第2話 舞台裏にて
職員用スペースの廊下を進んでいる時、ふと、以前見た光景が脳裏を過ぎった。
『それっ!』
舞彩が勢いよく手を振り上げたと同時、アイが水飛沫を上げて空高く飛び上がる。一人と一匹。溌剌とした彼女たちの姿はどこまでも自由だった。その時間が忘れられなくて、憧れて、この水族館の一員になっていた。
けれどもう二度と、あの光景は見られない。それがはっきりした今、自分がここにいる意味はあるのだろうか。
そんなことをぼんやりと考えていた時。
「おい、松村」
不意に後ろからかけられた声に瞬間、翔は顔をしかめる。気の滅入る声色。振り返ると案の定、しかめ面の館長がこちらを睨みつけていた。
「なんですか。館長」
視線を少し下に向ける。片手に吸い殻のぎっしり詰まったコーヒーの缶が握られている。どうやら外で一服した後の帰りらしい。間が悪い。
「なんですか、じゃねえよ。イルカは見つかったか?」
「残念ながらまだ」
正直に答えると、館長はあからさまな舌打ちをした。
「もう一週間だ。さっさと見つけてくれよ」
客にばれたらどうすんだ、と館長は苛立たしげに呟く。ちょっとした騒ぎは逆に良い宣伝になるのでは? と思ったが、もちろん口にはしなかった。
「これだから生身の動物は厄介なんだ。やはりホログラムに変えて正解だったな」
頭を掻きながら館長はぼやく。やはり彼にはアイが集金の道具にしか見えていなかったらしい。その認識の差に、どうしても寂しさを覚えてしまう。
「僕はこれで」
早くこの場から立ち去ろうと、翔は踵を返す。
その時、館長が言った。
「見つけたら予定通り処分しとけよ。書類上はとっくにいないことになってるから」
思わず足が止まった。
翔は振り返って尋ねた。
「処分ってどういうことですか」
「あ? 花山から聞いてねぇのか?」
盛大に顔をしかめた後、館長は続けた。
「あのイルカは病気持ちなんだよ。薬でしばらくは延命できるって話らしいが、どうしても治療費が高くつくからな。もったいねぇからさっさとショーから下ろして、早いうちに殺処分する予定だったんだよ」
そうさらりと、館長は言った。
全てが初耳の話だった。単純にホログラムの方が何かと便利だから。アイの降板の理由はそれだけだと思っていたのに。
「花山にも言ってあるが、処分はこっそりやれよ。正式な手続きは 取ってあるが、騒ぐやつはどうせ騒ぐ。他の奴らに顛末を訊かれても、発見時点で死んでたとか言っておけ」
面倒事は御免だからな、と館長は苦虫を噛み潰したような顔をする。普段なら顔をしかめたくなる発言。けれど、今は気にならなかった。
――舞彩さんは知っていた?
その事実が重く、翔は思わず呆然としてしまう。
そんな様子に構わず、館長はこちらに話しかけてくる。
「そういえばお前、ちゃんと操作練してるか? チェック表に記録がなかったが」
「ごめんなさい。捜索にかかりきりで」
適当に言葉を返すと、館長は鋭い視線を向けてくる。
「何があっても最低限のことはやっとけ。ホログラムの操作はお前らの必須技能なんだからな」
そう言うと館長はポケットに手を突っ込む。それから取り出した何かを、こちらに向かって放り投げた。
受け取って確認すると、手の中にはオーソドックスな金属製の鍵があった。
「帰る前に練習していけ。いつまでも下手くそだとクビにするぞ」
そう言い捨て、そのまま館長は向こうへ歩いていってしまった。
――残業追加か。
翔はため息をつき、そして重い足取りで更衣室とは反対の方へ向かう。
やがてある一つの部屋に辿り着く。
『シミュレーションルーム』
ドアプレートを確認した後、翔は渡された鍵を差して開け、中に入った。
足を踏み入れてすぐ、巨大な水槽が目に入る。部屋のスペースの大半を占めるそれは水が張られ、中央に白くて丸いブイが浮いていた。
翔はズボンの後ろに手を回す。ポケットに差してあった端末を掴んでブイの方へ向け、それから端末の縁にある電源ボタンを押した。
球体が立ち消える。それと入れ替わる形で一匹のグッピーが現れた。
脈絡なく現れたそれはすぐに尾ひれを揺らめかせ、まるで最初からそこにいたかのように振る舞っている。
翔は近くに設置されたパイプ椅子に腰を下ろす。そして、端末画面上にあるアイコンの一つをタッチした。
直後、グッピーがサンマに変身した。
いつ見てもシュール。そんな感想を抱きつつ、翔はその後も適当に他のアイコンを押し続ける。
サメ、オットセイ、エビ、それからクジラ。様々な動物が代わる代わる現れて、消えていく。その様子はTVのチャンネルが切り替わっていくようで、なんだかザッピングをしている気分だった。
――……四九、五〇。
プッシュ回数が五〇回を越えたところで、画面から指を離す。課されているノルマは操作を五〇回実施。だったらこれで、とりあえず文句は言われないはずだ。
「………」
翔は膝に頬杖をつき、目の前の光景を眺める。水槽の中、大きなエイがゆったりと泳いでいる。その見た目は本物と変わらないようにみえる。ただ。
――あっ、一周した。
ついさっき見たのとまったく同じ動きが目に止まった。リピート。いくつかの動きを一セットとして何度も繰り返している。その事実を改めて認識した時、目の前のエイが急に退屈なものに思えてくる。
――もしアイだったら。
つい、そんなことを考えてしまう。まっすぐ進んでいるかと思えば、突然Uターンしたり、その場で勢いよく回転して水飛沫を上げたりする。いつ見ても驚きを与えてくれるアイの泳ぎに、観客は魅了されていた。翔もその一人だった。
そういった生々しさを、現状のホログラムは再現できない。そのギャップを職員が操作して埋める手はずになっているが、自然な形でのフォローは職人芸だ。通常業務の片手間でできる作業ではなく、結果、ほとんどの職員は我関せずを貫いている。
ただ、例外が一人だけ。
――あの人はちょくちょくやってるんだよな。
館内担当でフロアを巡っている時、舞彩は見回りついでによくホログラムを操作していた。舞彩が近くにいる時だけ、動物の動きが急に繊細になる。あの腕は傍で見ていていつも舌を巻いてしまう。
正面に意識を戻す。映像のエイはぐるりと水槽を周回している。その単調な泳ぎに、一抹の寂しさを覚えた。
せめてあと一回、アイの泳ぎが見たい。最後に目にしたのは随分前で――。
――あれ。
不意に、翔の脳裏に違和感が過ぎった。
アイの泳ぎを見たのは舞彩がこっそりショーに出した最後の日――失踪する五日前だ。つまり、もう三週間近く前のこと。なのに、それに見合う懐かしさがどうしても湧いてこない。
アイの姿があまりに強烈だったから? いや、そうでなく。
――ついさっき、見かけた気がする。
明らかに矛盾した直感。けれどデジャブでは片付けられない確かな感覚だった。
翔は目を閉じて、しばらくの間、自身の記憶を振り返る。
やがて、一つの光景に思い至る。それを見ていた時の感覚は、アイを眺めていた時のそれとよく似ていた。けれど、そこにアイの姿はなかった。
やっぱり気のせいか、そう思いかけた時。
「……いやいや」
翔は反射的に首を振った。ひとつだけ、矛盾を解決する仮説が浮かんだ。ただ、それは突拍子もなくて、まともな方法とは思えない。
ただ――もし本当なら。
「……確かめよう」
翔は端末を向けて目の前のホログラムを消す。それから立ち上がって、そのままある場所へ向かった。
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