますね」

「うん」


 美園はそう言って、頑張ってくださいと言うかのように僕の手をぎゅっと握り、離したその手でドアをノックした。


「美園です」


コンコンコンという堅い音の後、一拍置いた美園の呼びかけに、応接の中から応じる声が聞こえた。


「入りなさい」


 ドア越しなので声色から正確な様子は判断できないが、落ち着いた威厳のある声だと感じる。これからが本番だと、改めて意識させられる。

 一瞬だけ不思議そうな顔をした美園が「開けますね」と僕に微笑みかけ、重厚に見える応接のドアを引いた。


「失礼致します」


 開けてもらったドアから入り、中の男性――美園のお父さんだろう――に一礼する。


「はじめ――」

「いらっしゃい」


 続けて自己紹介をしようと口を開いたところ、前方から聞こえた重低音と思いっきりタイミングが被った。最悪としか言いようがない。

 五十歳になるという美園のお父さんは、身長は僕と同じか少し低い程度、少し白髪が混じって濃灰色気味になった短めの髪に、彫の深い精悍な顔立ちをしていた。


「失礼しました。美園さんとお付き合いをさせて頂いています、牧村智貴と申します。本日はお招きくださり、ありがとうございます」


 いきなりの失態に加えてお父さんの鋭い目つきで、正直ノックアウト寸前だったが、静かにドアを閉めて隣に立ってくれた美園のおかげで、何とか言葉を続ける事が出来た。


「美園の父です。今日は遠いところをわざわざすまないね。何はともあれ、まずは掛けなさい」

「はい。ありがとうございます」


 お父さんはそう言うと、部屋の中央付近のソファを手で示した。

 木の土台に支えられた黒い革製のそれは、どうみても高級品。ようやく周囲に視線を向けられたが、この応接間だけで30平米はありそうな広さで、扉の反対側の庭に面した広い窓と天窓――応接間の上には二階部分が無いのだろう――で採光がなされており、照明は半灯程度に抑えられているので、落ち着く明るさだ。


 床にはこれまた高級そうな模様の絨毯が敷き詰められており、ゆったりとした二人掛けのソファの間には、部屋の扉と似た色の重厚な印象を受けるテーブルが置かれているし、壁には幅1メートルくらいの西洋画が飾られている。どれか一つでも値段を聞いたらこの部屋から逃げたくなりそうだ。

 そんな部屋の窓を背にしたお父さんの向かいに僕、その隣に美園が腰を下ろすと、変わらぬ重低音ボイスでお父さんが切り出した。


「さて、牧村君だったね」

「はい」


 そこで一呼吸置いたお父さんは、美園をちらりと見てから、僕の方へと鋭い視線を向けた。情けない話だが正直美園に手を握ってほしい。


「娘との交際だが、私は認めるつもりはない」


 いきなりかまされるとは思っていなかったが、その類の事は想定問答として考えてある。落ち着いて応答できれば問題無いはず。

 しっかりとお父さんの目を見て、きちんと答えるぞと思った時だった。


「君では娘を任せられ――」

「お父さん!」


 多少の余裕があったおかげか、言われた言葉よりも、隣で聞いた事も無い大声を出した美園に驚いた。心なしか向かいの方も驚いているように見える。


「いきなり呼び出しておいてどういう事!? 牧村先輩に失礼な事言うのなら帰るから!」


 恐らく本気で怒っているであろう美園を見るのは当然初めてだ。彼女は強く怒る事などほぼ無いのだろうが、静かに怒りを表すタイプだと勝手に思っていた。こんなに激昂したのは、自惚れではなく僕のためだろうと思う。


「牧村先輩、すみません。父が不快な思いをさせまして。もういいです。帰りましょう」


 立ち上がった美園は申し訳なさで泣きそうな顔で頭を下げ、僕の手を取った。

 お父さんはと言うと、既に驚きを通り越してオロオロし始めていて、威厳が台無しである。


「ありがとう、美園。でも、大丈夫。僕はまだ話したい事があるよ」


 美園が僕の為に怒ってくれた事が嬉しくて、大分落ち着いていられている。そもそも「娘はやらん」というような事を言われるのは想定内だし、なんとなくだがお父さんの意図もわかった。


「でも……」


 不安で消え入りそうな美園の手を強く握り返し、「大丈夫」と出来るだけ優しく微笑んでその手を引いた。

 渋々座ってくれた美園は、僅かに目を潤ませている。僕はそんな彼女の頭を優しく撫でた。お父さんに与える印象は悪いだろうが、美園を泣かせる事に比べればあまりにも些細だ。申し訳ないが美園が落ち着くまで少し待ってもらいたい。


「失礼しますね」


 そんな混沌とした室内に、コンコンコンというノックの音とおおらかな声が聞こえた。

 気付かなかったのだが、僕達が入って来たドアの右側の壁にもう一枚ドアがあり、今の声はそちらから聞こえた。


「あ、ああ。どうぞ」


 目を丸くしていたお父さんが、助かったと言わんばかりにサッと席を立ってドアを開けると、おっとりとした様子の美園のお母さんがお盆を持って入室してきた。その後ろには同じくお盆を持った花波さんがいた。


「どういう状況かしら?」


 娘とその彼氏を夫に会わせたところ、娘は俯いているし、彼氏は父親の前でその娘の頭を撫でていて、夫はそれを見てオロオロしている。言った本人がまるで焦っていない事を除けば正しい感想だろう。


「いやほんとに。何でこんな意味不明な状況になってるの?」


 お母さんに続いて入って来た花波さんは、呆れたようにため息を吐いた。

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