【短編】幼馴染の女子高生は、大好きな腐れ縁の男子を美少女転校生に譲らないために、誰よりも先に秘めた想いを告白するようです。

日比野くろ

第1話

 これは、わたしのずっと昔の話。

 通っていた保育園の砂場で、幼馴染の慶介と稀に見る大喧嘩をしたことがあった。


『なによ、けいちゃんのばか!』

『ハルだってバカだ。いーだ!』


 わたしはプラスチックの子供用シャベルを、慶介は小さな子供用バケツを握りしめて、睨み合っていた。

 砂と水にまみれて、服も髪もめちゃめちゃになっていた。途中で、先生が割り込んでくるほどの騒動になってしまった。


 わたしたちはこっぴどく叱られた。

 

『春海ちゃん、慶介くん。何がきっかけで、こんなことになったの』


 春海というのは、わたしの名前だ。

 みんなからはハルと呼ばれている。


 二人とも不貞腐れて、何も答えなかった。

 喧嘩の原因は何だったのか、今となっては覚えていない。些細だが、気に入らないことがあったのだと思う。


 砂をかけあい、用意していた水をぶっかけたところから、収まりがつかなくなった。

 二人とも自分からは謝らなかった。

 謝ったら負けのような気がしたからだ。


 先生は、わたしたちをこんな風に叱った。


『嫌なことをされて、怒りたくなるのは、仕方ないことよ。でも、まずはちゃんと理由を言いなさい』

『…………』

『…………』

『どうして喧嘩をしたのか、話せないの?』


 そのときのわたしたちは、原因を話すことができなかった。


 まわりの同い年の子からの視線も集まっていて、すごく居心地が悪かった。

 いつのまにか喧嘩していたのだ。何がきっかけだったかなんて、まるで覚えていない。



 だが、しかし。

 そのときの先生の言葉が、いまも頭に残っている。


『いい? 心の中で思っていることは、言葉にしなきゃ伝わらないの』

『ことば……?』

『そう。それを伝えないで喧嘩になっちゃうのは、一番良くないことだよ』


 そのとき、幼かったわたしは気づいたことがあって、思わず慶介と視線を合わせた。


 ひどい格好だった。

 自分は服の中までべちゃべちゃで、気持ち悪かったが、それはお互いに同じだ。

 ここまでされるような悪いことは、どっちもしていない。


 やりすぎたと、ようやく気づいたのだ。



 先生に怒られ、両親にも怒られた。

 結局、仲直りできたのは、次の日だった。


『ごめんね……』

『ぼくも、ごめん』


 お互いに謝って、すっかり仲直りできた。

 帰る頃には、手をつないで遊ぶ仲に戻ることができた。

 それが嬉しかったことは今も覚えている。



 あの日がなかったら、今のわたしはない。

 それから慶介は、わたしの心の深い場所にいるようになった。





 ………………

 ……




*   *   *

 


 二階にある自室の、部屋の窓ガラスが叩かれる音が聞こえた。


 いつものことなので、取り乱さない。

 数学のノートから視線を外して、窓のほうに向ける。しぶしぶ遮光カーテンを開けた。

 幼稚園からの幼馴染の慶介だ。

 隣の家から、棒を使ってノックしてきていた。


(何か企んでる顔ね……)


 苦っぽい笑顔で手を振ってきている。

 嫌な予感がした。だが無視するわけにもいかない。窓を開けて、警戒しながら答えた。


「……なに」

「あー……もしかして、ハル、機嫌悪い?」

「春休みの宿題をやってたの。それで?」

「ええっと……晩飯、作ってくれないかなって」


 申し訳なさそうにそう言った慶介に、思わず頭を抱えた。

 もうすぐ夜の八時だ。

 この男は、こんな時間になるまで、一体何をしていたのだろう。


(そっか。おじさんもおばさんも、しばらく留守だって言ってたなあ)

 

 ハルちゃん、よろしく頼むよ、と。

 慶介を任されたのは、数日前の話だ。


 慶介の両親は、仕事の都合で家を開けることが多い。

 十年以上、家同士で付き合っていることもあって、おじさんやおばさんとは仲がいい。

 頼まれごとをするのも、されるのも、お互いに日常茶飯事だ。


 しかし、こんな時間になって夜食を作ってくれと頼まれるとは思わなかった。

 カップラーメンでも作ればいいのに。

 まったく、もう。


「わかった。じゃあ家の鍵。開けておいて」

「恩に着る!」

 

 神様にそうするように手を叩き合わせて、わたしに頭を下げてきた。

 適当にあしらってカーテンを閉じたあと、わたしは深いため息をついた。


「こう言う時ばかり調子がいいんだから、まったく……」


 今日の分の宿題ももうすぐ終わりだったけれど、すぐに行ってあげないと辛いだろう。

 用意を整えて、部屋着のまま外に出た。


「さむいなあっ」


 今はまだ三月だ。

 吐く息はまだ白くて、とても肌寒い。

 腕を手でこすりあわせながら、茶色のレンガ調の家に駆け込んだ。


 丁寧に靴を脱いで中に入ると、薄着でも十分なくらい暖房が効いていてほっとした。

 慶介のいるリビングに向かう。

 そして、愕然とした。


「…………」

「きてくれたのか! いやあ、悪いなあ」


 絶句していることにも気付かずに、調子よく出迎えてくる。

 ひくひくと眉が揺れた。


「慶介。これ、何?」

「何って。あー……いや、ほら。一人だと思って適当にやってたら、つい汚しちゃって」


 リビングは、あまりに酷い惨状だった。

 まずソファには衣服が散乱している。

 使ったと思われる食器は、洗うどころか、机から片付いてすらいない。

 ポテトチップスの袋さえ捨てられていないのは、汚いとかそれ以前の問題だ。


(生活力皆無か、この男)


 申し訳なさそうに頭を掻く幼馴染だが、笑って許せる範囲を超えている。


「この状態で、わたしに、どうやって料理をしろっていうのよ!!」


 ガツンと言うと、目を丸くしていた。


「え。どかせばなんとかなるだろう?」

「ならないわよ! 食器洗うのも、そのあと洗濯機かけるのも、誰だと思ってるの!!」

「それは、まあ、そうかもしれないけど」

「わたしたちもう高校生なんだから、しっかりしてよ!」

「ご、ごめんなさい……」

 

 落ち込んでしまったが、これは自業自得だ。呆れ返ってものも言えなかった。

 

「食事どころじゃないわね……部屋の片付けから済ませていかないと。慶介! 自分の服、洗面所に全部しまってきて」

「ええ? そんなの、別に後でいじゃん。ハル、俺腹減ったよ」

「先にやるの! さもないと、この惨状を写真にとって、おばさんに送りつけるわよ!」

「わ、わかった! やるよ、やります!」


 脅して、ようやく動き始めた幼馴染を見て、重いため息をつく。


 どうして男の人というのは、こうも無頓着に部屋を汚せるのだろうか。

 片付けるのは全部自分なので、なんだか損をしているような気持ちになる。


(ほんとにもう。大人になったら、どうするつもりなんだろ……)


 社会人になったら、何もかも一人でやらなければならなくなる。

 わたしがいなかったら苦労するだろうな。

 洗剤をスポンジにつけて皿の汚れを落としながら、慶介の将来を憂いた。





*   *   *



「あっ。ちょうどこの時間からやってるんだった!」


 食事を作り終わって息をついた時。

 壁掛け時計を見たわたしは、はたと思い出して、顔を上げて大声を出した。


「何が?」

「ドラマよ! 今、すごく話題になってる面白いのがあるの!」


 箸を口に含めた慶介は、目を丸くしている。

 慌ててリモコンを手にとって、テレビをつけた。ちょうどCMが終わったところで、本編が始まった。


 少女漫画が原作の、高校が舞台になっている恋愛ドラマだ。

 登場人物に見覚えがあったのか、慶介もああ、と納得したような声を出した。


「これ朝のニュースで見たことあるな」

「視聴率もすごいんだよ。女の子の間では、知らない子がいないくらいの人気なんだ」

「ふーん」


 男の子の慶介は、まったく興味がなさそうだった。


 わたしはこのドラマが大好きだった。

 地味だった女の子が、転校してきた格好いい男の子に恋をして、可愛らしく生まれ変わっていくという物語だ。

 わたしの家に恋愛ものの少女漫画が増えたのは、この作品の影響だった。


「いやいや。こんなの、現実にあるわけないじゃん」


 だが、盛り上がってきたシーンで、慶介は冷めたように笑った。

 せっかく楽しんでいたのに、水をさされたような気がしてむっとした。


「そんなことないよ。現実にだって、こんな話があるかもしれないでしょう」

「絶対ないって。ていうかハル、こんな女っぽいのが好きなんだな」


 物語は、両親のいない家で二人きりになって、いい雰囲気になったシーンに突入した。

 だが、もう意識はそちらに向いていない。


「わたしが何を好きになってもいいでしょ」

「いやいや、お前には全然似合わないって。恋愛とか無縁そうだし」

「はぁ!?」


 あまりに失礼なことを言った慶介に、立ち上がって声を荒げた。

 ドラマでは二人が見つめ合って、互いに胸を高鳴らせているシーンだが、それとは真逆のピリピリとした空気が流れている。


「何を見てそう思ったのよ!」

「じゃあ聞くけど、誰か好きになったりとかしたこととか、あるのかよ」

「ううっ……それは、ないけど」

「ほれみろ!」

「あー、なんかムカツク! じゃあそう言う慶介はあるの!?」

「あるわけないだろ……うわ!? ちょっと待て、暴力は無しだって、反則!」


 無性に苛立って、クッションを振り回し、慶介をボコボコにやっつけた。

 慌てて腕で顔を守ったが、何度もばふばふと攻撃が命中して埃が散った。


 見たかったドラマが終わってしまった。

 しかしわたしたちはといえば、大声をあげての大喧嘩が始まってしまって、しばらく騒がしい時間が過ぎていった。




*   *   *



 結局、家に戻ったのは、十一時を過ぎてからのことだった。


「まったく、慶介ってば、ほんとデリカシーないんだから」


 部屋に戻ってから、ひとりで頬を膨らませる。全然苛立ちが収まらず、不機嫌なまま腕を組んだ。


 だが、しずまった部屋に一人でいるうちに、怒りが別の感情に置き換わっていく。


「恋愛か……」


 ちら、と本棚に視線を向ける。

 使わなくなった教科書や、テキストの隣の棚に、少女向け漫画がずらりと並んでいる。


 一冊を手にとって、ぱらぱらと流し見る。

 物語の主人公になる女の子は、華々しくて、誰もが憧れるような恋をしていた。

 最初に見た時は、すごく心がときめいた。

 でも今は、冷めた目で見てしまう。


(現実で、こんなことありっこないのに)


 憧れるのは確かだ。

 だがこんな都合のいい展開はありえない。


 現実には、漫画に出てくるような理想の男性はいない。

 自分も物語のヒロインのような綺麗な容姿ではないし、特別な物語もない。


「可愛くもないし、胸だって大きくないし」


 ヒロインの子がみんなに愛されるのは、顔も性格も綺麗だからだ。自分とは違う。


 はぁ、とため息を吐いた。

 どこにでもいる女子高生でも、漫画みたいな恋をしてみたいと思うのは、当たり前だと思う。

 しかしその一方で、高望みだということは分かっていた。


「そもそも、好きな男の人がいないのよね」


 何よりの問題が、そこだった。

 男子と付き合っている友人も出始めているが、自分にはその心が全く分からない。


(男の人と付き合うって、どんな感じなんだろ)


 想像したが、現実は分からない。

 創作ならともかく、どうやれば自分を預けられる相手が手に入るのか不思議だった。


「好きな人、好きな人かあ……」


 もう高校生にもなったのだ。

 慶介には馬鹿にされたが、自分だって胸焦がすような恋をしてみたいと思う年頃だ。

 しかし今までに、そんな出会いはない。


(本当に……? 一人くらい、いたんじゃない。見逃してないかな)


 別に女子校に通っているわけでもないのだ。相手になりうる人がいたかもしれない。


「誰かいたかなぁ……」


 深く考え込んだ、その数秒後。

 カッと目を開けた。


「はあっ!? なんであんなやつがっ!」


 顔を真っ赤にして、怒鳴った。

 頭に浮かんだのはニヤついた慶介の顔だ。

 一番ありえない選択肢だが、すぐに落ち着いた。

 

「……さっきまで顔あわせてたからか」


 甲斐甲斐しく世話をしたばかりだから、思い浮かぶのも当然か。普段会う男子は、あいつくらいしかいないが、あれはない。

 こちらをバカにするようなにやけ顔を、早々に頭の中から追い払った。


(ないよね。うん、ないない)


 あんなガサツなやつが彼氏なんて、天地がひっくり返ってもあり得ない。

 慶介は家が近いだけの、腐れ縁だ。


「疲れてるのかな。寝よ……」


 ベッドに身を投げようとした。 

 だが、テーブルに中途半端に残した宿題を見つけて、頭を抱えた。


「あっ、宿題やってない! ……はぁぁ」

 

 げんなりと落ち込んだ。

 別に急ぐわけではないが、こんな中途半端に残していても仕方ない。


「慶介のやつ許さないんだから、まったく」


 ぶつくさと言いながら、渋々と机に向かって、わたしはシャープペンを手に取った。




 ………………

 ……




*   *   *



 新学期が始まった。

 わたしたちは高校二年生になった。

 桜咲く坂道は、新しい春の息吹を滾らせている。その初日は清々しい日本晴れだ。


「…………」

「…………」


 一緒に登校していた慶介と、わたしは、その通学路で固まった。



 目の前に、まるで漫画の中から抜け出してきたような、綺麗な女の子がいた。


 銀色の髪は、絹のように綺麗だ。

 思わず守ってあげたくなるような、可愛らしくて弱々しい顔立ちをしている。


「う、うううっ」


 女の子でも見惚れてしまうような女の子が、泣きながら、道端で尻餅をついていた。

 その美しい緑色の瞳が涙を滲ませて、こちらを見ている。


(えっ。これ、どういう状況……?)


 理解が追い付かずに、その場で凍りついてしまう。


 そばに空き缶が転がっている。

 もしかして、あれで転んでしまったのだろうか。

 すると正義感の強い慶介が先に駆け寄り、屈んで様子を確認した。


「君、大丈夫?」

「はい。あ、あのっ、ありがとうございます……」


 恥ずかしがっている様子で、頬を赤らめながら慶介から視線を外した。

 何となくモヤッとした気持ちになったが、そんなことより、怪我をしていたら大変だ。


「わたし絆創膏持ってるよ。使って」


 鞄を漁って、絆創膏の箱を取り出した。

 美少女は慌てたように遠慮する。


「い、いえ。大丈夫です。ご心配をおかけしてごめんなさい」

「膝のところすりむいてるでしょう。ちゃんと貼っておかないとだめだよ」

「あ、ありがとうございます……」


 少女は極度の人見知りなのか、とても緊張した様子だったが、受け入れてくれた。


(それにしても、すごく綺麗な子……)


 屈んで近づいてみて分かったが、少女は羨ましいほどに綺麗な肌をしていた。

 白く透き通って、滑らかで艶かしい。


 もしかすると、どこかのお嬢様かも。


「はいっ、これでよし……と」


 少し緊張しながら、貼り終えた。

 

「助けていただいて、ありがとうございます。ええっと……あっ!」

「どうしたの?」

「わたし、急いでたんでした! すみませんっ、お礼は後で必ずします。失礼します!」

「え、入学式はまだ先じゃないの? ……行っちゃった」


 彼女は真っ赤な顔で、ぴゅうと走り去ってしまった。すぐに見えなくなる。

 伸ばした手だけが残された。

 一体、あの少女は何だったのだろう。


(そういえば、慶介、大人しいな……?)


 不思議に思って、ふと隣を見た。

 だらしないにやけ顔で、さっきの美少女を見送っていた。


「あの子、すげえ可愛かったな……」

「…………」

「え。ちょ、ハル。どこ行くんだよ!? なんか怒ってる?」

「何でもない!」


 つんとそっぽを向いて、学校に向かった。

 慶介には不機嫌の理由が分からないのか、情けない声でついてくる。


(バカ! 慶介なんて知らない!)


 どうしようもなく苛ついた。

 だがしばらくして、疑問に思った。


(でも……どうして、こんなにイライラするんだろう)


 自分でも理由が分からなかった。

 しかし苛立つような気持ちは本物だ。


「おーい!?」

「……ふんっ」


 結局、わたしは最後まで、慶介にそっぽを向いたまま通学してしまった。




*   *   *



 学校に着く頃には、機嫌も戻っていて、慶介も安心した様子だった。


(気持ちを切り替えないとね)


 よしっと、気合を込めた。

 今日から新しい生活が始まるのだ。

 いつまでも不機嫌なままではいられない。


 二人で一緒に、貼り出されたクラス分けの掲示板を見る。

 そして思わず苦笑いしてしまった。


「なんだ。また一緒なのか」

「離れたことって、一度もなかったよね」


 今回もクラスは一緒だった。

 慶介とは保育園の頃から、一度も離れたことがない。腐れ縁とはよく言ったものだが、ここまで続くのは珍しいと思う。

 

 二人で教室に向かった。

 何事もない、平和な一年が始まるのだ。



 ――平穏はさっそく破られた。



「きょ、今日からこちらでお世話になりますっ。咲 姫華と申します!」


 可愛らしく、緊張したような声で、転校生は自己紹介をした。

 教室が完全に固まった。

 人離れした美貌のお嬢様は、一瞬怯えたように様子を伺った。


 しかし直後に爆発した。

 

 わあああああっ、と。

 男子は「よろしく、咲さん!」と立ち上がって拍手喝采し、興奮を隠さない。

 女子からも、きゃあきゃあ騒がれている。

 まるで、テレビで人気のアイドルがやってきたような扱いに、戸惑っているみたいだ。


「はい、静かに。みんな席について」


 新しい担任になった先生の指示で、咲さんももう一礼して席についた。


(ちょ、なんで慶介の隣なのよ!)


 わたしは、思わず立ちあがりそうになった。

 慶介の隣に座った咲さんは、はにかみながら慶介に挨拶した。朝の出来事があったからか、緊張もほぐれているらしい。

 それに気を良くしたのか、口元を緩めて、だらしない顔をしていた。


 周囲の男子から睨み付けられていることも気付いていないようだ。

 わたしも、すごく苛立ってしまった。


(慶介〜! デレデレしちゃって、もう!)


 しばらく顔も見たくない気持ちだ。

 朝よりも嫌な気分になって、わたしはぷいと、そっぽを向いた。





 時間が経つごとに、その気持ちは少しづつ変わった。


 イライラしたような気持ちはない。

 全部、焦りと不安に変わっていった。




 咲さんは、学年中の注目の的だった。

 モデルかと見紛うほどの美少女で、気立てもいい。

 出身が田舎で、世間知らずで、自分のスマホの使い方さえ分かっていない様子だった。


 そんな調子だから、お近づきになりたい男女がいっせいに群がった。

 自分を売り込むために親切にした。

 もっとも、咲さん自身は目を回していたので、途中からクラスの女子による接触禁止令が出された。隣の席になった慶介以外の男子は大いに嘆いた。


 そう。

 慶介だけが、美少女の転校生とどんどん仲良くなっていったのだ。





*   *   *



 波乱のイベントから幕を開けた新学期。

 わたしは、女子トイレの洗面台で、嫌な気持ちで自分自身を見つめていた。

 

(どうしてこんな気持ちになるの……)


 顔を洗ったのに、気持ちはぜんぜん切り替わらない。

 こんな切ない気持ちになるのは生まれて初めてだが、どうしてこんな風になるのかわからない。


 私の中に、漠然とした焦りがあった。


 わざと冷たくしているのに、慶介は、ぜんぜんそのことに気付かなかった。

 その間に咲さんは、すっかり慶介に懐いてしまったみたいで、距離が近くなった。


 授業中はノートで筆談をしあっていたし、お昼には二人きりで昼食をとろうとしていた。

 それに気づいた時は気が気ではなかったが、結局他の女子に囲まれて、二人きりとはならなくて、すごく安心した。


「……わかんないよ」


 わたしは、安心した理由も、不安に思う理由も分からずにいた。


 幼馴染が、みっともない顔でデレデレしているのが、見ていて嫌だと思うところまでは納得がいく。

 しかし、辛いと思うような気持ちが湧き出してくるのは納得ができない。


(気の迷い……ううん、そうじゃない)


 そんな言葉で済ませていいほど、これは軽い感情じゃない。



 予感があった。

 いま何かを間違えてしまうと、一生後悔するようなことが起こる。


 どうして、胸がしめつけられるように苦しくなるのか。

 苦しさの正体が何なのかを探った。


『じゃあ聞くけど。誰かを好きになったりしたことがあるのかよ』


 ふと、慶介に。

 そんな風に言われたことを、思い出した。


「あっ……」


 不意に、気付いた。

 まさかと思う。

 鏡にうつった自分自身は、驚嘆していた。

 

「嘘よね?」


 すぐに受け入れられない。

 口を開けたまま、引きつった笑みを作る。


 考えたことがないわけではなかった。

 普段ならありえないと、速攻で否定して終わらせていた可能性だ。

 しかし、空白だったピースが、ぴたりと埋まったような納得があった。

 自分を騙すことはできない。


「わたし、慶介が好きなの……?」


 言葉にしてみると、胸にすとんと落ちてきた。

 保育園の頃から今まで、気づかなかった。


 慶介はただの幼馴染だ。

 だから頭に思い浮かべるのは、自分に情けなく頼ってくる、普段の姿だった。


 しかし、今は違う。

 頭の中の啓介の姿は、自分にだけ微笑んでくれる優しい姿に切り替わった。


 腐れ縁の幼馴染から、格好いい男性になってしまっていた。


「うそ、うそよね」


 顔が赤くなって、頬を抑える。

 否定しようとしても、気付いてしまって、もうできなかった。

 

「どうしよう……わたし、慶介が好きなの……?」


 今まで、一緒に過ごしてきた自分の態度を思い返して、恥ずかしい気持ちが溢れた。





 一分もしないうちに、深く落ち込んだ。

 

「どうするのよ、こんなの」


 でも、自分は慶介にとって何でもない。

 慶介はきっと自分を好きじゃない。

 


 咲さんと仲良くしている慶介を見ていると、胸が苦しくなるけれど、どうすることもできない。

 こんな気持ちを持っているなんて、誰にも知られたくなかった。




 ………………

 ……




*   *   *



 本当の気持ちを伝えるのが、怖い。


 それでも一歩を踏み出せたのは、焦る気持ちが、自分にとってあまりにも大きすぎたからだと思う。



「け、慶介。ちょっと話があるんだけど」


 二人きりで帰宅している最中。

 わたしは巻いたマフラーを握りながら、覚悟を決めて申し出た。


「何だよ、急に改まって」

「う……」


 慶介はいつもと何も変わらない気の抜けた顔で、きょとんと首をかしげていた。

 普段と同じように視線を合わせられない。

 緊張していることは悟られているだろう。

 強引に押し切るしかなかった。

 

「慶介。今日の夜は、空いてる……?」

「別に何もする予定はないけど。お前なんか変だぞ、大丈夫か?」

「わたしのことはいいの! 夜の散歩に付き合ってほしいのよっ!」


 制服の裾を握りしめながら、半ばやけになって叫んだ。

 戸惑ったようだったが、頷いてくれた。





 だが、そんなふうに了承を取り付けた後。

 部屋で一人になって、わたしは真っ赤に火照る顔を抑えた。


「何を言えばいいのよ……!」


 勢い余って誘ったまではよかった。

 でも、何をどうすればいいのか、自分でもよく分かっていなかった。


 急いで気持ちを伝えなくてもいいのではないか。

 そんな風に思ってしまうが、そのたびに首を横に振った。


(だめ。それだけは、だめ)


 それだけはできなかった。

 理屈ではない。今を逃したら大変なことになると、勘が告げていた。


 しかし、結局どう伝えればいいのは分からない。頭の中のシミュレーションでは、良い案は何も思い浮かばなかった。


(好きだって、慶介に直接言えば……)


 きっとそれが一番正しいのだろう。

 しかしだめだった。


「そんなこと、できないよ……」


 頭を抱えて、うずくまった。

 わたしはすっかり弱気だった。

 十年以上半生を連れ添って、お互いのことは何でも知っている。そんな相手なのに、本心をぶつけるのが、震えるほど怖かった。


 


 稼いだ時間は、あっという間に過ぎた。

 玄関のチャイムが鳴る。

 深呼吸で息を整えてから扉を開けると、茶色の冬コートを着た慶介が手を上げた。


「よ。こんな寒いのに、よく散歩する気になったな」

「……うん。ちょっと待ってて」


 白色のコートを羽織って、玄関を出た。



 空は真っ暗だが、うっすらと雲が漂っているのが見えた。

 吐き出した息が黒色を上書いていく。

 二人とも無言だった。

 慶介は喋りだすのを待っているみたいだったが、わたしは勇気が持てていなかった。


 普段なら雑談を交わすところだ。

 だが今は、そんな心の余裕もなかった。

 

(なんで、今まで平気だったんだろう)


 ドッドッと打つ心臓の音が聞こえてしまわないか、とても心配だった。


 夜中に二人きりになるなんて、今までに何度もあったことだ。

 好きだという気持ちを持ってしまったら、こんなに変わってしまうものなのかと思う。

 寒いはずなのに、昂っていく自分の身体が恨めしかった。


「何か、話があるんじゃないのか?」


 たまらなくなったのか、慶介が先に尋ねてきた。

 飛び跳ねそうになったが、息を整えた。


「どうしてそう思うのよ」


 声を裏返すことなく、落ち着いているふりができた。


「お前があんな風に誘ってきたんだから。何か相談があるとしか思えないだろう」

「…………」


 少しの間、返事は返さなかった。

 普段は鈍いのに、変なところで察しのいいやつだと思う。

 自分から作った機会だ。逃げ場はない。


「そうだね。あるよ、話」


 そう言ってから、少し早足で歩く。


「お、おい。どこに行くんだ?」

「…………」


 追いかけてくる慶介の気配を感じながら、前に進んでいく。そして立ち止まった。


 視線の先には、建物があった。

 わたしたちの育った保育園の敷地だ。


「慶介は覚えてる? わたしたち、ここで初めて知り合ったんだよね」

「まあ、一応。あんまり覚えてないけどな、さすがに十年以上経ってるし」


 夜の保育園に、人の気配はない。

 しかし砂の山があったり、カラフルな遊び道具が放置されていたりと、人の気配は数多く残されていた。

 あの頃と変わらない景色があった。


「いつだったか、先生にめちゃめちゃ怒られたことがあったのは、覚えてる?」

「何の時だっけ?」

「あそこの砂場で喧嘩して、二人で泥まみれになったときよ」

「ああっ、そんなこともあったな!」


 慶介も思い出して、手を叩き合わせた。

 あれが、保育園の頃に一番こっぴどく怒られた出来事だ。忘れているはずがないと思っていた。


「喧嘩した理由を、二人とも先生に言えなくて。自分の気持ちをちゃんと言葉にしないといけないよって、すごく怒られたよね」

「そうだったかな……?」


 どうやら慶介は、怒られたことしか覚えていないらしい。

 だから、まだわたしが何を言いたいのか、ぴんときていない様子だ。


「でも、それがどうしたんだよ?」

「慶介。わたしも、今、言わなきゃいけないことができたの」


 真っ直ぐに幼馴染を見つめた。


「自分の気持ちをちゃんと言葉にしたい。聞いてくれないかな」


 慶介にも真剣さが伝わったのだろう。

 恐る恐る尋ねてきた。


「あのさ……その前に、一応聞いておきたいんだけど」

「うん」

「何か怒らせたりした?」


 わたしは、目を丸くした。

 空を向いて少しの間考える。


「そう言われると……ちょっとイライラはしたかも」

「えっ。やっぱ、俺、なんかやらかしたのか!?」

「悪いことは何もしてないよ。わたしが勝手にそういう気持ちになったの」

「どういうことだよ……」


 困り果てた慶介を見て、わたしは罪悪感を感じてしまう。


 わけがわからないだろう。

 でも、そう言うしかなかった。

 咲さんと仲良くなりはじめているのを見て、焦ったのは本当の気持ちなのだ。


(っ……ちゃんと言わないと)


 気持ちを口にする時が来た。

 うまくいかなかったら、どうしようと、唾を飲んだ。恐怖が湧き上がってくるが、いまさら引き下がれない。


「……今日、転校してきた子がいるよね。咲さん」

「あ、ああ」

「慶介がね、咲さんと仲良くしているのを見て、自分の中に、そういう気持ちがあることに気付いたんだ」


 ここまで言ったら察してくれるかと思ったが、慶介には、気付いた素振りさえない。


 どうして分かってくれないんだろうか。

 だが、歯を食いしばって、その気持ちを強引に押さえつけた。

 

『心の中で思っていることは、言葉にしなきゃ伝わらない』


 保育園の先生に言われた言葉だ。

 相手が十年以上をともに過ごした幼馴染であっても、言わなければ、伝わらない。

 まだまだ、前に踏み出さなければならない。


「わかんないよ。ハルは俺に何が言いたいんだ?」


 しびれを切らした慶介が、訴えてくる。

  

「慶介が、あの子にとられちゃいそうで、わたし、すごく嫌だったの……っ!」


 無人の保育園の前で、想いを絞り出した。

 直球ではなかったが、核心だ。

 とうとう、本人の前で言ってしまった。


 しんと静まった夜の街。

 白くなった吐息が空に消えていった。



「それ、どういうことだ……?」

「ぐっ……」


 だがしかし、それでも慶介は目を丸くするばかりだった。

 なんて鈍感なのだろう。

 この男は、気付けよと思ってしまう。


(どうして、こんなやつのことを、こんなに好きになっちゃったのよ……!)


 漫画で描かれたヒロインの気持ちが、今ならよく分かった。

 相手のためならなんでもできてしまうのに、好きだと思う気持ちは伝えられない。


 告白する立場になって、ようやく難しさを理解できた。

 

(今の関係が壊れるのが、怖いんだ)


 考えてみれば、さっきから口から出てくるのは、遠回りな言葉ばかりだ。

 この男には、直球で伝えるしかない。


 それでも言葉が出てこないのは、伝えれば、慶介が自分の前からいなくなってしまうかもしれないと思っているからだ。


(無理だよ、もう……)


 他の女の子に取られるのが本当に嫌なのに、本心の言葉が出てこない。


「っ……」


 わたしのような可愛げのない女なんて、きっと置き去りにされてしまう。

 失ったら二度と立ち直れない。

 それなのに言えない。目尻から溢れた涙を拭う余裕もなくなっていた。


「えっ、ハル?!」


 慶介は慌てたが、それどころじゃない。


 これ以上、先に進めない。

 自分に、告白なんて、やっぱりできない。

 自分の限界を理解してしまって、それが、どうしようもなく辛かった。


(わたし、慶介にとって、必要な存在じゃないのかな)


 気軽に何でも話せる幼馴染のはずなのに、そのくせ本心は何一つ伝えられない。


「どうして、あなたが好きですって、言えないのよ……」


 たったの一言が出てこない。

 今までずっとぬるま湯に浸かって、告白さえできない程度の関係しか築いてこなかった自分が、心から恨めしかった。



 

 だが、しだいに、変に思った。

 前に立っている慶介からの反応がない。

 一歩、背後にさがったのを感じた。


 顔を上げると、慶介は顔を真っ赤にしながら、わたしのことを見ていた。


「え……」


 なぜ慶介がそんな顔をしているのか、分からない。

 まるで告白されたみたいな表情だ。

 あたりを見回したが、変わったものは何もない。


 そしていまさら気付いた。

 口を、手で覆った。


「あ、ああ、あっ……」


 声に出てしまっていた。

 一番大切な部分を無意識に、はっきりと口に出してしまっていた。

 慶介とは反対に、みるみる青ざめていく。



「あ、おいっ、ハルっ!!」


 わたしは背中を向けて、一目散に逃げ出した。


(嘘、嘘。嘘っ……!)


 夜の冷たい空気が胸いっぱいに入り込んだ。

 喉がじんと痛くなって、体中が熱くなったり寒くなったりした。

 だが、頭の中は真っ白だ。


 住宅街が視界から流れていく。

 来た道を戻って、狭い道路を駆けていく。

 途中では誰ともすれ違わなかった。

 背後から追いかけてくる様子もなかった。

 



 家に着いて玄関を閉めて、鍵をかけた。

 脇目も降らずに階段をかけのぼった。

 部屋に入って、カーテンを閉じる。


「はっ、はぁっ、はぁ……っ」


 自室の暖かい空気に包まれて、徐々に思考が戻ってくる。

 目元を指先でこすると、涙で濡れていた。


「っ……!」


 自分に対して、どうしようもない嫌気が湧き上がってきた。


「バカ! バカバカ、わたしのバカ……っ」

 

 膝から崩れ落ちて、目元を覆った。

 あんな形で言うつもりはなかったのに。


「なんで、逃げちゃうのよ……ばか」


 自分の行動の何もかもが、分からない。

 両手で顔を抑えて、声を殺した。


 こんなにも悲しい気持ちになるのは、きっと、この恋の結末を知っているからだ。



 慶介は、自分なんて好きじゃない。 

 わたしに、恋なんて似合わない。


 女らしくもなければ、愛想も悪い。

 スタイルも顔も人並みだ。自分を好きになってくれる男の人なんていないって、本当は知っている。

 それなのに、無謀にもそれを踏み越えて、関係を壊してしまった。



「ハルー、どうしたの。すごい音したけど、大丈夫なの?」

「大丈夫だよ、お母さん」


 声が震えないように努力して、下の階にいる母親に返事をかえした。

 そのあとに声をすぼめて、自分にだけ聞こえるように言った。


「大丈夫なわけないよ……」


 あんな形でも、本当の気持ちを伝えてしまったのだ。きっともう元には戻れない。


 慶介と、もう会えない。

 それを考えると、涙がとめどなく流れた。


「やだよ……慶介」


 胸が締め付けられて、座り込んだまま、動けなくなった。



 すると、閉ざした自室の扉が開いた。

 びくっとその方を見る。


「よ、よう。生きてるか?」


 心配になって見にきた両親かと思ったのに、当たり前のように入ってきた相手は、コート姿のままの慶介だった。


「は……?」


 頭が真っ白になった。

 ここは、たしかにわたしの部屋だ。

 泣きはらしていたことも忘れて、相手を指差しながら、手を震わせる。


「け、け、慶介……!? あ、あんた、なんで……」

「いや、その。うちにこの家の鍵が置いてあったからさ。それを使ってちょいね」


 申し訳なさそうに、手で後ろ頭を抱えながら頭を下げた。


 そういえば、そうだった。

 慶介とわたしの家は、合鍵をお互い渡しているほどに仲がいい関係だ。

 いまはリビングに両親がいるはずだが、顔見知りなので、素通りさせてしまったのだろう。


(だからって、なんでこんなところまでくるの、この男は……!)


 普通、泣いているこのタイミングで、女の子の部屋に入ってくるだろうか。


 しかし、今日だけはいつものように怒れない。

 気まずすぎて、それどころじゃない。


「…………」

「…………」


 さっきの出来事からまだ三十分も経っていない。

 顔を直視することも難しい。

 失態が、頭の中に鮮明に蘇って、涙が溢れそうになる。

 

「あ、あのさ。さっきのことなんだけど」

「…………」


 わたしは慶介と話すのを拒否するように、膝の中に顔を伏せた。

 どんな顔をしていいのか分からなかった。


(きっと、今からわたし、振られるんだ) 


 また、涙が溢れそうになった。

 慶介は妙に律儀だから、わざわざ伝えに来てくれたのだろう。

 女の子としての魅力がないわたしに、気を遣ってくれているのだと思うと、辛い気持ちになった。


「いろいろ考えてみたんだ。お前のことを」


 胸がズキンと痛くなった。

 背筋から体が冷たくなっていく感覚が昇ってくる。胸に穴が空いたように心細い。

 このまま時間が止まってくれないだろうか。

 そうすれば、何も聞かずに済むのに。



「それを話す前に、ハルにお願いがあるんだ」

「なに……」


 何も聞きたくなくて、ぶっきらぼうにかえすと、慶介はコートも脱がずに近づいてきた。


「さっき、保育園の頃に喧嘩したときの話をしたよな」

「そうね」

「その時と同じやり方で、仲直りさせてくれないか」

「えっ……?」


 仲直りって、一体何のことだろう。

 まさか、さっきの出来事を無かったことにしようと言うつもりだろうか。

 だがそれにしては、慶介の表情は真剣だ。


(仲直りって、一体何のつもり……?)


 その時と同じやり方で、と慶介は言った。

 わたしは、幼い日のことを思い返した。



 保育園の砂場で泥まみれになって、大人にこっぴどく怒られた次の日。


『はる、なかなおりしよう』

『けいちゃん……うん』


 慶介とは、普通と違う方法で仲直りした。

 その瞬間を思い出した。



「っ……!?」


 かあっと、顔が熱を帯びた。

 慶介は自分から言ってきたくせに視線を逸らして、同じように顔を赤らめている。


『おかあさんと、おとうさんがこうやってたんだ』

『うん。あったかい……』


 あのとき。

 普通とは違う仲直りのやり方を提案してきて、わたしも快く受け入れた。

 そのときのことを思い出して、顔から火が出そうになった。


「仲直りって、慶介、あんたね……!」


 酷い喧嘩をしてしまったときの、仲直りのやりかただと、慶介は言っていた。

 だが、この歳になって同じことができるはずもない。


『けいちゃん、ごめんね』

『ぼくも、ごめん。ハル』


 お互いに、ぎゅっと抱きしめあったのだ。

 あの頃はお風呂も一緒に入る仲だったから許していた。子供だったからこそ、微笑ましい目で見られるだけだった。

 今では、その意味がぜんぜん違ってくる。


「だめかな」

「うっ……」


 頬を掻きながら、もう一度聞いてくる。

 この歳になって同じことができるはずないのに、極めて真面目に言っているらしい。


(ううう……何考えてるのよ)


 顔を真っ赤にして考えた。

 しかし告白してしまった手前、断れない。

 涙を拭って、渋々立ち上がる。

 

「分かったわよ……ん」


 すると、慶介はそっと背中に手を回してきた。

 今までにないほどに距離が近づく。息遣いが聴こえて、心臓が破裂しそうだ。

 怖くなって、目をかたく瞑った。


(体、すっごく大きくなってる……)


 十年ぶりに感じる幼馴染の体は、すっかり変わっていた。


 男女の違いを、はっきりと感じてしまう。

 自分も体は細く胸も膨らんできて、少しは女の子らしくなったと思う。

 一方で慶介はがっちりとした体つきになっていて、肌は自分よりもずっと硬い。


 触れられた部分が、熱を帯びたみたいになった。

 しかし今は、泣いてしまいそうだ。


(わたしをどうしたいの、慶介……?)


 こんなことをする幼馴染の意図が、まだ分からない。腕と、体が震えた。

 淡い期待を持ってしまう。裏切られたときのことが、より一層怖くなった。


「お前には世話になりっぱなしだったよな」

「うん……」

「今だけはそういう恩は抜きで言うぞ」

「分かった」


 慶介はそう前置いてくれたので、覚悟を決めることができた。


「正直に言うと、お前をそういう目で見たことは、一度もなかったよ」


 あ、と息が零れた。

 全身から、力が抜けていく。体中が冷たくなっていくような感覚に支配される。

 乾いた笑いが出そうになった。


「けど、もし相手を作るなら……ハル。お前以外には考えられないって思うんだ」


 はっとした顔を浮かべた。

 隣の慶介の顔は見えないが、恥ずかしがっていることは伝わってきた。


「けい、すけ……っ」


 心と、身体が小刻みに震えた。

 わたしは、もっと強く慶介にすがった。


「ハルと一緒にいると安心する。ずっと一緒だったから当たり前だけど、何でも話せるしさ……」

「うん」

「お前にそう言われて、そういう気持ちがあるかもしれないって思って」

「うん、うんっ……」

「な、なに急に女っぽい声出してるんだよ」


 慶介は困ったように指摘してくる。

 でも、いつものように言い返すことはない。


「けいちゃん……っ」


 離さないように、強く抱きしめる。

 体が羽のように軽くなる。

 空に浮かぶような、幸せな気持ちが、胸の奥底から湧き出してくる。唇を噛み締めた。

 だが慶介は、申し訳なさそうに言った。


「それはそれとして、言ってもいいか」

「うん。何……?」

「俺から頼んでおいて何だけどさ。ハルの胸、めっちゃ当たって潰れてるのが気になって……あいてっ!?」


 背中をつねって、急いで両腕で体をガードしながら、睨みつけた。

 幼馴染は、痛そうにつねられた部分をさすった。


「なっ、何するんだよ!」

「何するの、じゃないわよ! ななっ、なんでこんなタイミングで、デリカシーのないことを言うのよ、バカ、変態っ!」

「し、仕方ないだろ。だっていいのかよ!」

「っ……い、いいのよ! ラッキーだと思っておきなさい!」

「いいのかよっ!?」


 いつものような口論になりかけたが、今日に限ってはそれきりで終わった。


 二人とも黙り込んでしまう。

 慶介もわたしも、顔はタコのように真っ赤だ。

 ぽつりと、尋ねた。

 

「慶介は……わたしなんかで、本当にいいの?」

「うん。多分、俺も好きなんだと思う」


 照れ臭そうに返してくれる。

 それが嬉しすぎて、胸がとろけている。


「デートに、いっぱい、連れていってくれる?」

「公園でも遊園地でも、前に家族で行った場所でも、どこでも行こう。二人きりで」

「エッチなことは、卒業するまでだめだけど、それでもいい……?」

「あ、ああ……分かった」


 少し残念そうだったが、それも受け入れてくれた。

 泣くのを我慢したかったのに、できない。

 異性として大好きになってしまった幼馴染を、今度は自分のほうから抱きしめた。


「わたしのこと、大切にしてくれる……?」

「その覚悟を決めて、ここに来たよ」

 

 わたしは声を殺して、号泣した。

 慶介は、それを受け入れて、そのまま抱き守っていてくれた。


「俺たち、付き合おう」

「うんっ……」


 保育園の頃に戻ってしまったみたいな、幼い声で頷いた。




 部屋のドアがほんの少し開いていた。

 様子を見に部屋の前まで来ていた両親は、顔を見合わせて、微笑みながらこっそりと引き揚げていった。


「けいちゃん、大好きだよ」

「ハル、それ恥ずかしいってば……」


 そのことにも気付かずに、恋人になった幼馴染を抱き留めた。

 わたしは、幸せすぎて、心が溶けていた。




 ………………

 ……




*   *   *



 翌日の朝は、気持ちがいい春陽気だ。

 朝日の目覚めが、いつになく心地いい。

 

 下の階に降りると、朝食を用意してくれたお母さんが、普段よりニコニコと笑顔だった。

 それを不思議に思いながら用意を整える。


「じゃあ、いってきます」

「ああ、ちょっと待って」

「どうしたの?」

「よかったねえ。ハル、頑張っていってらっしゃい」


 優しい顔でそんな風に言われて、一瞬意味を考える。

 それから、かあっと、顔が赤くなった。

 顔を逸らしたままドアを閉める。


(恥ずかしいなあ、もう……)


 昨日の様子は、見られてしまっていたのだろう。

 恥ずかしすぎる。死にたい。

 頬を押さえながら、落ち着くために深呼吸した。


 少し待っていると、隣の家からいつものように、慶介が出てきた。


「おはよう、ハル」

「あ……おはよっ」


 照れ臭くて、お互いについ顔を逸らしてしまう。

 昨日の同じ時間とは全然違った雰囲気だ。

 まともに顔も見られないし、軽口も叩けない。でもいつもと違って、喧嘩をしたわけじゃない。


「行こっか」

「ああ」


 空を飛んでいるみたいに幸せな気持ちだ。

 今なら、何だってできる。


「ねえ、慶介」

「な、なんだ?」

「わたしね、ずっと憧れていることがあるんだけど……」


 もじもじと膝を擦り合わせて、上目遣いで頼み込んだ。


「手、つないで登校してみない?」

「っ……分かった」


 隣に寄り添って、指先をからめあって、手を繋いでみた。

 慶介の温度を感じる。

 自分よりも冷たいのに、胸の中ばかりが熱くなった。


 嬉しい。

 心臓がドキドキと、心地よく脈打った。

 しあわせな気持ちだけが頭の中でいっぱいになった。恋をしたら馬鹿になってしまうというのは、こういうことだったのだ。


(もっと、慶介が欲しいよ……)


 今なら何だって、やってみたいと思っていたことはお願いできる。

 慶介はもう、大好きな人だから。


「ねえ慶介」

「何だ?」

「お前は俺の女だって、かっこよく言ってみてくれないかな」


 えへへ、と笑って頼んでみた。

 ますます怪訝な顔をして呆れられた。


「ハル、お前。さすがにそれは、少女漫画に毒され過ぎじゃないか?」

「いいから。かわいい彼女が、聞きたいって言ってるんだぞ」


 ちょっと強引に頼み込んでみる。

 いつもなら大笑いされて、喧嘩になってしまうところだが、今日は違う。


 慶介は恥ずかしがっていた。

 でも髪をかき混ぜて、つぶやくように言った。


「ハルは、俺の女だ……ああっもう。これでいいのか?」


 恥ずかしがっているのが可愛くて仕方ない。

 わたしは胸が幸せでいっぱいになって、表情にまで溢れて、いよいよ隠さなくなった。


「うんっ。わたしも、慶介が大好き」


 慶介を愛おしく思う気持ちが止まらない。

 絡めた指先を、より深く握った。


「お前、そんなやつだっけ……さすがに一晩で変わり過ぎじゃないか?」

「やってみたかったの。彼氏でもない相手にこんなの、恥ずかしくて言えないでしょ」

「……学校では勘弁してくれよ」


 慶介は参っていたが、案外、嫌そうにはしていなかった。

 漫画やドラマの中で恋愛に夢中になる人の気持ちが、わたしにもようやく理解できた。


「えへへ……慶介っ」

「ったく。もう」


 絡めた手を握って体を引き寄せると、されるがままになってくれた。

 本当に信頼できる人と心が繋がることは、何よりの幸せだった。

 

「あっ、有馬さん!」


 そんな時に、背後から声がかかって、振り返った。


「おはよう、咲さん」

「おはようございま……っ」


 天性の可愛らしさを生まれ持った、田舎からの転校生、咲 姫華だ。

 走り寄ってきたが、わたしたちの様子に気づいて、はっとした表情を浮かべた。


「あ、あの。その手は?」

「えっ。あ、ああ! これは……」


 慶介は、慌てて手を離そうとしたが、わたしが掴んで離さなかった。

 立ち尽くす咲に、笑顔で言った。


「昨日はちゃんと挨拶できていなかったよね。初めまして。咲さん」

「はい。あなたは……?」

「慶介の彼女の・・・、加古川晴海です。同じクラスなのに、昨日は話にいけなくてごめんね」


 その自己紹介に、慶介はぎょっとしたみたいだった。

 咲も完全に固まっている。

 わたしはようやく手を離して、咲さんに握手を求めた。


「これから、仲良くしてね、咲さん」

「あ……は、はいっ。よろしくお願いします!」


 かすかに目元が揺れたように見えた。

 だが、それも一瞬で、気持ち良く握手に応じてくれた。

 慶介が、ほっと安心したのが見えた。

 


 高校二年生の春。

 わたしたちの平和な日々が、幕を開けた。





*   *   *

 


 子供の頃に先生から教わったことは、一生の宝物になった。



 自分の気持ちを伝えることは怖い。

 でも、本当に欲しいものは、心を分け合ったその先にあるものだ。

 わたしはそれを手に入れることができた。


「慶介。次の休みは、どこかにデートに行かない!?」


 身を乗り出して、意気込んで尋ねた。

 影が色濃く伸びる夕暮れの道すがら、慶介も頬を掻いて考えてくれる。


「夏だしなあ。海に泳ぎに行くか?」

「……うん。それもいいね」

「どうしたんだ?」

「その……二人だけで行きたいなって」

「あ、ああ。俺もハルと二人きりで行きたい。水着とか見たいし……」

「あ、エッチなこと考えてるな。ふふっ、いいよ。楽しみにしてて?」


 心を溶かしてくれる、慶介が好きだ。


 結婚をして、お婆ちゃんになるまで一緒にいたい。

 そんな風に思える相手は、他に考えられない。

 

「ずっと大好きだよ、慶介っ!」

「俺も、お前が好きだよ。ハル」


 わたしたちは、誰よりも幸せだ。


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【短編】幼馴染の女子高生は、大好きな腐れ縁の男子を美少女転校生に譲らないために、誰よりも先に秘めた想いを告白するようです。 日比野くろ @hibino_kuro

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