第65話 口実が必要な二人
8月最後の日曜日、美園と恋人になって3日目の今日は、夏休み最初の文実の実務がある。正確に言うのならば、昨日の段階で一部の人間は作業をしているが、全体としてはこれが初だ。
今朝目覚ましをかけたのは7時30分。昨夜美園が作ってくれた食事の残りがあるので、少し起床を遅らせる事が出来た上、彼女が干してくれた布団のおかげで睡眠の質もいい。至れり尽くせりと言う外無い。
そんな気分のいい朝の8時30分、約束の時間通りに玄関のチャイムが鳴らされた。
「おはよう、美園」
玄関のすぐ傍で待ち構えていた僕は、ゆっくりと扉を開けて目の前の彼女に笑顔を向けた。
「おはようございます。牧村先輩」
10時間ぶりの笑顔が眩しい。
今日からは塗料も扱う為か、美園は既に料理の時のように髪をアップにしている。恰好も動きやすさ重視で、下は以前と同様にデニムとスニーカー、上は白い半袖のブラウスで首周りと二の腕の部分がレースのようになっていて透けている。
「似合ってるよ。凄く可愛いと思う」
覚悟の一呼吸の為に先にドアを施錠し、美園に正直な感想をぶつける。どちらかと言えば普段の恰好の方が好きではあるが、今日の彼女も凄く可愛いのは嘘ではない。
「あ、ありがとうございます。ちょっと不安でしたけど、とっても嬉しいです」
「行こうか」
少し照れながら笑う美園を見てこちらも気恥ずかしくなるが、それを隠して出発を促した。
「手を」
「はい」
美園は普段からそれほど踵の高い靴を履いていないが、今日は完全なぺたんこなので本来なら階段で手を取る必要など無い。それをわかっていて僕は手を差し出したし、美園も僕の手を取ってくれた。昨夜美園を送って行った時はずっと手を繋いでいたが、明るい内から外でそうするために僕達にはまだ口実が必要だった。
階段を下り終えて名残惜しいが手を解くと、美園は一瞬だけ僕の中指をつまんですぐに離した。同じように思ってくれたのだとわかり、嬉しい。
「そう言えば、返事返って来た?」
「はい。おめでとう、と言ってもらいました。一応は、だそうですけど」
大学への道を一緒に歩きながら美園はそう言って苦笑した。
昨日の段階でお互いに一部の友人知人に簡単な報告をしたが、帰宅までの時間では美園が送った中で香からだけ返信が来ていなかった。
「一応は、か」
これは僕が何か言われる流れだろうな。
「さて、上手くいくといいな」
「そうですね」
◇
美園と一緒に委員会室のある共通G棟まで歩いたのだが、先客達は誰も声を掛けて来ない。ある程度の注目は集めた――主に美園が――のだが、僕の交友関係の狭さのせいか皆遠巻きに見ているだけ。事情を説明してある連中が誰もいないのも間が悪かった。
相談に乗ってもらった人達――僕の場合は聞き出された連中――にはこちらから報告をしたが、じゃあ文実全体にも「僕達付き合いました」と宣言するかと言うと、それはそれでおかしい気がする。
とは言えやはり知っておいてほしいというのが僕と美園の共通認識だ。なので朝から一緒に来て、それを見た誰かから関係を聞かれて答える事でアピールをしようと二人で結論を出していた。
しかし結果これである。美園と顔を見合わせて苦笑して見せると、彼女の方も困ったように笑っていた。周囲が静かなせいでセミの鳴き声がやたらと大きく聞こえる。
「おはようございまーす!」
そこに後ろから、聞き覚えのある声で元気のいい挨拶が響いた。「なんか微妙な空気っすね」と言いながら登場した雄一は、僕と美園を見つけると破顔して近付いて来た。
「おめでとうございます! いやー、やっとくっついたかって感じっすね。正直早くしろよって思ってたんすけど、何はともあれめでたいっすね。あ、そうだ。あんまイチャつかないでくださいよ」
因みに雄一に関しては、「多分知っていると思います」と美園が言ったため僕が連絡をした。
そのおかげか、空気の読める男の無意識の行動は結果としてやはりとても空気を読んでくれた物になった。
◇
昨日の段階で一部の委員が先んじて何枚かの看板に鉛筆で下描きをしてくれている。今日からはそれに水性塗料を使って色を着けていく。
木製の大きな看板だけでなく紙製の小さな看板も含めるとその数は非常に多くなるため、色塗りと並行して下描きも随時行われる。
夏休み中とあって参加人数は三十人強と言ったところ、全員が同じように白のスタジャンを着ている。
今日も僕の仕事は看板の運搬がメインになる。2年男子を中心に額に汗をかきながら木製看板を運んでいる最中、話題の中心にいたのは僕だった。
「いつから付き合ってるのか」という質問が一番多かったので、それには素直に「一昨日から」と答えておいた。「どこまでいった?」という精一杯マイルドに表現された下世話な質問は黙殺した。付き合ってまだ3日だぞ。
「疲れる」
「お前よりあっちの方が大変そうだぞ」
今日色を塗る予定の看板を全て運び終わり日陰で額の汗を拭って腰を下ろすと、横にいたサネが僕の肩を叩いて指をさした。その先にいるのは美園、示されなくてもどこにいるかはわかっていた。
美園は今、真剣な顔で刷毛を持って看板に色を塗っている。手先が器用な彼女なら問題なくこなすだろうが、その周囲の密度はやはりいつも通り多い。いつもと違うのはその構成要員がほとんど女子な事だろう。
そしてそれが一息ついたところで周囲の女子に話しかけられ、少し困ったように笑って受け答えをしている。作業中という事もあってずっと質問攻めという訳ではなさそうだが、それでも僕と比較して大分長い事質問を受けているのではないだろうか。
「交友関係の広さの差か」
「まあそれもあるだろうけどな」
「他に何かあるのか?」
少し見上げてそう聞くと、サネは「まあな」と言って隣に腰を下ろした。看板運搬チームは暑い中肉体労働をしたので他の連中も同じように休んでいる。
「今年のカップル成立数、今のとこどのくらいか知ってるか?」
「何だよ急に」
いきなり全く関係の無い話を振られ、意味が分からず隣を見る。
「お前のとこで二組目だよ。8月も終わるってのに、少ないだろ? 去年はこの時期で五組だったかな」
「よく覚えてるな。で、それがどうした?」
「美園が原因の一つだよ。多分だけどな」
「は?」
またもや意味が分からず聞き返すが、サネは苦笑しながら言葉を続けた。
「悪い虫が付いた今じゃ別だろうが、美園は今年の女子で一番人気だった。それはいいな?」
「言いたい事はあるけど、まあそうだな。それで」
納得がいかない言葉もあったが、
「一番人気がフリーなせいで男がそこに集まるから、実質的にフリーの男が減るって事だよ。後は康太と匠がフリーなせいで女子側も同じ事が起こってるな」
「まあ、理屈はわかる気がする。けどそれで何で美園が質問攻めに遭うんだ?」
「そこは女の世界ってヤツだろうな。ライバルじゃなくなった訳だし、気軽に色々話せるようになるんだろ」
「あんま知りたくないけど、まあ美園が変なやっかみ受けずに済むならそれでいいよ」
「惚気か」
そう言ったサネに軽く肩を殴られた。
「痛いな」と軽口を叩きながら美園の方を見ると、丁度目が合って少し見つめ合った。そうした状態を周囲に囃し立てられ、彼女は恥ずかしそうにしながらも、ひらひらと少し手を振ってくれたので、僕の方も軽く手を振って応じた。
「この距離でイチャつくな!」
また殴られた。しかもさっきより強く。
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