第62話 幸せな時間と別れの時間

「お待たせしました」


 ダイニングに背中側を向けて配置されている二人掛けのソファーに座っていると、「お化粧を直して来ます」と言って洗面に行った美園が戻って来た。

 少しだが涙を流してしまったからと言っていたが、お互いに言葉が続かなかったので、間を置きたかったのだと思う。


「おかえり」


 緊張気味の美園を、ガチガチに緊張した僕が視線を動かさずに迎える。ダイニング側から歩いて来る彼女は、ソファーの傍に来るまで僕からは見えないし、来た後も横目でしか見られなかった。今の声も多分震えていた。

 美園は何も言わずにぽすりとソファーに座った。二人掛けの中央よりこちら側に、僕とぴったりくっつくように。


「恋人、ですから」


 驚いて顔を向けた僕に、前を向いたまま照れたように笑った美園はそう言って僕の手を取った。柔らかく温かなその手に触れられ、そのまま指を絡めた。初めての恋人の指は、力を入れたら折れてしまいそうで、より一層大切にしたいと強く思う。

 話したい事も聞きたい事もいくらでもあった。多分、美園の方もそうだと思う。それでもお互いに言葉を発さなかった。互いの息遣いさえ聞こえる距離の心地よい沈黙に、もう少しだけ浸っていたかった。


「牧村先輩は」

「うん」


 壁の時計で見ると5分程――実際はもっと短く感じた――経った頃、美園が僕に呼びかけた。お互い少しずつ顔を向け合い、同じように照れて笑う。くすぐったくて死にそうだ。


「いつから、私の事を……」


 僕の腿の上に置かれた、絡め合った指に力がこもり、僕に向けられた上目遣いの瞳が潤む。

 そこで途切れた美園の言葉の続きが何かなんて事は、考えるまでも無い。


「うん?」


 ただ、その様子があまりに愛らしく、あと3週間もすれば20歳ハタチになるというのに、好きな女の子に意地悪をしたくなる小学生男子の気持ちを初めて知った。


「意地悪しないでください」


 ぷくっとふくれて少しうらめしげな上目遣い。可愛くて仕方ない。


「ごめんごめん」

「ちゃんと言ってくれたら許してあげます」


 ぷいっと顔を逸らした美園は、それでも横目でこちらを見たまま。その視線には怒りや不機嫌さは無く、あるのは期待の色。


「実は正確にはわかんないんだよね」

「え?」

「気付いたら好きだった。自覚したのは美園が泊まりに来た日だけど」

「あの日、なんですね。本当に、お泊まりに行って良かったです」


 美園は感慨深そうにそう言って微笑んだ。


「因みに美園の方は?」

「何ですか?」


 同じ質問を返してみると、可愛く首を傾げてとぼけられた。小さな可愛い意趣返しだろう。


「美園はいつから僕の事が好きだったんだ?」

「内緒です」

「おい」


 意地を張って聞いてみたというのに、いたずらっぽくふふっと笑った美園は答えをはぐらかし、そして真剣な顔になって僕を見た。


「内緒ですけど。ずっと大好きでした」

「そうか」

「はい」


 ずっと、がどれくらいの期間を指すのかはわからないが、こんな事を言われて嬉しくないはずが無い。


「牧村先輩は鈍いんで、全然気付いてくれませんでしたけどね」


 わざとらしくため息を吐いて見せた美園は、前を向いて笑った。


「気付かれちゃうと困るなとも思いましたけど、今考えるとやっぱり、気付いて欲しかったんだと思います」

「面目次第もございません」


 向けられていた好意にはある程度気付いていた。しかしそれがそのままの意味だとは思いもしなかった。

 僕だけが片想いをしていたと思っていた時間が、実は両想いだったと知れたのは嬉しい。思い出に新しい色が着いていくような感覚を覚える。

 美園が言ってくれた色んな言葉を覚えている。そして、当時意味がよくわからなかった言葉の中に、気持ちを知った今では違って聞こえる物がいくつかある。


「結構アピールしてくれてたんだな」

「今頃気付かないでください……」


 本人も思い出したのか、少し顔を赤くして俯きがちになっている。


「この部屋に上がってもらったのも、お料理を作ったのも、二人でご飯を食べに行った事も、全部牧村先輩だけなんです」


 顔を上げた美園は、「しーちゃん以外だと、ですけど」と苦笑した。


「一番のライバルはアイツだったか」

「そうかもしれませんね」


 わざと苦々しく言った僕に、美園は微笑んで、「でも」と言葉を続けた。


「手を繋いだのも、お家に泊まらせてもらったのも、浴衣を見て欲しいと思ったのも、膝枕をしたのも、正真正銘牧村先輩だけです」

「うん」


 そう頷いて左手を少し握ると、美園はこちらを向いてニコリと笑い、右手に力をこめた。


「だから、これから二人だけの事をたくさん、一緒に作ってください」

「ああ。約束する」


 そう言って僕は、少し体を捻って右手の小指を差し出した。


「はい!」


 勢いよく答えた美園も同じように少し体を捻り、左手の小指を差し出してくれた。


「これ、やりづらいな」

「そうですね」


 二人でそう言って、顔を見合わせて笑ったが、僕も美園も握った手を離そうとしなかった。



「それじゃあそろそろ帰るよ」


 3時間近くずっと手を繋いで過ごし、あと1時間もすれば日が変わる時間になっていた。


「え。もうですか?」

「もうじき0時になるし、あんまり長居するのも悪いだろ」


 弾かれたようにこちらを向いて不満を見せる美園だが、僕だって実際は同じ気持ちだ。それでも、僕が言い出さなければ「帰ってほしい」という類の言葉が、美園の口から絶対に出ないのは明白で、どこかで僕が切り出す必要があった。


「痛いって」

「あ……ごめんなさい」


 無意識だったのだろう。僕の左手を今日一番強く握っていた美園に苦笑して見せると、彼女は慌てて力を緩めた。


「これからいくらだって時間はあるよ」

「そうですけど……」

「それにさ、今日これ以上一緒にいると、心臓がマズイ事になりそうだ」


 それでも不満げな美園におどけて見せると、彼女は目をぱちくりとさせた後、「それは困りますね」と言って小さく笑った。


「じゃあ最後に、一つお願いしてもいいですか」

「うん。なんなりと」

「抱きしめてください。抱きしめて、好きだ、って言ってください」

「心臓に悪そうだけど、喜んで」


 絡んだ指をほどき、どちらともなく手を離し、二人でソファーから立ち上がって向かい合う。先程よりも遠い距離だが、告白の後で正面から向き合うのは最初になる。


「緊張しますね」

「ああ」


 緊張するとは言ったが、目を合わせるだけでお互いだらしなく頬が弛む。そんな顔でも僕の彼女はとても可愛い。

 目を合わせてはニヤケて、少し目を逸らしてはまた目を合わせる。そんな恥ずかしいやりとりを何度か繰り返した後、美園が手を開いて両腕を差し出した。

 その腕の間に歩を進め、そのまま美園の背に自分の腕を回し、ゆっくりと抱きしめた。つま先立ちの彼女が、少し背を屈めた僕の肩にその可愛い顔を乗せ、僕の首にかかるように腕を回した。


「好きだ」

「はい……」


 背中に回した腕を少し上げ、美園の髪を撫でると、彼女はより強く力をこめて僕に抱き着いた。マズイ事になっている心臓の鼓動が届いてしまわないかと考えてしまう。

 彼女の髪の香りが鼻孔をくすぐり、抱きしめた柔らかな体をはっきりと感じた。


 結局、別れの抱擁だというのに、実際に美園の家を出たのは明日になる直前だった。僕の意思が弱いのではなく、僕の彼女の魅力が凶悪すぎるのが悪いのだ。

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