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 今年の三月。大学受験に失敗して、俺はこの街に取り残された。


 俺の高校では、進学するクラスメイトの大半が東京へ出た。たとえ同じ県の都市部にある国立大に行ける学力があるとしても、多くの人間は東京の私立大に出ることを選んだ。


 俺だってそう……と言いたいところだったが、なんだかんだ、俺はこの街にいた。結局は実家に留まったまま地元の予備校通い。年明けの試験の結果は限りなく厳しい予測。それでも未だ危機感は薄い。


 本当にこの街を出て行きたいのか、それとも現状を維持したいのか。

 変わりたいのか、変わりたくないのか。


 わからなくなるたびに、俺はいつも砂浜をぼんやりとぶらついていた。


 あっちへふらふら、こっちへふらふら。綱渡りのような足つきで。


―――


「なるほど。ヨビコーセーさん、ですか」

 とはいえ、はっきり言われるとそれなりにキツいものがある。

「でも、いっぱい勉強できるって、いいことじゃないですか。わたしも、機会があれば色んなことをたくさん学びたかったなって」

 海の底にも学校があるのだろうか。

「ええと、その……いえいえ、ありますよ。ありますとも! イルカとかラッコとか、そういうクラスメイトがいるわけです。わたし、けっこう人気者だったんですよ。女の子の……いえ、人魚、って、とっても珍しいですから。――みんな、どこかに行ってしまいましたけどね」

 どこかへ?

「海のガッコーが終わって、仲の良かったコも、そうじゃなかったコも、みんなバラバラになったんです。どこかへ。みんな、自分の役目を果たしに」

 海風にはためく髪を押さえもせず、フユは灰色の海の向こうを見つめて呟いた。

「トウヤさんは仲が良かった子、って、いますか?」

 パッと言われても、すぐに思いつかなかった。正直なところ、そんなに社交的な高校生活を過ごしてきたわけではない。けれど、ふと思い出した顔が一人だけいた。


 ――あたしは早く、このクソ田舎から出て行きたい。


 高校の頃、夏期講習でたまたま一緒になった他クラスの生徒がいた。乾いた瞳が印象的な女生徒。今となっては名前も覚えちゃいないけれど、どうしてか、最初に彼女の顔が浮かんだ。仲良くなったわけではない。講習が一緒になったのだって一度か二度だ。俺と同様に、周りの人間と話しているところなど見たこともなかった。だが、何故か彼女は俺だけにそんなことを言ったのだった。単なる世間話の類いではない。おそらくそれは本音に違いなかっただろう。街もクソ。人間関係もクソ。親戚もクソ。ここにいたって何もかもが上手くいかない……とにかく、彼女はこの街を嫌悪していた。


 俺はその呟きに何と答えていただろうか。


「……もしかして、女の子のこと、考えてます?」


 思い出した顔とは対照的な、濃い茶色をした瞳がふたつ、じっとこちらを見ていた。


「でも」

 彼女は言う。

「今の生活を変えたり、道を決めるのって大変なんですよ。どっちにしようかなって迷ったりするのって、ぜんぜんヘンなことじゃないですよ」

 フユは海に残ることを良しとせず、陸へと身投げした。

「トウヤさんが迷ってるように、わたしも迷ってるんですから。ちょっと安心したんです」

 そしてこの“境目”の砂浜に留まっていた。

「わたし、今でもそうなんです。海へ戻ろうか、それとも陸に打ち上がって枯れ果てるのを待つか、悩んでるんです。ここまでやっておいて、どうしてか……どうしてでしょうね」

 そこに、俺が来た。

「海から出るって決めたはずなのに、きれいにいかなくて。最後の最後で踏みとどまって。まあ、こうやって美味しいものを食べられてるので、それは幸いでしたけど」

 やはりメシだったか。

 フユはとにかく甘かったり塩っ辛いものを好んだ。味の濃いものが好きらしい。

「こうしてトウヤさんに会ったのも何かの縁。いやはや、ふしぎなものですねえ」

 身投げをしたとは思えないくらい、彼女はころころと表情を変える。

「わたし、トウヤさんに会って良かったなって思いますよ。ゴハンのこともそうですけど……それから……色々。そう、色々です。だから、もう少し――」

 フユは何かを言いかけて止めた。


 ばいばい、と手を振って、いつものように別れ――そして翌日、彼女は、突然姿を消した。


―――


 やがて十二月も半ばを過ぎ、商店街は中途半端なクリスマス装飾に彩られ、スーパーの棚には季節限定のパンやら生菓子やらが並びだした。


 いつの間にか、俺はフユと会うのが日常だと思い始めていた。

 今日は限定いちごクリームパンとかいうのを買っていくか。スーパーの袋をぶら下げた俺は、しかしとうとう彼女の姿を見つけることができなかった。翌日も、その次の日も、フユが喜びそうなパンを買って、毎日砂浜に通い続けた。それでも彼女はいなかった。


 なんてことはない。半月前までの日常が元に戻っただけだ。いつも通りの生活があり、予備校は続き、家に帰れば家族がいる。そう自分に言い聞かせようとしたが、割り切れなかった。フユは行ってしまったのだろうか。あのウェットスーツを着た小さな人魚は、海に戻っていったのだろうか。灰色に泡立つ、冷たい海の底へ。


 ある日。俺はとうとう予備校にも行く気が起きなくなり、起きてから部屋でゴロゴロと過ごしていた。結構な量の雪(山間部に比べればマシらしいが)が降る窓の外をただぼうっと眺めているうちに午前中が過ぎた。いつもはうるさい母親も今日に限っては何も言ってこない。気を遣われるのは癪だが、こんな時ばかりはありがたかった。


 そういえば、と、昼食を食べた後、母親は俺に地方新聞の記事を見せてきた。


 “あれから二十五年。行方不明者、未だ還らず”


 あんたが生まれる前の話よ、と母親は言った。まだ高校生だった両親は、よくあの砂浜でデートしていたらしい。ベンチに座って海を眺め、何気ない話を交わすのが一番の楽しみだったと。そのうちに行方不明事件が発生し、砂浜は閉鎖された。もし二人とも、どちらかだけでも巻き込まれていたら、あんたは生まれなかったかもね、と。

 母親は今まで、あまりこのことに言及しなかった。確かに良い記憶ではないのかもしれないが、いったい何故なのかと問うと、母親はコーヒーをすすり、こう言った。


 ――私のクラスメイトにも一人、卒業した後、すぐ行方不明になった子がいてね。


 そして昨晩、母親は夢を見たという。それは、高校時代、その消えたクラスメイトが親しげに話しかけてくる夢だったそうだ。やたら甘いものや味の濃いものが好きで、よく笑う女の子という印象があったらしい。

 あの子はどこに行ってしまったのかしら。今まですっかり忘れていたのに、二十五年も経った今になって不思議なことね、と。


 背筋が一瞬冷えた。

 卒業アルバムはないかと俺は問う。訝しげな顔をしつつも、母親は棚から古いアルバムを取り出してくる。ページをめくる。3-D組。女子17番。ほら、この子よ、と母親が指を差す。この写真が撮られて半年後に失踪したの、と。


 その顔に、見覚えがあった。


―――


 十二月二十二日。雪の降る午後。

 アルバムを確認した俺は、コンビニに行く、と嘘をつき、家を出た。

 いや、嘘じゃない。コンビニには寄った。その上で、俺は浜へと向かった。


 二十五年前。浜で失踪した少女。よく笑う、甘いものと味の濃いものが好きな少女。お前は一体誰なんだ。アイスバーンに滑りそうになりながらも、早足で俺はあの浜へと急ぐ。


 果たして、そこにフユはいた。

 ダイバースーツを脱ぎ去り、一糸まとわぬ姿で、冬の海浜を見ていた。


「……忘れられちゃったかと思ってました」

 人魚は背中越しに呟いた。その顔は見えないが、きっと寂しげに笑っていたのだろう。

 お前こそ、勝手にどっか行きやがって、と返すと、フユはごめんなさいと謝った。


 そして俺は気付いた。ダイバースーツの下の、フユの肌に。その背中にあった異物に。

 背骨の……脊椎あたりに埋め込まれた、銀色の球体が三つ。


「このままメンテナンスをしなかったら、わたしは陸で死ねたんです。ゆっくりと身体が動かなくなって、呼吸も止まって、眠るみたいに」

 聞き慣れない言葉がフユの口から出た。

「だけど、勿体なくなっちゃったんです」

 フユはこちらに振り返った。相変わらずの笑顔がそこにあった。

「一度決めたんだから迷っちゃダメだ、って自分に言い聞かせてました。でもトウヤさんと会って……それで、あなたも迷ってたから、わたしもついつい迷っちゃいました」

 濡れた砂浜にひたひたと足跡を残しながら、裸のフユがこちらに近づいてくる。首筋と右腰にも、同じような銀球体が埋まっている。

 目の前まで近寄ったフユが、そのまま俺の首に腕を回してくる。その肌はぞっとするほど冷たかった。


 俺はフユの“本名”を口にした。1973年。十九歳の夏、この浜で姿を消した少女。


「……人魚、ってことにしておきたかったんですけどね」

 耳元でフユは呟いた。

「トウヤさん、暖かいですね。この暖かさが欲しくて戻ってきたようなものなのに。もっと早くこうすれば良かったかもって。でも、今さらですね」


 突然、俺は尋常でない力でその場に押し倒された。

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