第61話

「お姉ちゃんがご迷惑をお掛けしました」


 そう言って頭を下げた美園は、お詫びをすると言って僕を部屋に招いてくれた。

 すっかりいつも通りに戻った彼女は、少し照れたように笑って黒いスリッパを出してくれた。当然のように、美園は色違いの白いスリッパを履いている。志保に聞いた話では履くのを止めたと思っていたが、やはり履くようにしたのだろうか。


「お鞄預かりますね」

「ありがとう」


 小さなワンショルダーのバッグなので預けるまでも無かったのだが、やり取りが夫婦のそれに思えてつい甘えてしまった。まあウチの両親がそんなのやってるところ見た事無いけど。


「そちらのテーブルで待っていてください」


 そう言った美園は、リビング手前のコートハンガーに僕のバッグをかけ、そのままダイニングへと向かって行った。

 僕は促された通りリビング部分のテーブルへ、カーペットの手前でスリッパを揃えて上がらせてもらう。そして、やっぱりこれちょっと面倒じゃないかなと考えてしまう。


 前回お邪魔したのは1週間以上前になる。部屋の様子は大きく変わってはいなかったが、デスクの横に合宿時のお土産らしき袋がかけてあった。家族か学科の友人用だろうかと考えていると、丁度美園がやって来た。

 カーペット前で揃えられたスリッパが、二足に増えた。白と黒が並ぶその光景は、面倒さがあってなお、温かい光景だと思える。他人の家のスリッパに、何をそこまで感傷に浸るのだと、わかっていてもそう思えてしまった。


「今お湯を沸かし始めましたので、少し待っていてください」


 コクリと頷いて見せると、美園はニコリと笑って僕の向かいに腰を下ろした。


「それ、捨てちゃっていいですからね」

「そういう訳にもいかない気がするんだけど」


 テーブルの上には先程のピンクの封筒。美園の手で二枚になった便箋を一応しまってある。


「お姉ちゃんとお話したいんですか?」

「そういう訳じゃないけど。美園のお姉さんだし、無視するみたいになるのは悪いかなって」

「いいんですよ。私が文句言っておきますから」


 花波さんの事となると、美園は子どものように拗ねる事が多い。可愛らしくて微笑ましくて頬が弛む。


「……何かおかしいですか?」

「仲いいなあと思ってさ。ちょっと羨ましいよ」


 そう言うと、美園は憮然とした顔を作ってぷいと横を向いた。少し頬が赤く、照れ隠しなのが明白だ。


「……お湯を見てきます」


 笑ったままの僕をちらりと見て、美園はまだ電子音の鳴っていないケトルを見に行ってしまった。



「でもやっぱり、お姉ちゃんには困ったものです」


 アイスティーを淹れてくれた美園は、照れ隠しの続きなのか、まだ先程の事で少しぷりぷりとしている。そんな様子も可愛くて仕方ないので、内心花波さんに感謝する。


「牧村先輩にもご迷惑をお掛けして」

「僕は別に。迷惑だなんて思って無いから気にしなくていいよ」


 ラブレターだと勘違いして恥ずかしい事を言った気もするが、それは忘れる事にした。


「それにしたって。あんな紛らわしい封筒にしたのは、きっとわざとですよ」

「流石にそうだろうなぁ」


 花波さんの性格はよく知らないが、流石にあのチョイスを天然でやったとは思えない。

 可愛らしく怒る美園に苦笑しつつ、アイスティーを一口飲んだ。


「まあそのおかげで、ちょっとだけいい夢見たから。チャラかな」


 だから美園も気にするな、そう言おうと思って前を向くと、美園がまた不機嫌そうな顔になっていた。


「嬉しかったんですか?」


 失言だった。その平坦な声にそう思った。

 美園の価値観からすれば、誰からかもわからないラブレターで喜ぶというのは、恐らく好ましくない。


「いや、ほら。ああいうの貰うの初めてだったからさ。結局違ったけど」


 自虐を交えて、はははと笑ってみたが、美園の目は少し冷たい。


「いや、あれだよ。僕だって好きな子からああいう手紙もらえたらそりゃ一番嬉しいけどさ。そうじゃなくても多少、ほんとに多少は嬉しいっていうかさ――」

「牧村先輩」


 平坦だった声に感情がこもる。少し震えるようなその声には、悲しみが含まれているように聞こえた。


「好きな人がいるんですか?」


 怯えるかのように僕を真っ直ぐ見る美園のその言葉で、覚悟を決めた。

 しかし口を開いて言葉を発しようと思ったが、上手くいかなかった。

 頭では冷静だと思っていたが、気付けば心臓の鼓動は長距離を疾走したかのような状態で、平衡感覚さえも狂っているように感じてしまう。


 口の中が渇いてしまい、アイスティーを飲もうとグラスを掴んだが、手の震えのせいで、防音性能が高いおかげで静寂に包まれている部屋の中、カラカラと氷とグラスがぶつかる音が情けなく響いた。

 そんな震える右手を、少しだけ震える左手で無理やり抑え、人生の中で一番必死に飲み物を求めた。

 アイスティーを二口飲み、深く長く息を吐き、向かいの美園をしっかりと見据えた。彼女は僕のこんな醜態を見ても、じっと僕の言葉を待ってくれていた。


「いるよ。好きな子」


 身構えた美園がびくっと反応した。

 ここからはもう止まれない。あとは気持ちをぶつけるだけだ。


「好きだ」


 しっかりと、その言葉を口にする。


「美園が好きだ」


 気の利いた言葉は出てこない。


「僕と付き合ってほしい」


 覚悟を決めたと思っていたが、言ってしまった後の鼓動は先程よりも更に早い。破裂でもしてしまいそうなくらいで、顔も去年インフルエンザで寝込んだ時よりも熱く感じる。


 せめてもの意地で視線だけは逸らさずにいると、最初はぽかんとしていた美園は、次に僕の目を見て、すぐに逸らし、視線を左右に泳がせた。


 頬に差した僅かな朱色は、すぐに顔全体に広がり、今では僅かに覗く耳まで真っ赤にしている。

 震えている瑞々しい唇を開いては閉じ、開いては閉じ、何かを言おうとしてくれている。

 いつの間にか震えは唇だけでなく、美園の華奢な肩が僅かに震えている。

 何か声を掛けるべきだろうか。しかし、その言葉が思い浮かばないし、今はきっと呂律が回らない。


「そ、の……」


 こちらに美園がいない夏休みの初期と比べても、単位時間当たりの体感はきっと長かった。そんな沈黙を破った彼女の声は、ひどく震えていた。

 そして、美園の右頬を伝う一条が目に入り、一瞬で頭が冷えた。


「返事はまた今度でいい。悪かった、ごめん――」


謝って立ち上がろうとした僕を、美園が手のひらで制した。


「ちがい、ます」


 美園は指で涙を拭ったが、今度は左からも同じように流れる物があったが、彼女はそれを拭うのを諦めて笑った。涙を流しながら、それでも確かに。


「謝らないでください」


 真っ直ぐ僕を見る美園が、優しく微笑んだ。


「嬉しいんです」


 その声は少しだけ上ずっていた。


「それって……」


 恐る恐る、しかし期待を込めて尋ねた。


「はい。私も、牧村先輩が好きです。お付き合い、したいです」

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