伝記

スペインの貴公子フアンの物語(西川和子著)

 オスマン帝国で有名なスルターンが二人いる。

 コンスタンティノープルの陥落をもたらしたメフメト二世、そして第一次ウイーン包囲を行ったスレイマン一世である。この二人のスルターンの統治が遠くヨーロッパに対して多大な影響を及ぼしたことは言うまでもない。

 そのオスマン帝国の絶頂と衰退を象徴する二つの海戦があった。プレヴェザ海戦、そしてレパント海戦である。いずれもオスマン帝国とヨーロッパのキリスト教諸国の間で地中海の制海権を争ったものだ。世界史を学んだ人であればきっと耳にしたことがあるかもしれない。


 プレヴェザ海戦の勝者が「壮麗帝」スレイマン一世であるなら、破れたキリスト教諸国は総じて敗者であり、神聖ローマ皇帝カール五世(=スペイン王カロルス一世)はその最たる一人であろう。曾祖父のブルゴーニュ公シャルルの名を受け継いだ皇帝はカトリック勢力の盟主としてヨーロッパに帝国を築こうと生涯を通じて奮戦した。プレヴェザの敗北はカール五世の挫折の一つであった。

 「太陽の沈まない国」スペイン帝国を築き上げたカール五世はルター派をはじめとするプロテスタントたちや政治的に対立するフランスなど国内外で戦いに明け暮れる一生を送った。固定の首都を持たず、宮廷が彼とともにヨーロッパ全土を移動した。

 しかし、プレヴェザ海戦の二十年後、その前年に退位した老帝はついに崩御する。彼からスペイン王位を継いだ王子がフェリペ二世であるといえば「その名前なら耳にしたことがある」とおっしゃる方々も多いことだろう。


 前置きが長くなってしまった。そろそろ本題に入ろう。


 カール五世にはヘロミンという名で呼ばれる庶子がいた。美しい金髪、青い瞳――後年ドン・フアン・デ・アウストリアの名で知られる彼はカール五世の落胤らくいんであることを知らぬまま、スペインの片田舎でたくましく育っていた。幼き日から石弓を手に鳥を追いかけていたのである。

 そのヘロミンはカール五世の側近、ルイス・デ・キハーダに引き取られ、子どもの無かった養父母の許で教育を受けた。田舎育ちの彼にとって、養父が仕えたと聞いたカール五世とはカトリックの信仰を胸に異教・異端と戦い続けてきた輝かしい英雄に他ならず、そんな雲の上のような人物をわが父とは知らずに生きていた。

 彼は養母とともに静かに晩年を過ごしていたカール五世に拝謁する機会があった。退位して修道院に隠棲したカールが差し出した手に彼は接吻をした。退位して修道院に隠棲した先帝の腕は固くこわばっていた。この一幕に彼はただならぬ感動を覚え、その感動は先帝が亡くなった後もずっと彼の胸に刻まれ、消えることがなかった。

 ある時、彼は養父とともに狩りへと連れ出され、フェリペ二世に拝謁する。そこでフェリペの父親がヘロミンの父親でもあることを初めて明かされた。それまで別々の生き方をした二人の異母弟が巡り合った瞬間でもあった。


 かくしてヘロミン少年は王弟フアン・デ・アウストリアと名を改め、歴史の表舞台に現れた。大衆には熱狂をもって、貴族には嫉妬をもって受け容れられた天賦の才能の持ち主が、やがてオスマン帝国との戦いに挑んでいく――。


 ***


 『スペインの貴公子フアンの物語』(西川和子著、彩流社)はレパント海戦の英雄ドン・フアン・デ・アウストリアが生きた三一歳の生涯に迫ったものである。

 父カール五世に敗北を味わわせたオスマン帝国を敗退させ、衰退に向かう緩やかな長い下り坂へと押しやる戦いに臨んだ彼の雄姿がその最序盤に描かれている。

 政治的天才である異母兄フェリペ二世の駒として、異教・異端と戦いを繰り広げ、二四歳にして神聖同盟連合艦隊総司令官という大役に就き、カール五世以来の仇敵を打ち破った軍事的天才。数多くの女性を魅了した美丈夫びじょうふにして、神をも魅了したのかあっという間に天国に召されてしまった彼の短い生涯には、日本人の多くがよく知る源義経みなもとのよしつねに通じる何かを感じずにはいられないのだ。


 本作の著者はカール五世の母「狂女王」フアナや兄のフェリペ二世に関する著作も記しており、それらの取材も踏まえたうえで書かれた本作を読み進めると当時の光景がありありと目に浮かぶ。

 文体は平易であり、各章の合間に著者が実際に訪れたフアンゆかりの「聖地巡礼」の様子も記されている。短すぎた生涯ゆえか、ヨーロッパの歴史を変えた英雄のものにしてはあまりに地味な故地の佇まいがそこには垣間見えるのである。


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 スペインの貴公子フアンの物語

 レパント海戦総司令官の数奇な運命

 西川 和子 著

 彩流社

 https://www.sairyusha.co.jp/bd/isbn978-4-7791-1276-8.html

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