第9話



 その後、すぐに玉玲は料理を作って獄舎に届け、それを食べた猫怪たちの怪我はいくらかの回復を見せた。

 他のあやかしたちにも料理をふるまい、周囲の空気も多少はよくなったように思えたのだが。


   ※


 ずーん。

 そう音が聞こえてきそうなほど重苦しい空気が部屋に充満している。


 玉玲は臥牀の上に腰をかけ、うつむきながら黙り込んでいた。

 部屋には今、玉玲の他に十匹の猫怪がいたが、音を立てる者は誰もいない。

 この日の出来事をいまだに引きずっているのか、猫怪たちも無言で腰を落としている。


 そんな中、事情を知らない人間が、玉玲の部屋を訪ねてきた。


「昨日よりも増えてないか? 今日はやたらと静かだが」


 仕事を終えてやってきた幻耀が、部屋の様子を見て目を丸くする。

 この日増えた猫怪は三匹。幻偉に殿舎を追い出された際、抵抗せずに逃げた猫怪たちだ。玉玲は後になって彼らの存在を知り、臨時の処置として部屋に招き入れたのだった。


「第四皇子に追い出された子が他にもいて。新しい住処を見つけてあげることができなかったから」


 北後宮のことであまり心配をかけたくなくて昨日は相談できなかったが、自分の力だけではどうしようもない。玉玲はこれまでの出来事を全て幻耀に話すことにした。

 双子の皇子と幻偉たちの横暴な所業。獄舎に閉じ込められた猫怪がいることや、せっかく築いた菜園を紫妍たちに撤去されてしまったことまで。


「どうすればいいでしょう? あやかしたちもしょげて、空気が悪くなるばかりで」


 料理をふるまったことで空気が改善したとはいっても、本当に少しだけだ。空気が悪化したことに何ら変わりはない。


「ちょっと俺の部屋へ来い」


 暗い表情のままうつむいていると、幻耀がそう言って玉玲の腕を掴んできた。


「え? でも……」


 玉玲は戸惑いながら彼の顔を見あげる。昨夜の情事を思い出し、胸がざわついた。


「心配しなくても、昨日の羹は飲んでない。伽蓉にも余計なことはするなと言ってやった。昨日のようなことにはならない。二人きりで真面目な話がしたいだけだ」


 それでも動こうとしない玉玲に、幻耀は低い声で告げる。


「また抱いて運ばれたいか?」


 玉玲は即座に立ちあがり、率先して部屋を出た。

 あの運ばれ方だけは勘弁してほしい。鼓動が高鳴りすぎて心臓が持たない。


 自ら幻耀の部屋の扉を開け、極力臥牀から離れた場所に立つ。

 幻耀は窓際の椅子に溜息をついて座り、おもむろに口を開いた。


「現状、第四皇子の方が俺より立場は上だ。獄舎の管理についても、今日より主上から権限を与えられてしまった。重臣たちの後押しを受けてな。俺が何を言おうと聞き入れはしないだろう。野菜の苗に関しても、補充することは可能だが、その調子だと植えてもすぐに撤去されてしまうのではないか?」

「はい。そうなると思います」


 玉玲はうつむきながら返事をする。


「状況を打開できる方法はただ一つ。俺が第四皇子より上の立場になること。再び太子に返り咲くか、兄を下の立場に追い込むことだ」


「……下の立場に追い込む」

「もちろん、そう簡単にいくような話ではない」


 幻耀は考え込むように腕を組んで押し黙った。


「どうすれば、太子に選ばれるのですか? 基準とかはあるのでしょうか?」

「宴での父の発言からすると、実績だろうな」

「実績というと?」

「あやかしに関する問題をどれだけ手際よく処理できるか。管理と実務能力を問われているのだ。第四皇子はすでに動き出している。今日も朝早くから近郊の町へあやかし討伐に乗り出していたな。俺が太子になるや、やる気を失い、ずっと手を抜いていたのに。調子のいいことだ」


 幻耀からは後継者争いに対する熱意が感じられず、玉玲は不安を覚えて尋ねる。


「幻耀様は何か対策を立てているのですか?」

「いや、特にない」


 幻耀は真顔で即答した。

 ガクリと肩を落とす玉玲だったが。


「別にあきらめているわけではないぞ。俺が昔抱いた理想は変わっていない。あやかしも人間も関係なく、みなが心穏やかに暮らせればいいと思っている。だが、兄のように躍起になってあやかしを退治するようなまねはしたくない。功にはやると、真実を追究する目が曇ってしまう。丁寧かつ着実に日々の職務をこなすだけだ」


 その言葉を聞いて、玉玲は安心した。彼は昔から少しも変わっていない。真面目で心優しく、何事にもまっすぐで。


「幻耀様、私に何かできることはありませんか?」


 彼の目の前に立ち、真剣な表情で質問する。 


「私はあなた以上に次の皇帝にふさわしい方はいないと思っています。だから、また太子になってほしい。あやかしたちのためにも。私もあなたの役に立ちたいんです」


 幻耀が皇帝になれば、きっとあやかしもこの国に生きる民も穏やかな生活ができるようになるだろう。みなが笑顔で手を取り合えるような国。その光景を目にすることが、今では自分のもう一つの夢だ。それを実現するためにできることがあるなら何でもしたい。


 胸に手をあてながら見つめていると、幻耀は少しだけ口もとをほころばせて言った。


「お前はじゅうぶん俺の役に立っている。だが、いて言えば一つだけあるな。お前に対する望みが」

「何ですか?」


 玉玲はやる気をみなぎらせて問う。


「前にも言ったはずだ。俺の本当の妃になってほしい」


 幻耀は立ちあがり、玉玲に迫りながら答えた。


「俺はお前こそ次の皇后にふさわしいと思っている。これだけ口説いているのに、まだその気にならないのか?」


 息が届くほど近くまで距離を詰められ、とたんに玉玲はたじたじとして後ずさる。


「幻耀様、本当に伽蓉さんの羹を飲んでいませんか? もしかして、他の料理に」

「いや。羹の力がなくても、俺は真剣にお前を妃に望んでいる。お前が首を縦に振れば、今すぐ抱きたいと思っているくらいだ」


 玉玲は更に後退するが、幻耀も距離を離そうとはしない。

 どんどん接近され、そのまま壁際まで追い詰められてしまった。

 横へ逃亡を図ろうとするも、幻耀が両手で壁をダンと叩き、退路をふさがれてしまう。


「……幻耀様」


 玉玲はそれ以上逃げることもできず、戸惑いをあらわに幻耀の顔を見あげた。


「玉玲」


 名前をささやかれるや、見とれるくらい端整な顔が間近まで迫ってくる。

 次第に頭が陶然としてきて、玉玲は夜色の双眸を見つめたまま動くこともできない。


 指で顔を上向かされ、唇が重なりかけたその時――。


 ダンダンダン!


 突然、外から窓硝子を叩く大きな音が響いた。


 玉玲はハッとして、外へと目を向ける。

 昨日と同じように莉莉が焦燥にかられた様子で窓硝子を叩いていた。

 玉玲は直ちに窓へと駆け寄っていき、莉莉を迎え入れる。


 彼が来てくれなければ危ないところだった。甘い雰囲気に流されて、幻耀の唇を受け入れていたかもしれない。本当の妃になる覚悟なんてまだないのに。


「まったく油断も隙もねえ! 抜けがけしようったって、そうはいかねえからな!」


 莉莉が牙を剥き出しにして、幻耀を睨みつける。


 二日連続でお預けを食らうはめになった幻耀は、額を押さえ、大きな溜息をついた。


 玉玲はこの後どうするべきか迷い、視線を泳がせる。

 できれば自室に戻りたいのだけど。


「何もしないから、今日もここで寝ろ」


 戸惑いながら立ちつくしていると、幻耀が有無を言わさぬ口調で命じてきた。


 玉玲は幻耀以上に盛大な溜息をつく。

 今日もまた眠れない夜になりそうだ。


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