第3話



 それからすぐ、秀女伽蓉による玉玲のお妃教育が始まった。

 国の歴史に法律、しゅうぎん、行儀作法からねやの指南に至るまで。


「それについては結構です! 間に合ってます!」


 けいぼうじゅつの講義を始めようとした伽蓉に、玉玲は真っ赤になって主張した。


「何をおっしゃいますの? お妃様の一番大切な役割ではありませんか。恥ずかしがられている場合ではありませんよ。しっかり講義は受けていただきます」


 伽蓉は厳として玉玲の訴えを退ける。

 幻耀は彼女に自分が契約妃であることを説明していないのだろうか。

 ならば、本当のことを伝えるしかない。


「しかしですね、実を言うと私は――」

「反論は聞きません。あなた様のお妃教育はだいぶ遅れているご様子。殿下のお子であられるお世継ぎをもうけることは、よう帝国にとっても急務です。殿下にお妃様のことを頼まれたからには、この伽蓉、心を鬼にして教育させていただきますわ!」


 玉玲の言葉をさえぎり、伽蓉はやる気をあらわに言い募った。


 取りつく島もない。最初の教育が始まってからずっとこんな調子で、玉玲が何を言っても耳を貸してくれないのだ。


「さあ、まずはこちらをご覧くださいませ」


 伽蓉が教本を開き、筆で書かれた挿画を見せてくる。


「ぎゃっ」


 体をからませ合う裸の男女の図だった。

 もう限界だ。幻耀とこんなことをするなんて、想像するだけで頭に血がのぼる。この講義だけはとても耐えられそうにない。

 玉玲はすくっと立ちあがり、その場から逃げ出した。


「あっ、お妃様!」


 もちろんすぐに伽蓉も後を追ってくるが、しょせんはお嬢様育ちの貴婦人だ。雑伎団できたえた玉玲の足にかなうはずもない。


 宮殿を出て駆けるに従い、どんどん距離が広がっていく。

 路を一つ曲がってしまえば、こっちのものだった。熱心に教育しようとしてくれた彼女には悪いが、自分にも感情と予定というものがあるのだ。

 もう日暮れが近い。そろそろ料理のたくをしないと、あやかしたちからまた文句を言われることになるだろう。


 ひたすら東へ走り、御膳房へと辿りつく。


「ちょっと、何をやってたの? 遅いわよ」


 屋内に入ると、漣霞が食材の下準備をして待っていた。野菜の皮をいてくれていたようだ。身が小さくなっているが、以前よりはだいぶましになっている。


「ごめん。伽蓉さんにずっと捕まってて」


 玉玲は謝りながら料理の準備を始めた。


「またあの女? 気にくわないわね」

「伽蓉さんのこと知っているの? そういえば、彼女が来た時、反応してたけど」


 苦虫をみつぶしたような顔で「あの女は!?」と言っていた。伽蓉のことを知っていそうな反応だったが。


「あいつ、幻耀様が生まれてからずっと北後宮ここにいたから。お世話係兼教育係としてやってきたから仕方がないけど、ずっと幻耀様にべったりで、彼のお母様以上に一緒にいたわ。あたしらあやかしは彼に悪影響を及ぼす害虫扱いよ。えていたわけではないけどね」


 なるほど、と玉玲は納得する。過保護というやつか。幻耀への思いゆえに、周りに厳しい目を向けていたのだろう。


「すごく有能だけど、厳格な人みたいだからね。太子様にも厳しく教育してたのかな?」

「そんなことはなかったわ。彼、言われなくたって何でもできていたから」

「……あっそ」


 愚問だった。幻耀と自分とでは、あらゆる面で出来が違う。ガミガミ注意ばかりされていた自分の未熟さが恨めしい。


「あの女の怖いところはね、厳しいとかそんな次元の話じゃないわ」


 唇をひきつらせていたところで、漣霞が含みありげに言って肩をすくめた。


「それって、どういうこと?」


 ゴクリと息をんで尋ねたその時。


「おーきーさーきーさーまー。わたくしから逃げられるとお思いー?」


 窓辺に現れたゆう、いや伽蓉を見て、玉玲は「ぎゃ~!」と悲鳴をあげた。

 まどがらにべったりと手をあて、血走った目でこちらを睨んでいる。


 ――怖い。これは怖すぎる。


「どこにいても標的を見つけ出すのよね。幻耀様も彼女の手からは逃げられなかったわ」


 漣霞の言葉を聞いて、玉玲の体に更なるせんりつが走った。

 逃げ出そうとするも、伽蓉がサッと入り口に移動し、酷薄な笑みを浮かべて告げる。


「お妃様、わたくしの情報網を甘く見てもらっては困りますわ」

「……じょ、情報網って……。いったいどこから……?」


 玉玲はビクビクしながら確認した。


「殿下です。朝昼晩とお妃様はあやかしの食事作りに御膳房を訪れる。あなた様のことは全てうかがっておりますわ」


「じゃあ、私が契約妃だってことも……?」

「もちろん、うかがっております。ですが、聞かなかったことにしようと思いまして」

「どうしてですか!?」


 勘弁してほしい。事情を知っていたのに閨の講義まで強要するとは、どういうわけか。


「あなた様に本当の妃になっていただきたいからです」


 伽蓉は真剣な顔をして答えた。


「ご存じかもしれませんが、殿下は過酷な少年時代を過ごしてこられました。そのことが原因で、心を閉ざしてしまわれたのです。毒味を担当した文英が倒れてからは、誰も周りに寄せつけず、わたくしもひまを出されました。わかってはいたのです。あれが殿下の優しさであったことは。わたくしは拒みましたが、聞き入れてはくださらず……」


 伽蓉の沈痛な面もちを見て、玉玲の胸に痛みが走る。幻耀は子供の頃、母親を殺され、自身も命を狙われ続けてきたのだ。そして、周りの者を巻き込むまいとして拒絶した。

 そのことに気づきながら、どうすることもできなかった伽蓉の心情は痛いほど理解できる。


「ですが、失意に沈みながらせいで暮らしていたある日、殿下からふみが届いたのです。妃をめとったから、教育係として彼女に仕えてほしい。力になってもらえないかと。わたくしはすぐに『はい』と返事を出しました。本当にうれしかった。あの殿下が妃を迎えられたばかりか、わたくしを頼ってくださるなんて。きっとお妃様のお力なのだと思いました。あなた様をめとられたことで、ようやく人を信じられるようになったのだと」


 悲愴さに満ちていた伽蓉の表情がほころび、口もとに穏やかな笑みが浮かぶ。

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