冬の海浜にすさぶ
黒周ダイスケ
O
日本海からは吹き荒れる冬の海風。
流木やゴミまじりの、ざわざわと泡立ちながら押し寄せる波。
長い髪が風に巻き上げられるのを手で押さえながら、彼女は笑う。
「どうも。わたし、人魚です」
俺がフユを見つけたのは、モノクロームの景色に包まれた人気のない冬の砂浜だった。
―――
街の通りを外れ、防風林を抜けて少し歩いた先に、その浜はある。
以前はここも多くの人で賑わう海水浴場だったという。俺が生まれる前の話だ。
ところがある時、この街で事件が起きた。砂浜に行った若者が突如として行方不明になったのだ。その数、一年間でおよそ十人。当時は全国的なニュースにもなり、様々な騒動や“北側”絡みのあれやこれやの憶測が流れ、情勢問題にもなったという。
そのすぐ後にこの砂浜は閉鎖された。
そして今。もはやこの国の人間の多数は騒動への興味をなくしていた。けれど一部の団体はいまだに活動を続けているし、この街も事件を引きずっている。この砂浜も封鎖こそ解かれたものの、わざわざこんな“いわくつき”の場所で泳ごうとする人間はいない。落書きだらけで朽ちた海の家の廃墟、かつて駐車場だったと思しき空き地、そしてフェンスの残骸が残る、寂れた砂浜だ。
ここは、俺にとってはちょっとした秘密の散歩コースみたいなものだった。予備校の帰り、近所のコンビニで缶コーヒーを買い、ぶらぶらと歩いて過ごす。親にも、そして街の大人達にもバレないよう、こっそりと。
年の瀬のせまる1998年12月はじめ。冬の、曇り空の続くある日。
今日も俺はそこにいた。
海岸線は遠くまで続き、向こうには物々しい原子力発電所がある。送電線と鉄塔。街並は中途半端に積もった雪でまだら模様になっている。
これが俺の住む街。日本海沿いの、なんてことない地方都市。
錆びたベンチに腰掛け、温くなった缶コーヒーをあおり、時計を見る。午後四時。あと一時間もすればすっかり日は落ち、このあたりは真っ暗になる。そろそろ帰るか、と立ち上がった俺は、砂浜に人影を見た。
それは一人の少女だった。
―――
「どうも、わたし、人魚です」
ぺこりと少女は頭を下げた。
海風で湿気た長い髪。小さな背丈と細い手足。にこにこと笑う無垢な顔つき。グレーのウェットスーツを着ているところからして、波乗りでもしていた地元の中学生か高校生あたりだろうか。
「はずれです!」
俺だってこの街の全ての人間を知っているわけじゃない。多少不思議なアタマではあるようだが、こんな子もいるだろう。
「だから違うって言ってるじゃないですか」
ぼちぼちあたりも暗くなる。家に帰ったほうがいいと促して、俺はその場から去ろうとする。その手が掴まれる。
「それで、ええと、あの。いきなりなんですが、お願いがあるのです」
掴む手に力が込められる。
「ご飯、なにか、買ってきてくれます?」
――家なし。金なし。身分なし。おまけに自分はこの砂浜から出られないのだとほざく。
放って帰るのが最適解なのだろうが、次に浜に行った時に死んでいても寝覚めが悪い。
しかし人魚は何を食うのだろうか。生魚でも与えてやろうかと思ったが、さすがに意地悪が過ぎると思い、コンビニで鮭おにぎりを買う。
「お、おお」
包装フイルムを外すのに苦労しているようだったので、剝いてやる。たかがそれだけのことに感動したらしく、大きな瞳がキラキラと輝いた。そうして剝いたおにぎりを手渡すと、彼女は一気にむしゃむしゃと食べた。本当に餌付けしている気分だ。
「お兄さん、いい人ですねえ」
いい人、だなんて呼ばれても、どうしたものか。ついでにお兄さん呼ばわりも何かこそばゆいので、名前を伝える。
「トウヤさんとおっしゃるんですね。わたし、フユといいます」
「わたしはしばらくこの浜に居ます。お兄さ……ああいえ、トウヤさんのこと、ここでまってますから」
警察に電話しようかとも思ったが、止めた。騒ぎになって、それで俺が浜に行っていることがバレても面倒くさい。ひとまず、その日はとっとと家に帰った。
―――
もしも、突然、ここで俺が消えたらどうなるだろう。あの砂浜で佇む時、たまにこんな妄想をしている。両親は嘆き、街はまた騒動になるだろう。しかし、他に誰が悲しむだろうか。そもそも行方不明になった者がどうなったか、それすら誰も知らない。何しろ一人も帰ってきていないのだ。どこかに連れて行かれたのか、それとも殺されたのか。
せめて海の泡のように、この世からふっと消えたりできればな、と思ったことは何度かある。そういう意味で、俺があそこをぶらつくのは、どこかそのあたりの、“こちらとあちらの境目”を歩く感覚を味わっているのかもしれない。この浜にはそう思わせる何かがあった。
そしてあの日、まるで海の泡から出てきたかのように、フユは現れた。
「トウヤさん! 今日のゴハンは!」
そして、すっかり懐かれた。
「ほう! コッペパン! ジャムとマーガリンがほどよくマッチしてこれは……美味」
なんてことのない菓子パンひとつ与えるだけでも、フユははじめて見たかのように無邪気に喜ぶ。年頃の……というほど年齢が離れているだけではないけれど、とにかくフユは物知らずだった。
「なんだか懐かしい味」
懐かしい?.
「いまの人間の社会って、こんなにどれも美味しくて、便利になってるんですねえ。わたしの頃は……あ、いえ、なんでもないです」
人間の社会、ときた。まるで本当に自分が人魚であるかのような口ぶりだ。
そんな人魚の餌付けをしてから数日。結局、俺は彼女のことを周りに言えないでいた。他の誰かに見つかることもないまま、ずっとそこにいた。
小さな街に現れたエイリアン。彼女の存在を知るのは自分だけ。
一体彼女はどこから来たのか。一体彼女は何者なのか。
ある日、俺は率直に聞いてみた。
「ああ。えへへ、それ……聞いちゃいます?」
てっきりはぐらかされるかと思いきや、フユはどこかばつが悪そうな笑みを浮かべた。
「このまま聞かないでいてくれたらなあ、なんて思ってたんですけど。ああ、いえ、トウヤさんは悪くないんです。確かにおかしいですもんね」
今さらそんな真面目に返されたところで反応に困る。
「あのですね」
彼女は俺の目をじっと見つめ、そっと口を開く。
「わたし、死にたくなって、身投げしたんですよ。でも、うまく死ねなくて、ここにいるんです」
――なんだって?
「ほら。わたし、人魚でしょう? 人間が海に身投げをするみたいに、わたしは海から陸に“身投げ”したんです」
俺は空を見上げた。薄曇りの冬の午後。砂浜。
「きれいにはいかないですね」
もしこの砂浜が本当に“こちらとあちらの境目”なのだとしたら。
彼女は。
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