転職が容易ではない理由

 ここまで読んで下さった中には「ここまでされる前に辞めれば」と思った方も居られる事でしょう。

 実際、友人や知人には度々そう言われてきました。

 生活において運命共同体とも言うべき妻にすら「辞めて欲しい」「他に仕事はいくらでもある」「私なら即辞める」と言われました。

 子供がいるからって、心身の方が大事だよ。

 労基に行きなよ。

 まだ若いし、次の仕事はあるよ。

 皆、私の事を思ってとても心配してくれました。これらの言葉は、本気でしょう。

 それでも、当時の私にはそのどれもが解決の糸口となる言葉にはなり得ませんでした。

 仕事を失えば自分や家族を養えない……と言う類の前提は、ここでは掘り下げない事にします。当エッセイから何かを得たい人ほど、これは聞き飽きたでしょうから。


 

 

 まず、在職中に面接までたどり着くのがそもそも困難である事。

 例えばハローワークの営業日時は平日の夕方までに限られます。平均的な日曜・祝日休みの会社に勤めている限りは有給無くして活動自体がままなりません。

 (一日だけで済むならともかく、求人を探す→応募する→面接という、最低3ステップを踏む必要があります)

 転職の動機は人それぞれでしょうが、ことブラック企業を辞めたい人の場合、そもそも有給を取れる状態にない事が多いでしょう。

 私の場合、仕事が「二交代制だった」というメリットがありました。

 夜勤のシフトがあると言う事は、平日の日中を自分の為に使えると言う事です。これによって有給を取らずに通院する事もある程度可能でした。

 それでも、当時の私は、酷い時には「昼食を摂る体力を惜しむ」ほどエネルギーが枯渇しており、特に夜勤週では、仕事前はギリギリまで寝床で横になっていました。

 ドクターストップ時ほどでは無いにしても、自分で立ち上がるエネルギーが無くて、身体が動かなかったのです。

 一分でも多くの休息をとる事は、当時の私にとっては死活問題でした。

 叶う保証も無い転職活動……叶ったとしても、次の職場がA社と同じか、それよりも酷い環境だったとしたら。

 応募や面接だけではありません。履歴書や、事によっては職務経歴書なども作る必要があります。ライバルとなる人達を超えるほどの、クオリティのものをです。

 気力と言う貴重なリソースを、そんなギャンブルに投じるだけの余裕がありませんでした。

 メンタル管理の失敗は、この時の私にとっては大げさではなく、死に直結しかねない問題でした。

 

 転職エージェントに関しては、多くを語れる所まで深く使ったことはありません。

 ただ、前述の通り、まず膨大な職務経歴書を作成するだけのエネルギーが残されていませんでした。

 電話でのエージェントとの相談も、それなりに時間を圧迫します。

 

 ともあれ、ここまでエネルギーが枯渇する前に転職活動を始めようよって話なのですが……。

 その程度の余力が残っていた頃と言うのは、まだ、A社で状況が良くなる希望を持っていたわけです。

 そのくらいの状況の時、簡単に仕事を辞めてしまうと言うのも……「職を転々」「続かない」「定職につかない」と言う事に繋がります。

 他人の目はともかく、やはり、仕事を続けるにしても転職するにしてもキャリアと言うのは大事ですし、気を抜きすぎて「嫌ならすぐ辞める」と言う癖がついても自分の首を絞める事になります。

 

 人脈があれば、知り合いづてに働き口を見付ける事も不可能ではありません。

 ただ、そこまでして貰うと言う事は、様々な意味で「余程の事」です。

 窓口となってくれた人との関係と、新たな職場との関係は別物と考えた方が良いですし、入るまで博打になってしまうのは一般の求人と差がありません。

 そして窓口となってくれた人が大切な友人や恩人だったりした場合、ましてその人が上司や同僚となる場合、プライベートの人間関係に影響を及ぼす事は確実と考えるべきでしょう。

 例えそれが「仕事上での軋轢で仲が悪くなる」と言う目に見えたマイナス変化で無かったとしても、友人が上司になった事で距離が生まれた例を、私はいくつか知っています。

 実際に転職を決意してからの私は、知人や友人に相談して回り、必死にお願いをしてきました。

 結論から言えば、それで面接まで行けたケースはゼロでした。

 私がこれまで書いてきたA社の実態を知れば、周りは心配します。

 しかし、心配する事と、各々がそれを打破できる状況にあるかどうかは別です。助けられないのに助けられると言ってしまう事は、誰にもできません。

 相当の確証が無い限り、周囲に出来る事は「自分も働き口が無いか目を光らせて置く」だけです。直接、他人の人生を左右するような世話はおいそれとできません。

 (実際、一緒に探してくれた友人は沢山居ましたし、それについて伝達性の都合上とは言え「だけ」と言う言い回しを使わねばならない事は心情的に不本意と明記しておきます。感謝は、してもし足りないくらいです)

 余談ですが。

 稀に「人脈ですぐに見つかった」と言う人を見た事があります。

 しかしその人は、常日頃から精力的に大勢の人と関わってきました。それこそ平日も休日も関係なくイベントやパーティに顔を出し、地域の会合にも出まくっていたような人達です。

 それ自体が甚大なエネルギーを使う事で、仕事に困らない程の人脈を得ていたのです。例外と見るべきでしょう。

 そして、本人の職適性より先に“人間関係”ありきになると、就職後のミスマッチや齟齬を生む危険も(一般的な斡旋よりも)大きいと思われます。

 

 

 

 仕事を容易に辞められないもう一つの要因として、やはり「環境を大きく変化させる」と言う事自体に莫大なエネルギーを使うと言う事でしょう。

 最初の「コロナ禍と転職」のトピックでも軽く触れましたが、転職と言う行為は基本的に「腰が重い」ものです。

 理由こそ千差万別でしょうが、私の場合は「せっかく確立した定職」を崩すと言う事に多大な勇気を必要としたからです。

 そして先述のセキ係長や、私を助けて認めてくれたシン先輩(仮名)、これまで助け合って来た後輩のナガ君、休職時に私の心身を心配して「それでも辞めないでいてくれるよね」と言ってくれた総務部長。

 特にセキさんは私の結婚式二次会に快く出てくれて、妻が、

「新婚旅行で暫くこの人借りますね」

 と言ったら、

「ちゃんと返してね」

 と冗談めかして言ってくれた事がとても嬉しかった事を覚えています。

 陳腐かも知れませんし、それと自分の人生には関係ないのは確かです。

 それでも、そこで出来た先輩や同僚達との絆は捨てがたいものがあります。

 人手が少なく、専門性の高さから人材が育つまでに長いスパンがかかる仕事でした。

 私が抜ければ、今でさえ苦しい状況の彼らがより一層負担を被るのは明らかでした。

 私がここまで散々に貶してきたタケさん・ダイさん両人でさえ、良い思い出は沢山ありました。

 とは言え「辞める事は裏切りだ」とまで思ってしまうのは、彼らの為にもならない事ではありますが。

 誰かがそれを「裏切り」としてしまえば、仮に彼らが辞めたいと考えたとしても、それを「裏切り」とそしる事とイコールになってしまうのですから。



 

 そしてもう一つの要因。

 転職が決まり、新たな職場で働き始める直前まで、私は「自分が何も出来ない人間」だと思っていました。

 そもそもが30代半ばの年齢・ほぼ無資格・潰しの利かない職歴と言う三重苦にありました。(資格と職歴に関しては一概にはそう言えなかったのですが、そこは後述)

 そして、タケさんに言われ続けた以下の言葉が、自分で思っていた以上に自分を毒していた事。

 

「どこへ行ってもあんたは同じ」

「そもそも、次行くところなんて無い」(だから、A社で血反吐を吐いて頑張るしかない)

 

 よくある、パワハラ上司のテンプレとも言うべき文句です。

 私はそれをよく自覚した上で、全てはタケさんの主観的な意見でしかない事を肝に銘じて。

 それでも、知らず知らずのうちに、それを真実だと認めてしまっていたわけです。

 何故なら「どこへ行っても同じ」「他に行くところが無い」とは、元より自分が決めつけてしまっていた事だからです。

 特に新型コロナの影響で「行くところがない」と言うのは“一部は”的を射てもいました。末期にタケさんの言動の苛烈さが増したのは「どうせ辞められないだろう」と言う算段もあったのだろうと思います。

 行動・言動の全てにダメ出しをされ、矯正を求められ、自分のしている事は全てが間違いだと思い込み。

 「怒られてばかりのダメな奴」と言うレッテルを自分に貼っていたのは、ほかならぬ自分自身だったのです。

 そして、これも理屈の上でわかっていた筈です。

 恐らく、同じような境遇の方がこの文を読んでも「だから何だ」と思う事でしょう。

 しかし一つだけ確かなのは。

 洗脳だと一目でわかる事は、洗脳のうちに入らないと言う事です。

 巧みに事実や社会通念を織り交ぜ、相手が自分を無能に思い込む、という目的に向けて文章を作り出し。

 (例えば簡単に仕事を辞める奴は、次も続かない。これ自体は真実と思います。匙加減さえ間違えなければ、ですが)

 洗脳されてなるものか、と身構え、自我を保っていると“慢心”している相手を、気付かずのうちに洗脳する。

 それが、この時の、自分の精神状態だったように思われます。

 一時期問題となった、痴漢の冤罪・その取り調べと同じです。

 狭い空間でひたすら追い詰められ、時には家族を人質にされ、挙句に「もしかして、ふらついた拍子に、お尻(胸)に手が当たったかもしれない」と言う妥協点を提示される。

 「自分を客観視し、決して流される事は無い」私は、そう慢心していたのです。

 勿論、自分の客観視は、今回の事においての第一歩で、必須なものである事は確実に言っておきますが。

 

 

 

 とにかく、そんな様々の要因が私を、私の知らぬ間にA社に縛り付けていました。

 そして、フォークリフトの件によって、長年積み重なったそれすらもぶち壊す程の危機感をようやく覚えました。

 そこから転職活動を始めて僅か半月。

 私は拍子抜けするほどあっけなく、転職する事が出来ました。

 

 (余談。費やした半月の内訳は求人→応募→面接を1セットのみ……つまり一件目の会社から一発で内定が出ました)

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