4人目:ある契約を結んだ女の場合

「何ここ、寒っ…」

私はふと気づくと、寒々しい空の下に立っていた。

なんでこんなところに一人立っているのか、自分でもさっぱりわからない。

冷たい潮風に乗った細かな水飛沫が頬に当たる。


「なんでこんなところに…きゃっ!」

私は足元を見下ろすと思わず声を上げてしまった。

そこは数歩先には何もない、切り立った崖の上だったのだ。

遠くの景色しか見ていなかったので、自分の足元には全く気づかなかった。

「なんでこんな崖の上に…」

冷たい潮風と荒々しい海の波音で、不安が煽られた私は助けを求めるように誰かをよんだ。


「誰か!誰か、いないの…」

しかし、誰の返事もなかった。

「無理もないわね…

こんな場所に人がいるはずなんてないわ。」

とりあえず、この崖から降りようと振り返った私は、

見知らぬ男が背後にいたのに気づいた。

「あなた…誰?いつからそこに?」

私の目の前には、痩せこけた男が立っていた。

幸の薄そうな顔つきで、どこか異様な気配を放っている。


「何ですか、僕のこと、呼びました?」

「確かに誰でもいいからって呼んでみたけど…あなたは誰なの。」

すると、男はやれやれと言った顔で下を向く。

「そうか、あぁ。そうだよな。うん…」

「何なのよ、はっきり答えてちょうだい。」

「悪魔ですよ悪魔。まぁ、これを言うのも二回目ですが。」

「嘘…悪魔ですって。」

私はまじまじと男の姿を見る。

確かに、人間離れした雰囲気も感じられる。

私が振り向くまで存在を気づけなかったのもどこか納得できるほど、

消えてしまいそうな存在感だ。


「どうして悪魔がこんなところにいるの。」

「それはあなたと契約したからですよ。」

「契約?そんなのした覚えはないわ。」

「ええ、そうでしょうね。そういう契約ですから。」

私は混乱してしまった。

「ちょっと待ってちょうだい、悪魔の契約って言うと、

その…魂を取られるみたいな内容の物よね?

じゃあなんで私はまだ生きているの?」

「あぁ、そうかこれも説明し直しか…

今回の契約では、あなたから魂を頂いていないんですよ。

その代わりに、それと同じくらい大切なものを。」

それを聞いて私はハッとした。

「もしかして…私の記憶ってこと?」

「ええそうです。

お互い合意の上での契約だったので、

どちらも損はなかったはずなんですがね。」

私はそれを聞いて心がざわついた。

なぜ私はそんなにも望んで悪魔なんかと契約をしたんだろう、と。


「その私の記憶っていうのは、どういうものだったの。」

「そんなのお答えできませんよ。契約の意味がなくなる。」

「そこを何とか、お願いできないの。」

自分の記憶が無くなった今、それが相手の手中にあるとなると、

どんな内容であれ私はすがりたくなるほど返して欲しく感じた。

「ううん、まいったな。」

悪魔は俯きながら少し考えると、やがてニヤリと口角を上げてから答えた。

「では、先ほどの契約は破棄ということで結構です。

ですが、記憶をお返しするにあたって一つ条件が。

あなたが今後一ヶ月以内に亡くなった際は、私に魂を受け渡してくだい。」

思わぬ条件に、私はあっけに取られた。


「そんな交換条件でいいの?

私が一ヶ月以内に死ななければ、魂は手に入らないのよ?」

「ええ。大丈夫ですよ。それでは契約成立ということで?」

「勿論いいわ。その記憶を返してちょうだい。」

「では、私の前にひざまづいてください。」

「こ、こう…?」

私は頭を下げる形で、悪魔の前にひざまづいた。

すると私の頭の上に悪魔が手を添えると、一気に脳内に記憶が流れ込んできた。

「あ…あ…」


一気に様々な情報と感情が脳内に雪崩れ込み、私は言葉が出なかった。

悪魔は手を添えながら、私に話しかける。

「因みに前回の契約ですがね。

失恋、友人からの裏切り、仕事の失敗と散々な目に遭い、

人生のどん底にいたあなたは、この崖に身を投げにいらしてました。

そこに現れた私が、あなたの記憶をもらって差し上げましょうと提案したんです。

あなたは、ここで悪い記憶を消して人生をやり直せるなら本望だと、

二つ返事で私に、魂と等しいほどに貴重なご自身の記憶を差し出しました。」

「そんな…私…ここで…」

私が必死に頭を整理しながら言葉を探しているうちに、いつの間にか悪魔は消えていなくなっていた。


「待って…私を置いていかないで…」

一気に私の元に戻ってきた記憶は、どの思い出も、どの場面も私の心を締め付けた。

裏切った友人が見せた私を嘲笑う顔、私に見切りをつけて去っていった恋人の後ろ姿、

仕事の失敗で感じた強い焦燥感と大きな絶望感…全ての記憶が一人崖に取り残された私に牙を剥いた。

海からの潮風がより一層強く吹いたように感じた。

波の打ち付ける音が、私の頭の中で反響する。

呼吸がどんどん早くなり、私は叫びたくなるほど、

見えない何かに押しつぶされるような感覚を覚えた。


気が付くと、私は、

何もない崖の先の方へと歩き始めていた。

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