[にっ] 鈍くさい系絵描き少年に助平疑惑





 彼女は、いつものように早朝の街をを歩きバスに乗る。


今回は忘れ物はないようで、良かったよ。




 いやいやいや、良くはない。良いわけがない。


僕はのん気に眼鏡なんてやっている場合じゃないんだよ。


制作途中の作品を、あと一週間で仕上げて提出しなくてはならないのだ。


どうにかしてこの現状を打開して、何がなんでも元の身体に戻るんだ。


そして一刻も早く作業を再開しなくてはならないぞ。




 混乱状態のままで学校に到着。


夕原さんは僕のこんな気持ちなんぞつゆ知らず、スタスタ昇降口から階段へ。


そこで背後から声がかかる。


「おはよう、映奈えいな君。今日は遅刻じゃないんだね」


振り返れば奴がいた。


振り返ったのは夕原さんだけど、自動的に僕も一緒に動いてしまうのだ。




 スラリとした体躯たいくと、ニヤニヤ笑いな狐目きつねめの男。


うっとおしそうな前髪を右手でふぁさりとき上げたのは、この学校の美術教師。


僕が所属している美術部の顧問こもんでもある。


「おはようございます、神田川かんだがわ先生。ご存じでしょうけど、昨日はクラスメイトに怪我けがをさせてしまったので……それで、病院に付きっていたんです」


「ああ、そうだったねぇ。春田はるた君の容体はどうなのかな?」


「外傷はないのですが、意識が回復しないんです。軽い脳震のうしんとうという診断でしたが、心配で……」


「そうだったのかい、君も大変だったねぇ。彼、ちょっとどんくさいから」


おい、そこの美術教師! 誰が鈍くさいって!? 人が聞いていないと思って言いたいことを言いやがって。


「はぁ、そうでしょうか。今回は私がいけなかったんですよ。私があせってあんな無理をしなければ……」


「まぁ、そう落ち込まないで」


「……はあ……ありがとうございます」


二人の会話に割って入るように始業の予鈴が鳴り始める。


「あ、授業が始まるので……それでは失礼します……」


「ああ、じゃあまた。……あとで君に折り入って話があるんだよ。今日の放課後にでも準備室に寄ってくれないかい?」


「え? 私にですか?」


「そう。……それじゃあね」


「………………」


言うだけ言った神田川は、夕原さんを追い抜いて廊下の先を曲がっていったのだった。


その日、僕のいない教室は何だかよそよそしい空気が漂っていて、落ち着かない雰囲気なままで一日のノルマが流れていった。





 放課後の部活動。


夕原さんは欠席することにしたようだ。 


彼女は走り高跳びの選手で、それはそれは綺麗きれいなフォームで宙を舞う。


うん、美術室の窓から良く見えるんだ。


病院に見舞いに行くのと、美術準備室に呼ばれている旨を顧問に言ってその場を後にする。


グラウンドを振り返ると、こちらを見ながらひそひそ話をする部員たち。


いや、振り返ったのは夕原さんで、僕はくっついているだけだけど。


えっとね、今日は用事があるから大目にみてほしいんだよ。




 そのままの足で美術準備室へ。


トントンとんと、静かにドアを叩く。


「はい、どうぞ……」


「……失礼します」




 神田川は、奥の机で書類を作成していた。


ふと、書類の見出しが視界に入る。


【全国高校絵画コンクール応募用紙】


厭味イヤミなヤツだけど、仕事はできる。


ちゃんと部員全員分の書類があった。


「やあ、呼び出してすまないね。今日は折り入って君に頼みたいことがあるんだよ………………」


「……何でしょうか」


神田川はニヤリと笑うと、早速用件を切り出した。






 深々と頭を下げる夕原さん。


「先生……申し訳ありませんが、その話はお受けできません」


「ええ、どうして? 有力な入賞候補だった部員が倒れちゃって困っている僕のお願いを、ちょっとくらい聞いてくれても良いんじゃないのかな?」


「でも、春田君の件と先生の絵のモデルをやるのは直接関係ないじゃないですか。部活があるので無理なんです。……それに、私にモデルが務まるとは思えませんし……」


「う〜ん、……君は義理堅い子だと思っていたんだけどなぁ。残念だよ。……じゃあ、もし気が変わったらいつでも声をかけてくれたまえよ」


「はあ……、すみません……」


小さな声で失礼しますと言いながら、スライドドアを静かに閉める。


うつむいて、長く大きな溜め息を吐き出す夕原さん。


ああ、ホントごめん。うちの糞な顧問が申し訳ない。


彼女に余計な心労をかけてしまったな。





 僕がこんなになったのは、ちょっとした事故なのだ。


彼女の罪悪感に付け込んで、何を勝手に変な依頼をしているんだよ。


顧問が絵を描いているのなんか見たこともない。


モデルなんて必要ないだろうが。


常々イヤな奴だと思っていたが、ここまでとは。


とにかく彼女が気丈に断ってくれてよかったよ。


何をされるか分かったもんじゃないからね。


男はオオカミなんだよ。とくにアイツは要注意。













 その後すぐに近所の総合病院へ。


僕の本体は、三階の角にある個室にのん気に横たわっていた。


ベッドサイドには、彼女が持ってきた花が生けてある。


それを生けたのは、我が妹の美咲みさきだ。


一つ年下の美咲は、夕原さんと同じ陸上部で短距離をやっている。


種目は違っても、仲の良い先輩と後輩だと思う。


「先輩、大丈夫ですよ。お兄はその内、ひょっこり目を覚ましますから。だから、明日はちゃんと部活に出てくださいね」


「……うん、ありがとう美咲ちゃん」


「うちのお兄のことだから、美人さんの下敷きになれて本望だとかいうにきまってます。きっと今なんかも、脳内でのん気に助平スケベエな夢でも見てるんですよ」


おい、ちょっと何言ってくれてんの!! 


妹よ、これじゃぁ僕のイメージが。


お兄ちゃんの扱いが酷すぎる。


まあ、本人の心情なんかお構いなしに、僕の助平疑惑は華麗にスルーされたわけだけど。


きっとこれも夕原さんの優しさなのだろう。


うん……けなされるのも嫌だけど、なかったことにと流されるのも酷いんだよ。


兄のひそかな心痛をよそに、二人は仲良く病院を後にしたのだった。



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