第64話 挨拶ではあり得ない行為
「今から帰るよ」
『はい。気を付けて帰ってきてくださいね』
「うん。それじゃあまた後で」
『はい。お待ちしていますね』
着替えを終えて店を出たところで電話を一本。本当は話し続けたまま帰りたかったが、きっと食事の準備をしてくれているであろう美園の邪魔になるので、後の楽しみが増えると自分に言い聞かせた。
8月もあと数日で終わりだが、20時過ぎの夜風もまだ生暖かい。だと言うのにいつの間にか景色の過ぎて行く速度が増しており、自分が走っているのだと気付いた。
いつもの半分程度の時間でアパートに着いた代償は多少の発汗。ハンカチで服の下も含めて汗を拭き、制汗スプレーをふりかけて呼吸を落ち着かせながら階段を上る。
鍵穴に鍵を差し込み、もう一度深呼吸をしてドアを開けると、すぐそこのキッチンで丁度美園が外したエプロンを畳んでいるところだった。いつも料理する時に着けている髪留めは既に外してある。
「ただいま、美園」
「おかえりなさい。牧村先輩」
優しく微笑む美園とのこのやり取りが気恥ずかしくて、少し目を逸らしながら靴を脱いで揃えていると、静かな足音が近付いて来た。またバッグでも持ってくれるのだろうかと視線を向けると、両手を広げてニコニコと笑う美園が目の前にいた。
「おかえりなさい」
そう言って抱き着こうとしてくれた美園に対し一歩下がると、その可愛らしい顔が途端に悲しみに塗れた。
こんな事なら早く会いたいからと走って来るんじゃなかったと、後悔しても既に遅い。
「……嫌、ですか?」
「違う! むしろお願いしたいんだけど汗かいたから――」
そこまで言ったところで、ふわりとした少し甘めないい香りとともに、体に重みとやわらかな感触が飛び込んで来た。胸元に押し付けられた頭と、背中に回された腕に割と強めの力が込められているのを感じる。
観念して美園の背中に腕を回すと、頭と腕に込められていた力が少し抜けた。
「汗臭くないか?」
「スーッとしていい匂いです」
服が湿る程の汗では無かったおかげか、制汗剤がきちんと仕事をしてくれたようでとても安心した。
「でも傷付きました」
僕の腕の中で、美園は恨めしそうな上目遣いで僕を見ながらそう言った。逆の立場なら僕も間違いなく傷付く。僕が自分からハグを求められるかは別問題だが、頭を撫でようとして嫌がられでもしたらどれだけショックだろうか。
「ごめん」
そう言って腕の中の彼女の頭を撫でると、くすぐったそうに笑いながらも、美園は少し頬を膨らませた。
「こうすれば私が誤魔化されると思っていませんか?」
正直ちょっと思った。もちろん、申し訳ないという気持ちが一番強いが。
「このくらいじゃダメです。もっとしてくれないと収まりません」
「わかった」
そう言って頭を撫でると、美園は心地よさそうにしながらも、僕の背中に回した腕に再び力を込めた。
サラサラの髪の感触がこちらとしても心地いい。背中に回した腕と、美園の華奢な体を受け止めている胸部と腹部に、柔らかさを感じる。甘い香りと合わさって、少し頭がクラクラしてしまう。
しかし、昨日は告白の余韻と緊張が残っていたせいか、抱き合うという行為そのものに幸せを感じていた為なのか、意識せずにいられた感触が今日は無視できない。
男同士で集まれば下世話な話をする事も多い。「服の上からじゃ柔らかなくない」と言ったのは誰だったか。嘘つけよ、柔らかいじゃないか。
胸部と腹部の間に無自覚に押し付けられた柔らかな凶器は、それこそ無意識に理性を削り取ろうとしてくるが、それには耐えられる。付き合って僅か2日目の愛しい恋人に、何があっても手を出そうとは思わない。
ただし問題は理性ではなく、生理現象の方。左手で美園を抱きしめ、右手で頭を撫で続けているが、正直言ってそろそろよろしくない血の巡りを感じている。
「美園」
本格的にまずくなる前に、美園の両肩に手を置き引き離そうとするが、彼女の方は力を緩めてくれない。「んー」と言いながらむしろ力を強めたくらいだ。
「続きはまた後にしよう。美園がせっかく作ってくれたご飯も食べたいし」
「……約束ですよ?」
「ああ」
そう言うと、美園は僕の背中に回した腕からゆっくりと力を抜いた。
優しく肩を押して支えると、拗ねたような表情を作っていた美園が僕を見てふっと笑った。
「すぐに食べられますから少しだけ待っていてくださいね」
「うん。ありがとう」
普段なら可愛い笑顔にしか目が行かないのだが、今は視線にも重力が働くかのようにその下20cm辺りにも目が向いてしまう。
食事が終わるまでに対策を考えられるだろうか。
◇
そして考えた策は、後ろから抱きしめればいいじゃないか、だった。
食事の片付けも終わり、ベッドに寄り掛かった僕の前に美園を座らせ、後ろから抱きしめながら頭を撫でる。美園は「顔が見えません」と不満をこぼしたが、「正面からのハグは挨拶でもあり得る。後ろからは恋人同士でしかやらない」と丸め込むと、嬉しそうに「早くしましょう」と乗ってくれた。無いはずのしっぽがパタパタとしている幻が見えて、少しおかしかった。
お互いの間にクッションを挟むことで第2の凶器との接触対策も完璧、のはずだった。
「ちょっと、恥ずかしいですね……」
「うん……」
浅はかだったと言わざるを得ない。後ろから抱きしめれば胸が当たらないから大丈夫だと思っていた。
右手は彼女の頭を撫でている。問題は左手の置き場所を全く想定していなかった事。最初はお腹の辺りに手を回そうと思っていたのだが、美園が断固拒否の姿勢を崩さなかった。一部を除いて肉の付いていなさそうな美園だが、そういう問題ではないらしい。
なので首元に手を回していたのだが、美園が僕の腕をとって抱きしめ始めた事で、触れてはいけない場所の上を思い切り斜め切っている。しかも腕に触れる柔らかさだけでなく、後ろにいるせいで視覚情報としてもその光景が入って来る。
「そ、そう言えばさ」
「はい」
さっきよりマズイ状態の中、なんとか意識を別方向に向けようと会話を切り出すと、美園は僕の左腕に軽く預けていた頭を上げて、少しだけ首を動かした。
「ええと、付き合い始めた事、誰かに言った?」
「まだ誰にも言っていません。牧村先輩と相談してからの方がいいかなと思っていました」
「そっか。僕の方もまだ誰にも言ってない。事情を知ってる人には直接伝えた方がいいかなと思ってるんだけど」
「そうですね。相談に乗ってもらっていた人には、人伝だと失礼になっちゃいますね」
「よし、それじゃあ今から早速伝えようか。あ、スマホ机の上だからちょっと退いてもらっていいかな」
「……離れようとしていませんか?」
抑揚の無い声でそう言うと、今まで軽くもたれかかっていただけの美園は、完全に体を預けてきた。そして僕の左腕を抱く力が強まり、必然押し付けられる柔らかさを強く感じる事になる。
「そんな事無いよ」
状況は悪化したが、努めて冷静を装って返答し、美園の頭を撫でた。
「そろそろ時間も時間だし、早めの方がいいかなと思っただけだよ」
「本当ですか?」
「本当だって。正直ずっとこうしていたいくらいだし」
これは嘘では無い。生理現象さえ無視できるならいくらでもこうしていたい。
「それじゃあ、あと10分だけ。こうしていてください」
「喜んで」
「大好きです。牧村先輩」
「うん」
10分間、愛しい彼女を抱きしめて、その頭を撫で続けた時間はすぐに過ぎた。
「それじゃあ、残念ですけど10分経っちゃいましたから」
そう言って僕の腕を抱いていた力を弛め、もう一度抱きしめてから離し、美園はゆっくりと立ち上がった。振り返った彼女は少し残念そうに、困り笑顔を見せた。
そんな美園に頷いて笑いかけ、僕は一つお願いをした。
「ごめん。ちょっと足痺れちゃったからスマホ取ってもらっていいかな」
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