21人目:ある大富豪の場合
「主人…?私が?」
「左様でございます、ご主人様。それでは、朝食はいつもの…失礼。
浅煎りコーヒーとフルーツジャムのトーストをご用意致します。」
テキパキと部屋のカーテンを開けて回ると、執事と思われる初老の男性は一礼し、ベッドの上で呆然とする私をおいて出て行ってしまった。
「どうなってるんだ…私がこの屋敷の主人だと?」
状況が掴めないまま、私は自分のいる部屋を見渡した。
部屋には高価な家具やいかにもな感じの調度品が並んでいるが、不思議とセンスが悪いとは感じなかった。
ベッドから降りた私は、自分のものと思われるデスクに近寄った。
「これは…私の写真だ。」
デスクの上には私と妻が出会った頃の写真が飾ってあった。
あたりを見回すが、妻の姿はない。
ひとまず私は自分の部屋の扉を開け、外へ出た。
扉の向こうには、奥まで続く広々とした通路が広がっていた。
天井にはシャンデリアが吊るされており、右手の壁には点々と絵画がかけられていた。
左手の方は、大きな窓が連なって並んでおり外の庭園がよく見えるようになっていた。
「なんとも立派な屋敷だな。」
私が感嘆のため息を漏らしながら窓越しに庭の方を覗いていると、見覚えのある人影を覚えた。
「あそこにいるのは…」
庭園の真ん中に建てられたアーチ状の日除けの下でゆったりと読書を楽しんでいるのは、間違いなく私の妻であった。
私は手近な戸を押し開け、庭園に出ると彼女先の方へと向かった。
妻は近寄る私に気づくと本を閉じ、顔を上げ眩しそうな顔をしながら軽く手を振った。
「あらあなた、今朝はずいぶん遅いのね。朝ご飯は食べたの?」
彼女は本を近くに立っていた執事に手渡すと、細身のガーデンチェアにきちんと座り直した。
「いや、まだだ。なんだか…その、今朝はどうにも調子が。」
いくら妻とはいえ、実は今朝から記憶喪失なんだ、なんて軽々とは口にできなかった。
「どうしたの?なんだか顔色が悪いわよ。」
彼女はぐいっと顔を近づけ、私の顔を覗き込んだ。
写真の姿からは多少の時間の経過は感じさせるものの、間違いなく私の妻の顔だ。
「そうだな、なんというか実はその、俗にいう…」
しどろもどろの私の様子を察してか、初老の執事は妻のもとに近づくと短く耳打ちをした。
すると、合点がいったと言わんばかりに彼女は大きく目を見開くと、うなずいていった。
「ああ!そうだったわね、今日はその日ね!納得がいったわ!」
妻は意味ありげに笑いながら、立ち上がって私の手を握る。
「今日は何もかもが新鮮に感じられる日でしょうから、おうちの中でも探検しに行ったらどうかしら?」
「なんだって、何か知っているのか?」
「いいから、いってらっしゃい。まずは食堂でおいしい朝ごはんでも。」
私は妻に急きたてらるがままに庭園を後にすると食堂へと足を運んだ。
食堂では若い使用人が私を出迎えてくれた。
きちっと髪を整えたその青年は、満面の笑みで私を席に着かせる。
「本日はとてもいい天気ですねご主人様。
私、この屋敷の使用人を勤めてもう二年半と少しになりますが、今日ほど素晴らしい朝はないでしょう!
ご主人様の顔ツヤもいつにも増してよく感じます。ささ、朝食の準備はできておりますので。」
青年はやけにニコニコしながら気を利かせた言葉を並べるが、どうにも状態が掴めない私にとってみればただ困惑の材料が増えたに過ぎなかった。
しかし、朝食にでたフルーツジャムのトーストとコーヒーはなかなかにいい味だった。
その味は私にとって新鮮であったと同時に、どこか懐かしさも覚えるものだった。
「あの執事はいつもの…とかいってたな。私の好物なのだろうか。」
そんな風に考えながら朝食を食べ終えたその時、食堂のドアが勢いよく開かれた。
びっくりした私が視線を向けた先には、高級スーツに身を包んだ中年の男が笑いながら立っていた。
「ここにいたのか!む、またそれか。いつも同じ朝食でよく飽きないな!」
遠慮なく部屋に入り、馴れ馴れしく私の肩を叩いてくるところを見ると、おそらく彼は付き合いの長い私の友人なのだろう。
裾から見える時計がきらりと光った。彼もまた、かなりの資産を持っているようだ。
「それで、新しい遊びを見つけたんだってな!勿体ぶらずに教えてくれよ!」
「遊び?なんのことだい。」
「おいおい、出し惜しみするのは君の悪い癖だぞ。
こっちも豪華なばかりで退屈な暮らしには飽き飽きしてるんだ、身体中が新鮮さを求めているんだよ。」
「そんなこと言われても心当たりがないからな…」
屋敷の主人が友人にしつこく問い詰められている間、使用人の青年は仲間と愚痴をもらしていた。
「まったく、退屈しのぎに薬を飲んで一日限定で記憶喪失になるだなんて、何が楽しいんだか。」
「ほんとだよ。暇を持て余した金持ちは何をしでかすかわからんな。
でも考えてみろよ。ある日目覚めたらこんな大豪邸の主人になってるんだぜ。そりゃあ新鮮で楽しい一日になるだろうさ…」
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