イミテーション

@araki

第1話 アイ、捜索中

 薄暗い水族館の館内に青い影が躍る。つられて翔が視線を上げると、大きな円筒状の水槽が目に入った。

 イワシの群れが渦を巻いている。天井からのわずかな灯りを背に受けて、銀色のまばらな光を放つ。その周りで、一匹のサメがじゃれつくように回遊していた。

 そんな光景を見て、翔は首を傾げた。

「やっぱり不自然だ」

「そう? 考えすぎだと思うけど」

 欠伸混じりの声が背後から聞こえた。振り返ると、一人の女性が緩慢な足取りでこちらへ歩み寄ってくる。

 彼女はにへらと笑って手を上げた。

「お待たせ」

 花山 舞彩。翔と同じ、この水族館に務める飼育員の一人で、新米であるこちらの指導役を務めている――はずだが、今はその説明に自信がない。

「なんで制服じゃないんですか」

 目の前に立った舞彩は、よれよれのTシャツとショートパンツという格好だ。まるで近所のコンビニ帰りのようで、とても今から仕事に臨む人間には見えない。

「さっきまで買い物しててさ。気づいたら時間になってたんだよね」

 舞彩は右手に提げた白ビニールの袋を持ち上げる。袋の中身はそこまで重くはなさそうだが、何やら生臭い。

 思わず顔をしかめる翔に、舞彩は続けた。

「ちなみにこれはお酒とつまみの魚。終わったら一杯やろうかなって」

「訊いてませんよ。というか、今日も泊まるつもりなんですか」

「うん」

 舞彩は当然のように頷く。

 ここ最近、舞彩は職員用の宿直室で寝泊まりしている。空いていれば特に予約もなく自由に利用できる部屋だが、同じ人間が二週間も連続で占有するのはさすがに想定外だろう。

 胡乱な目を向けていると、舞彩は弱り顔を見せる。

「家からここまで結構距離があるんだよ。だからここで衣食住を済ませた方がラクでさ」

「それ、そのまま館長に報告しても?」

「それだけは勘弁」

 この通り、と頭を下げる舞彩は正面で両手を合わせる。その姿に翔は内心ため息をついた。

 ――昼間はあんなにきりっとしてたのに。

ショー会場の中央、大勢の観客に見守られながらパフォーマンスをする舞彩の姿を思い出す。溌剌としたイルカのお姉さん。あれは霞だったのだろうか。

「確認ですけど、今から何するか分かってます?」

「もちろん。目を皿にして探すつもりだよ」

 目の上に手を当てて、舞彩は辺りを見回す仕草をする。あからさまなパントマイム。本当に探す気があるのだろうか。

「現状、僕らはアイを逃がした戦犯です。そろそろ見つけないとクビにされかねませんよ」

「大丈夫だって。最近うちは人減り気味だし。そうそう切られないって」

「減俸なら?」

「それはあるかも」

 舞彩は苦笑して、小さく肩をすくめた。

「まっ、今は目の前のことに集中しよ。ケセラセラだよ」

 そう言って、舞彩は意気揚々と歩き出す。翔は嘆息して後に続いた。

 二週間ほど前、水族館で飼育していたイルカのアイが管理槽から逃げ出した。水槽内を調べると側壁に設けてあった非常戸の鍵が外れていて、彼女はそこから逃げ出したと見られている。事件があった際、アイの管理を任されていたのは翔と舞彩の二人。結果、脱走の責任を館長に問われ、現在、こうして深夜の館内捜索をさせられている。

「まさかこんなに見つからないなんて」

「あの子は運動神経抜群だからね。色んなとこ潜り抜けて、下手したら海に出ちゃってるかも」

「だとしたらお手上げですね」

 ここ一週間、二人で手分けして館内の設備をくまなく探したが、どこにもアイの姿は見当たらなかった。

 後に残った未探索のエリアは、ここ――一般公開の観賞フロアのみ。ただ、ここは毎朝全職員で点検しており、アイの姿があればすぐに報告が上がるはず。正直、望み薄だった。

 順路に従って二人は進んでいく。やがて、周囲が水槽で覆われた通路に出た。

 すぐ傍を色鮮やかな熱帯魚の群れが通り過ぎていく。かと思うと、シロクマとアザラシが連れ添って頭上を横切っていった。

「やっぱり水槽同士を繋げたのは失敗だったんですよ。いくら維持費が減るんだとしても」

「でも実際、管理は楽になったよ? 一度に水を総入れ替えできるから」

「ですが、こうなるとその恩恵も吹き飛びます」

 ある時から、ここの水族館はほとんどの水槽の水を共有にしても問題がなくなった。そこで各槽はチューブで繋ぎ、全ての水槽内の水を一度の操作で入れ替えられるようにした。それは電気代の節約など、様々なコスト削減に大いに役に立ったが、今回の一件を考えると早計だったように思う。

「仕方ないよ。こんなことは想定できなかったし」

 舞彩は近くで手を振るアザラシに手を振り返す。その様子は普通に観賞を楽しむ来場客のそれだった。

「もう少し真剣に探しましょうよ。そろそろ何か報告しないと館長が切れかねません」

「別にほっとけばいいよ、あんなの。どうせ怒ったって、理由は全部お金絡みなんだから」

 舞彩は辟易した顔を見せる。

 ここの館長は生き物を金儲けの道具と考えている節があり、多くの職員から不評を買っている。その中でも、舞彩は彼と事あるごとに言い争いをする仲だったが、最近は目も合わさないほどに冷え込んでいた。

 ――まあ、仕方ないか。

 なにせ、アイを管理槽行きにした人間は館長なのだから。

 ただ、だからこそ疑問に思うことがあった。

「ところで、舞彩さん」

「ん?」

「アイに対して随分淡泊なんですね。もう少し愛着があると思ってたんですが」

 ――アイの方はあんなに懐いてたのに。

 舞彩の姿を見つけると、アイはすぐに彼女の元へ寄ってきた。その姿は母親の元へ駆け寄る子供のようだった。アイと舞彩は深い絆で結ばれている、それが翔を含めた職員の共通認識だった。

 舞彩は何も言わずに前へ進んでいく。その背中を翔は黙って追う。

 やがて、こちらを振り返ることなく、舞彩は口を開いた。

「別に騒ぐことじゃないと思うんだよ」

「どういう意味です?」

「あの子は自由になった。それだけのことじゃない」

「……その発言は飼育員としてどうかと思いますが」

 あらゆる動物は人から自由であるべきだ。そういう主張はあってしかるべきだと思うし、理想だとも思う。ただ、それが館内の動物の即時解放となれば、話は違ってくる。

「一度人の手で育った動物は野生では生きていけない。舞彩さんも理解してるはずです」

「まあね。でも、それで一生自由を与えないってのもおかしいと思わない?」

「だからアイを放っておくと? それは単なる責任放棄です」

「かな」

 肩をすくめた舞彩は、右手の袋に手を突っ込む。抜き出した手には一本のビール缶が握られていた。缶のプルタブを開け、舞彩はそのまま口をつけた。

「勤務中なんですけど」

「大丈夫。これはノンアルだから」

 舞彩は再び缶を呷る。そして、視線を横に投げた。

 その先を目で追うと、大きな球状の水槽が視界には言った。

 水槽の中、一匹のウミガメがスクリューのように身体を回転させながら泳いでいる。その少し上で白い泡が立つ。見れば、ペンギンの群れが次々に水の中へ飛び込んでいた。

「いい肴ですな」

「そうですか」

 舞彩はうんうんと頷き、翔は眉をひそめる。

 動物たちの仕草は生き生きとしていて、その様子は見る者を楽しませてくれる。ただ。

「僕は空々しく感じます。単なるホログラムですし」

 目の前で繰り広げられる光景は全て、ホログラムの投影だ。精巧に作られた幻。実際には水が張られた水槽が一つあるだけだった。

「舞台裏を気にしすぎだって。真っさらな心で眺めてみなよ? きっと素敵って思えるはずだから」

「舞彩さんはこれが最善だと思うんですか?」

 尋ねると、舞彩は少し考える素振りを見せる。やがて、小さく苦笑を浮かべた。

 一年くらい前から、館内の動物の数が徐々に減り始めた。元いたメンバーが亡くなる度、それとよく似た映像へのすり替えが行われるようになったのだ。生き物の飼育にかける予算は年々減っていて、その分の資金は全て、ホログラムの質の向上につぎ込まれている。

「なんだか嘘くさいんですよ。実際の動物はあんな風にはずっと動き続けませんし。それと無駄に愛嬌も振りまかない」

 人の期待に応えるだけに存在する動物たち。それは以前ここにいた仲間も背負っていた役目だが、ここまで来ると、マリオネットの劇を見せられているような気分になってしまう。

「難しく考えすぎじゃない? 少なくとも夢はあると思うけど」

 舞彩は水槽に近づくと、右手の人差し指を正面のアクリルガラスに近付けた。

 すると、近くを泳いでいたウミガメが急に方向を変える。やがて舞彩の下へやってくると、その指先に触れるように、自身の鼻先をガラスの壁にくっつけた。

「ほらね」

「いやいや」

 自信ありげに向き直る舞彩に、翔は首を振る。

 それから翔は、ある方を指差した。

「自作自演じゃないですか」

 翔が指し示した先、舞彩がズボンのポケットに手を入れている。そのポケットはちょうど、平たい長四角の形に膨らんでいた。

「ばれたか」

 舞彩は悪戯のばれた子供のように舌を出すと、ポケットから手を抜き出す。その手には一台の小型端末が握られていた。

 ホログラム操作用の端末。水族館の全職員に配られているもので、それ一つで館内の全映像の動作に介入できる仕様になっている。館内にいる職員は常時携帯を指示されていて、翔も一応、同じものを後ろのポケットに突っ込んである。

「なんでそんなに扱いが上手いんです? 前から思ってたんですけど」

 端末によるホログラムの操作は思いのほか複雑で、自在に扱える職員はまだ少ない。そうした中、舞彩は既に観客の前で、即興で映像をいじれるほどになっていた。

「好きこそものの上手なれってやつかな」

 舞彩は正面のガラス壁に向き直ると、指で大きな円を描く。それを追うように、ウミガメがぐるりと首を回転させた。

「この触れ合いはまやかしかもしれない。でも目の前にこうしてあるなら、見てる私たちにとっては紛れもない現実だよ」

 舞彩は端末をポケットにしまう。それから、ぐっと伸びをした。

「お客さんはここに見たいものを見に来てる。それを提供するのが私たちの仕事。だったら、手段は気にしなくてもいいんじゃない?」

「……ですかね」

 翔は曖昧な返事と共に、視線を逸らす。すると傍に独立して置かれた水槽が目に入った。

 それは少し大きめの金魚鉢だった。中には色取り取りの金魚がいて、そのほとんどがこちらに向かって口をパクパクさせている。そうした中、うちの数匹は少し離れた場所で、肩身の狭そうな様子で泳いでいる。

 ――あっちはまだ生きてる方かな。

 数多くの模倣の中で本物が浮いた存在になる。なんだか皮肉めいた光景だった。

「行こっか」

「ええ」

 翔は頷きを返す。それから既に順路の先へ踏み出していた舞彩の後を追った。

 やがて、辺りが急に暗くなる。開館中は足元を照らす間接照明が点灯しているフロアだが、節電のために今はそれも落としてある。水槽から漏れる淡い光が唯一の光源となっていた。

 通路の両脇に並ぶ巨大な水槽、その中で無数のクラゲが浮かんでいる。雪化粧した森のよう。その隙間を縫うように、一匹のエイが我が物顔で通り抜けていった。

「はしゃいでるなぁ」

 舞彩はくすりと笑みを漏らす。それから肩越しにこちらを見た。

「こういう場面が見られるなら、ホログラムも悪くないかもね」

「さすがに非現実的すぎますよ」

 目の前のクラゲにあるクラゲはすべてホログラムだが、傍から見ている分には本物と見分けがつかない。それはおそらく他の動物にとっても同じだろう。何らかの判別する手段を持たない限り、こんな地雷原、回れ右するに決まっている。

「普通じゃ見られない光景を見られる。それは素敵なことじゃない?」

「あり得ないものはあり得ない。その事実は変わりません」

「実際にここにあるんだけどな」

 舞彩は少し残念そうな顔を見せる。からかわれているのだろうか。意地が悪い。

「それに、こっちのショーでもホログラムが頑張ってくれてるしね。私的には大助かり」

 舞彩が司会を務めるショーは現在、アイを模したホログラムが主役を張っている。映像のアイは十二分に役割を果たしていて、ショーは以前と変わらない人気を誇っていた。それは確かに事実だ。でも。

「何言ってるんですか」

「え?」

「失踪直前までアイを出してたじゃないですか。こっそりと」

「何のこと?」

 振り返った舞彩は不思議そうな顔で首を傾げる。けれど、その視線が不安げに揺れていた。

 翔は続けた。

「ホログラムは良くも悪くも規則正しいんです。動きに遊びがない。なのに、ショーに突然アドリブが入ることがあった。そんなこと、生身の動物以外に考えられません」

「それは私が操作して――」

「水飛沫生成の装置を毎回チェックしてるのは僕です。設置してないはずの所で上がった水柱をどう解釈すればいいんですか?」

「……目聡いなぁ」

 観念したように、舞彩は息を吐き出した。

「誰にもばれないと思ってたんだけどな。ちゃんとフォローもしてたのに」

「普通にショーを見ている分には分かりませんでしたよ。観客には予定通りの進行に見えてたと思います」

 突然のジャンプや、観客へ向かってのキックサービス。アイが予定外の行動を見せるのは昔からで、舞彩はそれも織り込み済みでショーを進行する。事前に予定を把握していなければ、どこがハプニングかなんて見分けられなかったに違いない。

「そっか」

 舞彩はほっと胸をなで下ろす。それから苦笑混じりの顔をこちらに向けた。

「ホログラムがショーをやりやすくなったのは本当だよ。でも、ずっと同じだとなんだか飽きちゃって」

「だからって悪ふざけが過ぎます」

 水族館が所有する動物を無断でショーに出したのだ。もしばれたら大目玉、いや、それだけでは済まなかったかもしれない。

「お願い。黙ってて」

「言いませんよ。告げ口するタイミングはとっくに過ぎてます」

 こちらに向けて両手を合わせる舞彩。翔は小さくため息をついた。

「まずいと分かってたなら、なんでやったんですか。せめて事前に報告すれば――」

「してたら、許可が下りたと思う?」

「……下りなかったでしょうね」

 主役交代は館長の決定だ。あの人が一度下した決断を翻すとはとても思えない。

「でも、通達があった時に異議を申し立てることはできたと思います。どうして黙ってたんですか」

『反対意見のあるやつはいるか?』

 先月頭のミーティングでアイの降板の発表があった際、館長は珍しく職員から意見を募った。その言葉は明らかに建前だったが、それでも異論を口にするチャンスはあった。

 けれど、舞彩が手を上げることはなかった。椅子に座ったまま、じっと床を見つめる彼女の姿はいつもとかけ離れていて、翔はずっと違和感を覚えていた。

「………」

 舞彩はしばらく黙り込んでいた。あの日と重なるその姿に歯がゆさを覚えるも、翔は続く言葉を待つ。

 やがて、舞彩は小さく肩をすくめた。

「何事もその時々の流れがあるから。無理にそれに逆らおうとは思わないよ」

 そう言うと舞彩は視線を切り、通路の先へ歩き出す。

「……そうですか」

 それだけ返して、翔は舞彩の後に続いた。

 きっと、期待しすぎていたのだ。舞彩にとって、アイはあくまでビジネスパートナーの関係だった。ただ、それだけのことだ。

 そう自分に言い聞かせるも、翔はどうしても落胆の情を消すことができない。そんな自分がどうしようもなく、しょうもなく思えた。

 ――同じ穴のムジナなのにな。

 館長から決定が言い渡された時、黙っていたのは翔も同じだ。ただ、舞彩が反対してくれるのを期待していただけ。そんな自分に彼女を咎める資格など、あるはずがない。

「やっぱりどこにもいないね」

 不意の声に顔を上げると、舞彩が立ち止まっている。そのまま視線を上げれば、頭上で緑に縁取られた『EXIT』の文字が光を放っている。いつの間にか出口に辿り着いていたらしい。

 舞彩はこちらへ振り返って続けた。

「捜索はまた今度にしよう。日を改めたら見落としが見つかるかもしれないし」

「そうですね」

 翔は適当に相槌を打つ。なんだか疲れた。とにかく今日を早く終わらせたい。

「戸締まりは私がしておくから。翔は先に上がっちゃって」

「お願いします」

 お疲れさまでした、と軽く頭を下げると、翔は足早に職員用スペースの方へ向かう。

 『関係者以外立入禁止』と書かれたドアの前に来た時、ちらりと後ろを振り返った。

舞彩はぼんやりと、ガラスの向こうで泳ぐエイを眺めていた。

 ――夢見がちだったんだろうな。

 翔は自嘲の笑みを零し、職員専用のドアをくぐった。

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