ボンベイ・サファイア ⑤
「天音これからカラオケでもどう?」
「悪いけど、忙しい。ていうか春子お前も勉強しろよな」
「天音まで大人みたいなこと言わないでよ…」
涙目になっている友達を置いて、私は進路指導室に足を運ぶ。
そこには、山田先生もとい壁が忙しそうに書類仕事を進めている。
「おお、早速来たか!」
私に気が付いた先生は声を掛けてきた。
でも、返事は返さなかった。
だって、あくまで壁に向かって話しかけているんだから。
「安定を考えるとみんなみたいに大学に行ったほうがいいと思う。でも、技術が大事な世界に行くんだから、早いに越したことはないとも思う。同じような道に進もうとする子は私の知る限りこの学校にはいない。だから、どっちが正しいのか分からないんだよな」
天音が通っている学校は進学校で、みんな大学を目指す。と言うか、みんなそのためにこの学校に入学している。だから、自分と同じような悩みを抱えている人はほとんど、いや全くいないのだ。
「他の学校の壁だった時の話だ…」
にこりとも笑わない堅物な先生。ガチガチに見えて意外と面白いところもある。
現に今も楽しそうに壁を演じている。
「大沢と同じように、料理人になりたいって子の担任になったことがある。その子は、専門学校の進学かそのまま就職かで悩んでいた」
「どっちに…、いや、今のなしで」
壁だ。壁。
壁はクククと一瞬音を鳴らし話に戻る。
「その子は、専門学校の進学を選んだ。そして、二年後ふとしたきっかけでその子と再会した。無事に小料理店に就職していた。その祝いにとランチを奢っていた私は、ふと当時のことを思い出して尋ねた。『二年前の選択は今になって考えたらどっちが良かったと思う?』とね」
返事はこうだった。
「『ゆっくりいろんな料理のことを学びたかった僕からしたら、やっぱり専門学校に行ってよかったと思います。でも、実際に現場で使える技術が欲しい人は、すぐに就職するのもいいかもしれません。僕の職場に同い年の先輩がいるんです。その先輩は高校卒業と同時に就職してひたすら現場でしごかれていた。だから、僕なんかと比べ物にならないほど手が早くて、仕事が丁寧なんです。同い年なのにホント尊敬しますよ!』なんだそうだ。現場に出たことがあるこの意見だ。大沢の選択の助けにもなるんじゃないかな?」
少し長めの壁の話を聞き終えると、私は何も言わずに教室の扉に向かう。
扉を開けて、出る直前に小声で「ありがとう」と言って教室を後にした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます