C

 今となっては遠い記憶になってしまいました。

 両親の顔も、友達の顔も、いえ、そもそもいたかどうかさえも覚えていないのです。


 わたしには“仲間”がいました。あのどこまでも無機質な海底基地で、共に学び、訓練し、支え合った仲間。彼らの顔なら、今でも思い出すことができます。

 みんなわたしと同じ境遇だったのです。帰りたいという人もいれば、それこそが自分の天命だったのだと前を向く人もいました。


 彼らも、いまではみんなどこかに行ってしまいました。


―――


 海の中で、あるいは海の底で、それからずっと生きてきました。わたしと接する人は代わる代わるで、わたしは彼らの命令に従って仕事をしてきました。彼らはわたしを道具として扱いました。人の行けないような場所、人ができないようなことをするのが役目だそうです。それ以外はずっと眠らされていました。


「……つまり、フユ、あんたは二十五年の間、ずっと」


 正直なところ、何年経ったかなんて覚えてないのです。海の中は花も咲かないし、雪も降らないのですから。でも“陸”にいた頃の記憶だけは、なんとなく、ずっと覚えていました。


 ある時、わたしは自殺することにしました。海の中でしか生きていけない身体にされたのなら、陸に上がれば死ねるだろうって。

 別に何かショッキングなことがあったわけではありません。思いつきみたいなものです。今思うと、そんなことをしでかすアタマが自分の中にあったことがちょっとビックリですけれど。

 それで、任務を放棄して、わたしはここに来ました。そしてトウヤさんと会いました。


 今が何年だったかも、トウヤさんに言われるまで分かりませんでした。そうそう、そうです。わたしはウラシマタロウというやつです。人魚のほうがキレイで良いのですけど。


「二十五年ぶりに陸に上がって、他の人間と会って、で、第一声が“腹が減った”なのか」


 砂に寝転んだトウヤさんはわたしの目を見て、呆れたように言いました。

 そうなんです。

 陸に上がったらどうしよう、死ぬまで何かやってやろうとか、色々考えてたような気もするのですが、そんなのは全部消え失せてしまいました。唯一残った感情が“空腹”だったのです。


「街に行こうとか昔を思い出してどこかへ行こうとか、そういうのは思わなかったのかよ」


 それが、不思議なことに無かったんです。ただこの浜にいて、ずっと海を見ていました。いつまでも代わり映えのしない、曇り空の続く空と、灰色に泡立つ海を。


 ここに来たのが夏だったら何か変わっていたでしょうか。きっと夏でも冬でも、わたしは同じ事をしていたでしょう。

 ここだけ、時が止まったような、何も変わっていない、静かな浜。


 だから、ここでぼーっとしたまま、ゆっくり死のうって思ってました。

 そんな時です、トウヤさんと会ったのは。


 わたしは押し倒した姿勢のまま、掌でトウヤさんの頬に触れます。

 素肌の部分が意外と暖かくないのは、きっとこの寒空のせいでしょう。

 それでも、ずっと触れていると、少しずつ暖かさを感じるようになりました。


「今からでもやりたいことがあれば、何かできるんじゃないか」


 やっぱりトウヤさんは優しい人だなあと思いました。わたしはゆっくり首を横に振って、倒れたトウヤさんの身体を抱きました。

 二人とも砂にまみれて、きなこ餅みたいになっていました。そういえば、きなこ餅も食べ損ねていました。寒い冬にあつあつのお餅。いいな、また食べたかったな。


―――


 結局、わたしは死ぬのが怖くなって、それでメンテナンスのために海に還りました。誰もバレないように戻り、施設で“充電”をして、そしてまたここに来ました。たぶん“あの人”達にはとっくにバレているでしょう。

 なんでそんな未練がましいことをしたのか、自分でもよく分かってません。


「逃げようって思ったことは」

 こんな時はそういう方がドラマチックなんでしょう。きっと。

 でも、わたしはもうきっと、陸には戻れない。戻ったところでわたしはただのエイリアン。かつてのわたしから切り離されたからっぽの身体なのです。

 寂しいとか悲しいとか、そういう感情はありません。施設から抜け出すなんて思い切ったことをしたわりに、わたしがやることと言ったらこんなモンなのです。でもまあ“こんなモン”で、実際、わたしは充分でした。昔から、わたしは迷ってばかりなのです。


 トウヤさんは、持ってきたコンビニ袋を開けます。


 いるかどうかも分からないのに、ちゃんと買ってきてくれたんですね。

「本当は二十四日に渡したかったんだけど」


 中身はケーキでした。

「やべえ」

 トウヤさんが眉をひそめます。

「……あの店員、フォーク付けるの忘れてやがる」


 不満そうな顔を浮かべたトウヤさんがおかしくて、わたしは笑ってしまいました。


 それから、1ピースのショートケーキを、わたし達は砂まみれの指でつまみながら食べました。イチゴはわたしのものでした。甘くておいしくて、ちょっとだけ砂でジャリジャリするケーキでした。


 そうして食べ終わった後、わたし達は抱き合ったままずっとそこにいました。お互いに雪と“きなこ”まみれになりながら、暗くなるまでそうしていました。


 ほんとうに。ほんとうに、それだけでわたしは充分だったのです。

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