第4話 サンタクロースがいなくとも

「ついに見つかっちゃったか」

 照明の落とされたショー会場。その中央、舞彩がばつの悪そうな顔を浮かべている。

 その正面、水中から顔を出すアイの姿があった。

「つまみじゃなかったんですね」

 翔は傍に置かれたビニール袋を指差す。中から数匹のサンマが顔を覗かせていた。

「おつまみだよ。ちょっとお裾分けしてただけ」

 舞彩はしゃがみ込むと袋から一匹抜き取り、前に差し出す。その途端、アイは躊躇なく魚に食いついた。

「相変わらず懐いてますね」

「そうかな」

「そうですよ。だって」

 翔は一瞬躊躇った後、言葉を接いだ。

「付いてきてたじゃないですか。さっきまでずっと」

 舞彩がこちらを振り返る。それからじっと、こちらを見上げてくる。

 やがて、小さく苦笑した。

「カモフラージュには自信があったんだけどな」

 舞彩はポケットから端末を取り出す。それをアイに向けると、指で画面を叩いた。

 直後、アイがエイへと姿を変えた。

「実際すごかったです。僕もついさっきまで気づいてませんでしたし」

「じゃあ、なんで気づいたの?」

「特に確証があったわけじゃありません」

 翔は小さく肩をすくめる。

 アイが一体いつから付いてきていたのかは今もはっきりしていない。道中で見かけた動物のどれかに化けていたのだろうが、それを言い当てる自信はなかった。

 ただ、例外がひとつだけ。

「ただ、アイと似た泳ぎをするエイがいたので」

 翔はつい先に見た光景を思い浮かべる。夥しい数のクラゲの間をすり抜けていくエイ。それはあまりに突飛な行動で、目にした時は全てがホログラムだとしか思えなかった。

 けれど、あのエイがイルカのアイだったなら。音響定位。イルカは音波で周囲の物体を認識できる。彼女が目の前の存在を単なる映像と見抜いていたなら、あの曲芸にも一応の納得がいく。

「……なるほどね」

 舞彩は小さく首を振る。それから、悪戯めいた笑みを見せた。

「やっぱりファンの目は誤魔化せないってことか」

「別にそんなんじゃありませんよ」

 翔は少し視線を逸らす。別にそんな事実はない。以前、ショーに通い詰めていた時期があった。ただそれだけだ。

「今回の件、発端は館長の指示ですか?」

「知っちゃったんだ。誰から聞いたの?」

「館長本人から直接」

「そっか」

 一言だけそう呟くと、舞彩はアイに端末を向ける。瞬きの後、アイは元のイルカの姿へ戻っていた。

 舞彩は続けた。

「あの人は頑固だからさ。一度決めたら周りの意見なんてお構いなし。なにせ、あのミーティングの前に処分用の麻酔を押しつけてきたくらいだし」

「……その薬は?」

「ロッカーに一応保管してる。使うつもりはないけどね」

 さすがにあれは神経を疑っちゃった、と舞彩は呟く。その顔には疲れた笑みが浮かんでいた。

 ミーティングの際。舞彩は手を挙げなかった。それは単純に、意味がないと知っていたからだったのだろう。もしくはショックで挙げる気力がなかったか。その両方なのかもしれない。

「だとしたら、アイはどこかの部屋に匿っておく方がよかったんじゃないですか? こうしてわざわざ外に出すのは色々な意味で危険です」

「まあね。私も最初はそうしようと思ったんだ。でも」

 不意に舞彩の言葉が途切れる。訝しんで彼女の方をみると、アイが舞彩の下へ身を乗り出していた。

 その頭を撫でながら、舞彩は言葉を接いだ。

「この子、私が離れようとするとどうしても付いてきちゃうんだよね。陸にまで上がってこようとするし」

「前はそこまでべったりじゃなかったと思うんですが」

「こうなったのはほんと最近。困ったもんだ」

 そう言って苦笑を漏らす舞彩は、ちっとも嫌そうに見えない。頬をアイに舐められてくすぐったそうにしていた。

「ここの動物のほとんどはもうホログラムだからさ。一匹くらい本物が混ざったところでばれないと思ったんだよね」

「思い切りが良すぎます。一度のミスでアウトじゃないですか」

「今までは上手くいってたよ?」

「結果論で話さないでください」 

 翔は思わずため息を零す。鑑賞中に脈絡なく、本物のイルカが目の前に現れる。イフとしてなら冗談で笑える状況も、現実になった時のことを考えると怖気を感じずにはいられない。

「でも、チャレンジする価値はあると思ったんだ」

「どういうことです?」

 首を傾げる翔に対し、舞彩はすぐには言葉を返さない。代わりにぽんぽんと、アイの頭を軽く叩いた。

 小さな水音を立てて、アイは水中へ引っ込む。しばらくして再び水音が聞こえたかと思うと、アイがプールの向こう岸に顔を出している。彼女はそのまま悠々と辺りを泳ぎ始めた。

「これはわがままなんだろうけどさ」

 不意の呟きに視線を戻すと、舞彩は泳ぐアイを眺めている。その口元に淡い笑みを湛えていた。

「アイには自由でいてほしいんだ。私たちの事情なんか関係なしに。余計なしがらみはあの子には似合わないから」

 そのためなら何でもやれる気がしたの、と舞彩は照れくさそうに笑う。その姿はまるで幼い頃の夢を語っているかのようで、どうしてだろう、目が離せない。

 不意に、舞彩がこちらを振り返った。

「で、どうする?」

「え?」

「やっぱりあの人に報告する?」

 突然の問いに、翔はすぐに言葉を返せない。

 舞彩は正面に向き直ると、両手を組んで大きく伸びをする。それからふっと、息を吐いた。

「針に糸通すみたいな作戦だったからさ。どこかでぽしゃるとは思ってたんだ。だから覚悟はできてるよ」

 ことさらに軽い調子で話す舞彩に、翔は何も言えずに黙り込む。

 その時、すぐ傍で水音が聞こえた。振り向くと、いつの間にかアイが近くに戻ってきている。彼女は不思議そうにじっと、舞彩の方を見つめていた。

 職務を全うするならば、素直に報告するのが一番だ。それだけで後の全ては自動的に処理されて、何事もなかったかのように整えられる。その場に舞彩とアイがいない、その事実だけを受け入れればいい。何も問題はない。問題はない、はずだ。

「……僕は」

 答えようと口を開いた、その時。

「それはなんだ?」

 唐突に背後から声が響く。咄嗟に振り返る。そして目を見開いた。

 遠くにある入場口、そこに眉間に皺を寄せた館長が立っている。

「なんでそいつがここにいる?」

 険しい顔のまま、館長は客席の間の階段を下りてくる。獲物を絶対に逃さない、そんな獣じみた視線がこちらを縫い止めていた。

 明らかに予想外の状況。翔はちらりと横を窺う。途端、こちらを見上げる舞彩と目が合った。

 舞彩は淡い苦笑を浮かべる。それから小さく呟いた。

「仕方ないね」

 その声はどこか寂しく、いつか聞いた閉館のアナウンスを思わせた。

 名残惜しい、そう思ってしまった。

「………」

 翔はそれとなく客席の方を窺う。館長は依然としてこちらに向かってきている。けれど、その距離はまだ開いていた。

 ――……よし。

 翔は館長の視界から舞彩が隠れる位置に移動する。それから前を向いたまま、舞彩に小さく声をかけた。

「舞彩さん、アイに待てと命令してください」

「え?」

 少し後ろを窺うと、舞彩は目を瞬かせている。その彼女の視線をできる限りまっすぐ見据え、翔は言った。

「お願いします。今は僕を信じてください」

「……分かった」

 舞彩はおずおずといった様子で頷く。それからアイの方へ向き直ると、彼女の前に片手をかざした。

「ストップ」

 小声で舞彩がそう告げた途端、ぴたりと、その場でアイが動きを止めた。

「……どうするつもり?」

 振り返った舞彩は不安そうな目でこちらを見上げてくる。

 手短に説明しようとした時、コンクリートを叩く靴音が耳に届く。視線を前に戻すと、館長がショーステージまで下りてきていた。

こちらを睨めつけたまま、館長は言った。

「そいつはあのイルカだろ? つまりお前ら――」

 決定的な一言を館長が口にしようとする。舞彩は慌てて立ち上がり、それを遮るように口を開いた。

「いいえ、これは私が――」

「ええ、違います」

 無理矢理、翔は舞彩の言葉を引き継いだ。

「え?」

 小さな呟きと共に、舞彩の困惑した視線が向けられる。それに気がつかないふりをしつつ、翔は続けた。

「おそらくですが、館長は誤解してます」

「どういうことだ? お前らはそのイルカを隠して――」

「あれはアイじゃありません」

「あ?」

 館長は不快そうに眉をひそめる。

 翔は意図してほほ笑んでみせた。

「こういうことです」

 翔はポケットの端末を手に取って振り返る。そのままそれをアイの方へ向けると、画面を押した。

 直後、アイはエイに姿を変えた。

 ――じっとしててくれよ。

 アイに向けてそう念じつつ、翔は言葉を接ぐ。

「あれはホログラムですよ。現場に近い状況で慣れようと思って、花山さんにここでこっそり教わっていたんです」

 翔は笑顔を崩さずに館長をみつめる。彼は黙り込んだまま、じっとこちらを睨んでいた。

 やがて、彼の視線が舞彩の方へ向いた。

「本当か?」

 一瞬、舞彩は躊躇いを見せた。けれどすぐ、はっきりと頷いた。

「ええ。松村君に頼まれて」

「上手な人に教わるのが一番の上達の近道だと思ったんです。それで、この館で一番操作に長けている花山さんにお願いしたんです」

 今まで黙っていて申し訳ありません。そこまで息を継がずに言って、頭を下げた。

「………」

 館長はじっと目の前にいるエイを見つめている。

しばらくして、彼は小さく舌打ちをした。

「こういうのは事前に報告しとけ。それと早く本物を見つけろ」

 そうぼやいた後、館長は踵を返して出口へと向かっていった。

 やがて、彼の背中が扉の向こうへ消える。途端、翔は大きく息を吐きだした。

 ――上手くいってよかった……。

 正直、生きた心地がしなかった。ずっと水底に潜っていたようで、今は数年ぶりに水面から顔を出した気分だった。

「どうして?」

 隣で聞こえた声に振り返ると、舞彩が唖然とした表情でこちらを見ている。まるで白昼夢を見ているかのような顔だった。

「えっと……」

 なんとか答えようとするも、言葉が見つからない。なぜああしたのか、自分の中でもまだ曖昧で、ちゃんとした説明ができる気がしない。

 だからとりあえず、翔は手を差し出した。

「?」

 表情を変えずに首を傾げる舞彩。翔は続けた。

「一匹だけ魚を分けてもらえませんか。久しぶりに餌をあげたくて」

「ええと……うん」

 釈然としないという様子でありつつも、舞彩は頷く。それから袋に手を伸ばし、中からサンマを取り出してこちらに手渡してくれた。

 受け取ったそれを、そのままアイの前に差し出す。

 一瞬、アイは警戒したように身体を震わせた。後にしばらく、目の前のサンマと睨み合いを続ける。そしてさっと、こちらの手から魚を掠め取る。そのまますぐに少し離れた場所に移動すると、アイは胸をなで下ろすようにゆっくりと咀嚼を始めた。

 ――相変わらず片思いのままか。

 あからさまな反応に気落ちしつつも、翔は先の理由を考える。

 やがて、ぴったりの言葉が頭に浮かんだ。ただ、それは口にするのがなんだか気恥ずかしい。できればそのまま胸の内にしまっておきたかった。

 ちらりと目を横にやると、舞彩がじっとこちらを見ている。明らかに答えを急かしている眼差し。うやむやにできそうな空気ではない。

 翔は小さく息を吐く。それから舞彩の方を見て、口早に答えた。

「もう少しだけ、アイと一緒にいたいと思ったんです」

「……それが理由?」

「ええ」

 頷いてすぐ、翔はアイの方へ目をやる。その食事風景に視線を固定したまま、言葉を接いだ。

「それと、どこかで本当に操作のレクチャーをしてもらえませんか。今の腕じゃすぐにボロが出るので」

「ストップ」

 その声に翔は言葉を切る。視線の先、アイも動きを止めていた。

突然の命令に訝しんで振り返ると、舞彩は額に手を当てて何やら考え込んでいた。

 少し待ってみる。やがて、舞彩は窺うような視線をこちらに向けた。

「もしかして、手伝うつもりなの?」

「というより、引き継ぐつもりです」

 何の気なしに答えると、舞彩は呆けたように口を開けている。今さら何を驚くことがあるのだろう。

「館長の前であんなハッタリをかましてしまった以上、もはや言い逃れはできません。毒を食らわば皿までです」

「ばれたら減給じゃ済まないと思うよ」

「その時はその時です」

「………」

 舞彩はしばらく黙り込んでいた。

 やがてぽつぽつと、彼女は独り言のように言葉を漏らした。

「使えるお金、ほとんどないんだ」

「僕が出します。足りなければこっそり募金活動をするつもりです」

「泊まり込みは思ったよりきつかったな」

「頑張ります。ただ、限界に近づいたときはヘルプを頼むかもしれません」

「遠くないうちにアイは死んじゃうよ」

「それはどうしようもないです。その時は傍で見送ります」

「どうしてそこまで――」

「決まってます」

 一度言葉を切って、それから改めて口にする。今度ははっきりと言葉にできた。

「アイを傍で見ていたいんです。できる限り、自分の力でなんとかなるあいだは」

 きっと自分が代わったところで、ぎりぎりの状況は変わらないだろう。足元がおぼつかなくて、不安を覚えるに違いない。

 それでも見つめたい今があるのなら、ありったけを尽くすしかない。

 目の前の今が現実。そう心置きなく思い続けるために。

「幸い、先人がすでにいますから。頑張って後追いをするだけです」

「……調子のいいこと言っちゃって」

 舞彩が顔を上げる。そこには呆れ混じりの笑みが浮かんでいた。

 それから、舞彩は目を閉じる。何かを考えている様子だった。

 なんだろう? しばらく様子を見守ってみる。すると、

「よし」

 突然ぴしゃりと、舞彩は両手で頬を張る。それから驚くこちらに目を向けた。

「何かお願い事ってない?」

「急にどうしたんですか」

「これから色々と手伝ってもらうことになるからさ。要望があったら先に訊いとこうと思って」

「いや、僕は交代を――」

「一度決めたことを最後までやり抜きたいの。それにさ」

 舞彩は照れた表情で笑った。

「一緒にいたいのは私も同じだから」

「……そうですか」

 翔は小さく苦笑を漏らす。そう言われたら、断ることなんてできない。

「それで、お願い事は?」

 できる限りお応えしましょう、と舞彩は胸を叩いた。

「いや、別にそんなものは――」

 ない、と言いかけた時。

 ――あ。

 あることを思いつく。叶えるならきっと今。そう思った翔は少し咳払いをした後、口を開いた。

「一つだけ、いいですか」

「なに?」

 なぜかにやにやした表情を見せている舞彩に、翔は言った。

「久しぶりに傍で見たいんです。アイのジャンプを」

「……ご要望とあらば」

 舞彩は笑みを深くする。それから水際に近づくと、そっと手を差し出した。

「アイ」

 一声、舞彩が声をかける。するとアイはすぐに舞彩の下へ寄ってくる。それから返事をするように、嘴で舞彩の手にタッチした。

 舞彩は頷きを返す。そして、

「それっ!」

 舞彩が大きく手を振り上げる。直後、アイが大きく飛び上がった。

 水飛沫を上げて高く、アイが夜空に舞う。月明かりを背に受けて、彼女のシルエットが銀色に彩られた。

 その姿はただ、美しかった。

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