第69話 彼女の実家

「緊張で死にそう……」


 新幹線に乗って約1時間、美園の地元の玄関口となる駅に降り立ち、昼食をとった。

 実はこの時点でかなり緊張していたのだが、地下鉄を乗り継いで美園の実家の最寄り駅に辿り着いたところで、ついに臨界点を迎えた。


「大袈裟ですよ」


 クスリと笑った美園は、そう言って繋いだ手に少し力を入れた。


「あ。ごめん、繋いだままだったな」


 新幹線に乗る前の土産選びの段階で1回、新幹線を降りて1回、地下鉄の駅では隣に僕がいたにも関わらず1回、今日だけで計3回も美園がナンパされた。あまりに腹が立ったので、「彼女に何か用ですか?」と丁寧に追い払った後、周囲に見せつけるように手を取ったところまでは覚えている。


「家までこのままでも構いませんよ」

「精神的にはそうしたいところだけどね……」


 小悪魔の提案は非常に魅力的だが、挨拶に来た娘の彼氏が当の娘とイチャついている、という最低の状況をご両親にお見せする事になる。緊張緩和の為に挨拶を失敗する訳にもいかない。


「だから駅を出る所まででお願いします」

「はいっ」


 よく出来た彼女は、情けない彼氏のお願いを笑顔で聞き入れてくれた。



「美園ー」


 地下から地上に出てすぐ、僕の彼女を呼ぶ声がした。

 ビクっと反応した美園よりも少し早く声のした方向を向くと、そこに美園がいた。

 正確に言うのなら、美園にとても良く似た顔立ちの女性。髪はダークブラウンの美園よりも少し明るく、胸元に届くかというくらいの長さで、少しウェーブがかかっている。

 服装はノースリーブの白いトップスにデニムと、お嬢様然とした美園と比べると大分ラフな印象を受ける。


「そっちは牧村君?」

「はい。初めまして、でいいんですかね、花波さん」

「よくわかったねー」

「そりゃわかりますよ。顔がそっくりですからね」


 電話やメッセージで何度かやり取りをした事のある美園のお姉さんは、細部こそズレがあるものの、全体の雰囲気としてはイメージ通りだった。


「それもそうか。美園は何か……おっ」


 僕の影で未だ一言も発さない美園に視線をやった花波さんが、少し口角を上げて目を細めた。獲物を見つけた、とでも言いたげな顔という印象だ。


「姉の前だってのに見せつけてくれるね」

「あ、これは、その」

「別にいいでしょ……」


 花波さんの視線を避けるように振り返ってみると、少しふくれ面の美園が、気まずそうにしていた。


「あー、はいはい。とりあえず邪魔になるし、行こうか。駐車場に車止めてるから」


 呆れたように苦笑する花波さんが、親指だけ立てた右手で後方をクイっと指差した。



「はい、どうぞ」

「失礼します」


 3分程歩いたコインパーキングに着き、「エンジンかけて冷房効かせるからちょっと待って」との花波さんの指示通りまた3分程待った。そして、「そろそろいいかな」と言う言葉の後で車内へと促された。車内は冷房が効き始めているおかげか、少し暑い程度で済んでいた。


「あれ、手繋ぎ止めちゃうの?」

「ご家族の前では流石に……」


 清算を終えて戻って来た花波さんは、からかうように言ってシートベルトを締めた。


「まあいいや。じゃ出発するね。10分はかからないと思うよ」

「はい。お願いします」

「運転に集中してね、お姉ちゃん」


 何やら釘を刺すような美園に、花波さんは「はいはい」と適当に答えながら車を出発させた。


「駅前だと分かり辛いけど結構な高級住宅街じゃないか、ここ?」


 適当な雑談をしつつ車で5分程進んだ辺りから、周囲の様子が少し変わってきた。駅前には背の高いマンションが多かったが、今走っている付近は高くても3階建て程度。しかし多くの家がちゃんとした長い塀で囲われており、庭の広さが伺える。しかも奥に見える家屋も大きく、見るだけでお金持ちの家だとわかる。


「確かに学生アパートはほとんどありませんね」


 そういう問題ではない。


「美園はそういうとこちょっとズレてるからね。この辺は基本的にそこそこいい家が集まってるよ」

「ですよね……」


 そこそこというレベルでもないが。「ズレてるってどういう事」と憤慨している美園を尻目に、僕は花波さんも少しズレているのではないかと思った。


「美園の実家もこのくらいあるの?」

「いえ、私の家はこんなには大きくないですよ」


 車窓から目についた家を指差して尋ねてみると、美園は少し僕の方へ体を寄せて外を確認してそう言った。


「広さとしては学生食堂くらいで2階建てです」

「余裕を持って200人以上座れるじゃないか、それ」


 裕福な家だろうとは思っていたが、想像していたよりも美園の実家はお金持ちらしい。


「緊張がぶり返して来た……」


 実家がどうだ、というのは美園個人への感情には関係の無い事だが、その実家に挨拶に行くのだから、やはり相手がお金持ちでは気後れも出てしまう。


「そんなに緊張しなくてもいいよ。会社経営してるって言ってもそこまでの規模じゃ無いし」

「はい?」

「あれ、初耳?」

「ですよ……」


 更にここに来て花波さんが爆弾を落とした。


「社長って事、だよね?」

「はい」


 美園はきょとんとしている。「そうですけど何か問題がありますか?」と言った顔だ。

 悪い事なんかでは無いが、面会で超えるべきハードルがぐんぐん上がっている気がする。せっかく美園に手を繋いでもらって緩和した緊張が、ダイレクトに心臓を攻撃し始めた。


「牧村先輩、大丈夫ですか?」

「だいじょうぶ……」


 少し前傾姿勢になった僕を心配し、美園が背中をさすってくれた。温かくて気持ちいい。もうここで時間が止まってほしい。


「しょうがないから私が緊張ほぐしてあげるよ」


 運転席から花波さんの楽し気な声が聞こえたので、美園と一緒にそちらに目を向けた。


「二人はどこまでいった?もうキスくらいはした?」

「してませんよ!」


 意外と最低な質問が突然飛んで来たので、慌てて否定して隣の美園を見ると、顔を赤くして口をもごもごとさせている。


「付き合って1週間ちょっとだっけ?まだなの?」


 ほぼ初対面の人にすらヘタレと言われている気がする。1週間で普通は済んでいるものだろうか。

 ふと左手を握られ、隣に視線をやると、真っ赤な顔の美園が潤んだ瞳をこちらに向けていた。

 メイクのおかげでいつもより艶のある唇に視線が吸い寄せられる。


「あーあー」


 花波さんの声で我に返ると、美園との距離が少し近付いていた。


「緊張ほぐしてあげようと思ったけど、まさか目の前でキスされそうになるとは思わなかったよ」


 気まずそうにははは、と笑う花波さんの声を聞きながら、赤い顔の美園と見つめ合ったまま顔の距離を離した。


「緊張ほぐれた?」

「不本意ながら……ありがとうございます」


 心臓の鼓動は先程よりも早いが、理由は明らかに変わっていた。



 目の前には白く大きな家。その周囲は同じく白い塀で囲われていて、玄関前のところだけが黒い金属製の門になっている。庭は家の規模からするとそれほど広くはないが、よく手入れされていそうな芝が、その財力を示していた。

 花波さんはガレージに車――家の車だったらしい――を置いて、直接家に入るとの事だったので、お礼を言って今は美園と二人で門の前に立っている。


「それじゃあ、入りましょう」

「う、うん」


 ニコリと笑った美園が呼び鈴を押すと、「キンコン」と高級さを感じさせる音が鳴り、インターホンの向こうから「はい」という女性の声が聞こえた。美園のお母さんだろうか。


「ただいま。牧村先輩を連れて来たよ」

『玄関は開けてあるからそのまま入って来てね』

「うん」


 短いやり取りが終わると、美園が門を開けて「どうぞ」と微笑んだ。

 緊張しながら門をくぐる時、「お邪魔します」と聞かせる相手もいないのに口に出してしまった。

 笑顔の美園に促され、そのまま濃い目の色をした木製の玄関へと歩く。ピカピカした金属製の取っ手を掴んだ彼女に、コクリと頷いて見せると、優しい笑みを浮かべた美園がそのままドアを開いた。

 敷居をまたぎ、大理石のようなツルツルした玄関に気後れが再発しそうになるのを抑え、「お邪魔致します」と一礼をしようと前を向いた瞬間だった。


「いらっしゃい。牧村君ね。美園の母です。急にお呼びしてごめんなさいね。さあ、どうぞ上がってくださいな」


 白いフォーマルなドレスを着た美人さんが、そう言って深々と腰を折った。

 スーツ着て来れば良かった、と心から後悔した。


「ほ、本日はよろしくお願い致します」


 本来は自己紹介の後に言おうと思っていたその言葉が、先制パンチで混乱した頭で発する事が出来た最初の言葉だった。

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