3人目:ある逃げ出した訓練兵の場合

「いやぁ、何にしても、わからないものはわからないので。」

椅子と机だけが置かれた取調室のような簡素な部屋の中で、

若い訓練兵は何も置かれていない机を見つめながら呟く。


「そんなはずないだろう、いい加減にしろ。

あれだけ優秀だったお前が、急にどうしたと言うのだ。」

「すみません。」

「参ったな。これじゃラチが開かない。」

彼の教官を勤めていた私は、思わずため息をつく。


「なぜいきなり訓練場を逃げ出したりなんかしたんだ。

今日の残りは座学の試験だけであっただろうに。」

「だって、できない試験に出たってしょうがないじゃないですか。」

私の目の前でボソボソと呟く彼は、かつては座学も運動もピカイチだった、

ひときわ優秀な訓練兵であったとは思えないほど情けなく見えた。


「全く、運動成績も座学成績も群を抜いて優れていたお前が、

士官学校を突然逃げ出すなど信じられない。

このまま研鑽を積んでいれば軍の幹部にだってなれたのに。

そうすれば、きっと貧しい実家の家族にもいい思いをさせられただろう。」

「はぁ…まぁそうなんですが。」

「なぜ座学の試験から逃げ出したんだ。」

「試験に答えられないので。」

「そんなはずないだろう。いつも成績は優秀だったのに。」

すると、私のもとに部下がやってきた。


「教官、逃げ出したそこの彼ですが、

一種の記憶喪失になっている可能性があります。

おそらく、今彼は学校でのことや、

ここで覚えた座学知識などの情報を失っているかと。」

「何、記憶喪失だと?」

「この士官学校は独自の過酷なスケジュールと生活環境から、

毎年多くの脱落者を出しています。

今回の彼も、ある種のストレスや負荷がかかりすぎ、

このような突発的記憶喪失のような状態になってしまったのでは。」

なるほど、と私は思った。

確かに日々彼ら訓練兵は、朝から夕方までハードな体力訓練を行い、

その後は間髪入れず高度な座学講習と試験を連続してこなしている。

一日の睡眠時間はほとんどなく、毎年多くの者がリタイアしているのも事実だ。

それに加え、彼は貧しい家庭の出身で、なんとしても将校になりたかったはずだ。

そんなプレッシャーと、人間離れした訓練内容の疲労に押し潰されてしまったのだろう。


「わかった。報告ご苦労。後は私の方から話をしておこう。」

私は部下を部屋から出すと、今一度、目の前の彼と向き合った。

「事態は把握した。確かに、この学校での暮らしは過酷だ。」

「はぁ。」

「しかし、その過酷な生活を耐え抜けるものこそ、

出世するに値すると言うものだ。」

「はぁ。」

「心に負荷がかかっていたのはわかった。

だから、今日はもう休んで試験は明日受けるといい。」

「いや、それはちょっと…体力試験に変えてもらえませんか。」


私はその発言に少し違和感を覚えたが、

責めるのもよくないと思い彼に寄り添った。

「そうか、明日中には記憶が戻りそうにないと言うことか。

よし、それでは座学試験は記憶が戻ってからで構わない。

しばらくの間、誰もいない個部屋を用意し、

外から邪魔も入らないように見張りもつけよう。

自分だけの時間をすごしてゆっくり休むといい。」

「いや、それは勘弁してください。

この通り、この通りですから明日は体力試験に変えてください。

頑張りますから、精一杯やりますから。」

「いったい何だと言うのだ。

ここまで記憶が戻るように手筈してやると言ってるのに。」


私が憤って席を立ち上がったその瞬間、再び部下が部屋にやってきた。

「教官、失礼します。緊急のご報告が。」

「後にしろ。今は取り込み中だ。」

「しかし、今朝逃げ出した訓練兵を捕まえまして。」

「それは今ここに座っているだろう。」

「いえ、その彼とは別の訓練兵です。」

「何?今朝逃げ出したのは一人だと聞いていたが…」

私が振り向き、捕まった訓練兵の顔を見ると、そこには既に見知った顔があった。

まさに今私が話していた彼と、瓜二つの顔だったのだ。

「こ…これはどう言うことだ。何故同じ顔が二つ…」

すると、部下の連れてきた方の訓練兵が観念したように口を開いた。


「実は僕たち、一卵性の双子なんです。

座学の得意な兄である僕と、運動の得意な弟で、

上手く入れ替わりながら訓練を受けていまして…」

すると席に座っていた方が喋り出した。

「座学の試験前にお兄ちゃんが見当たらなくなっちゃって、

それで焦って訓練場から逃げました。僕は運動しかできないから…」

「そして、僕は消えた弟を探しに、訓練場の外へ出ました。

決して逃げ出すつもりはなかったのですが、

弟が見つかるまではそう簡単に戻るわけにもいかず…」

「そんな…何と…」


私はいきなりのことに言葉もなかった。

人並外れたスタミナと知力をもつ訓練兵だとは思っていたが、

まさか交代制だったとは…

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る