第109話 彼氏彼女事情式 ⑤
「──来てくれると思った。ありがとう」
そう、僕は黒川さんママの行いを許したわけではない。その証拠にこの瞬間にも怒っている。
「そして本当にごめんなさい。でも、面白かったし楽しかったのは本当。それに嘘はつけない。だって私はずっと君に会いたかったんだもの。それが叶ったのが嬉しくて。だから許してね」
どうせ頑張ったところでこんな気分では寝られなかっただろうし。やっぱり文句の一つも言わなくては気が済まないし。この際、残る疑問も解消したかっただけだ。だから決して許したわけではない。
間違いなく僕は怒っている。怒っているはずなんだけどな……。
「僕に会いたかった。ですか?」
言葉の意味はやっぱり測りかねるが、今の黒川さんママの表情はこれまで見てきたどれとも違っていて、さっきまではあったからかい気は少しも感じられない。
だからだろう。怒りよりも疑問が前に出るのは。
自分の簡単に揺れる気持ちよりも、本心を見せた黒川さんママの方に気持ちが動くのは。
「うん、
「……でも黒川さんは僕のことを何も話してないですよね?」
「まぁ、ね。でも
書斎だという部屋のパソコンからビデオ通話している黒川さんママは、話しながらパソコンのカメラの前から離れ、前回は使っていなかったホワイトボードに向けられたカメラの前にと移動する。
そしてホワイトボードに近づいたかと思ったら、おもむろに真っ白なホワイトボードを
「これが見せたかったもの。私が君に会いたかった理由でもあり、ここに至るまでの記録でもある。
ホワイトボードは黒川さんと話した時も、黒川さんママと話した時もずっと同じ位置にあった。
見えている面が真っ白だから何も書かれていないと思い込んでいたけど、その裏側には
それはとある授業で見るものにそっくりだ。
「……数式?」
数式。そう思わせる文字列がホワイトボードには大きく分けて二つ書かれている。
だけど、その意味までは理解できない。
まず何を求めた式なのかがわからないし、たとえそれがわかったところで全てを理解はできないだろう。僕には複雑で難しい数式だとしかわからない。
それでもわかることがあるとすれば数式の外に書かれている英単語くらいだけど、これもどういう意味を持つのかはわからない。
たとえ単語がそのままの意味なんだとしても、横の数式と無関係ではないだろうと思うとしか言えない。
「この式はKの値、わかりやすく言うと関係を求めたものね。この始まりの一文字であるKには数学的な意味はなくて、ただ
「じゃあこの式は……」
「そう、
数式が彼氏彼女の事情を求めているとして。式の外側の単語にそれぞれ意味があるとして。やはり数式を見ただけでは理解はできない。
ただ、始まりの一文字である左上のKが僕たちなんだとすると、黒川さんママが何を見てこれを求めたのかはわかる。
僕ではなくもう一つのK。すなわち黒川さんだろう。
つまりこの式は黒川さん側から始まり、僕の式はそれを証明する式になっていると考えられる。だから数式は二つある。けど……。
「片方だけ式が途中になっているのは?」
「それは
「……それは僕には疑わしいことがあると?」
「いいえ。君のことは
もし僕に対する不信感が理由ならこの式をわざわざ僕に見せはしないか……。
なら理由は別にあるとなるわけだけど、夏休み初日に何かあったか? 黒川さんとお付き合いすることになって、任意補習いう名の授業の期間が始まった。そのくらいしか思いつかない。
これを黒川さん側から見たところで大した違いはないはず。やっぱり信用に繋がるようなものはないと思う。
「私たちは夏休みにも授業があるなんて知ったら、娘は絶対に学校に行かないって言うと思ってた。だからいろいろ考えて、近場だけど家族旅行を企画して、それをご褒美に娘を学校に行かそうと思ってたのよ」
黒川さんママの語りで左上の単語とクエスチョンマークの意味がわかった。
特に最後のクエスチョンマークの意味はよくわかった気がする。おそらくあのクエスチョンマークの後に出たのが
そこから黒川さんママは、黒川さんが任意補習に自ら参加した理由を求め始めたのだろう。
「最もこれは主人の案で、私は高校生にもなった娘がそんなんで喜ぶわけないのにって思ってた。現に話を聞いた美雪は微妙な顔してたわ。私の半日授業だけど一日学校という扱いにして、その分も手当を支給するって案の方が効果的だった。余らせればその分お小遣いにできるからね」
「それは確かに魅力的……いえ、黒川さんの任意補習への参加。これが僕への信用ですか?」
黒川さんパパの案も十分魅力的だと思うのだが、やっぱりママの方が娘の扱いが上手い。ではなく、たったそのだけのことで信用なんてされるのか?
僕は当たり前のことをしただけで、黒川さんだって当たり前のことをしただけだろう。
「えぇ、そうよ。絶対に美雪からは『夏休みなんだから授業なんて出ずに遊ぼう』って誘いがあったはずなのに、ちゃんと授業に出て彼女もそれに参加させる。君からしたら当たり前でも私からしたら信用に繋がる。そしてそれは日を追うごとに積み重なっていった」
「そう言われると……。当たり前のことしかしてないし、放課後も遊んでたから余計に信用なんて言葉にはならないんですけど……」
「そんな事はわかってるわ。でも私は行動こそを信用すると言ったでしょう? 君の取った君らしい行動は、君がどういう人間なのかをちゃんと語ってる」
行動こそを信用すると言う黒川さんママだけど、僕への信用はきっと黒川さんの変化も含めての信用で。それらを全てを合わせての評価なんだろう。
その証がこの式。彼氏彼女事情式。
なら答えがまだ出ていないのも当然だ。僕たちのお付き合いはまだ始まったばかりで、確かな答えが出るにはまだまだ時間が必要なんだから。
この式もホワイトボード一枚では収まらない。
彼氏彼女である証明だけで一枚使っているくらいだし。
「私も建前ばかりで本音を言うのが遅れてしまったけど、一条君みたいな子が娘の彼氏で嬉しいわ。私はあなたたちのお付き合いが上手くいくのを応援しています。これからも娘をよろしくお願いします」
夏休み以降。黒川さんとお付き合いするようになってからの良い事と悪い事は半々な気がしていたけど、こんなふうに陰ながら応援してくれていた人がいたというのは単純に嬉しいばかりだ。
そう表立って言ってくれる人はいなかった……。
でも、それこそ僕たちの行動次第でいくらでも変えていけるはずなんだ。先はまだ見えないんだから。
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