第4章 僕は、強くなりたい。6
『美しい朝焼けであります。その朝焼けの中、我らが乙幡剛が一歩一歩、その歩みを斬日本プロレス若虎道場へと進めているわけであります。まさに一歩一歩。本当に踏みしめるようにゆっくりと、その歩みを進めているわけであります。すでにTシャツには、汗がじっとり染み込んでいる。額には、汗が滴っている。加えて、昨日のトレーニングによる全身の筋肉痛のためか、その足取りは、若干ぎこちないものとなっております。しかし! その目はしっかりと道場までの道筋を、ただまっすぐに見据えているわけであります!』
軽快な実況と対照的に、僕の足取りは重くひどくゆっくりとしたものだった。
じつは昨日の練習終了後、大鉄さんから翌朝の宿題を課されていた。
自宅から道場までのロードワークだ。
駅にして5駅分、距離にして約15キロほどを、走るもしくは最悪歩きでもいいので道場までたどり着け、という宿題だった。加えて、タイムリミットも示された。道場には朝9時までに、たどり着くこと。9時からは、本来のトレーニングが始まるからだ。
昨日、帰宅している時点で、どう考えても明朝、走って道場に行くことは困難だと思った。そうなると、歩いていくことになるのだが、タイムリミットが変わるわけではないので、必然的に朝早く起きる必要があった。今朝、いつもの起床時間より2時間も早い5時にアラームをかけたのは、そのためだった。
『季節は、すっかり夏。日が登るにつれ、気温もぐんぐん上昇していくわけであります。すでに乙幡のTシャツには、びっしょりと絞ることができるほどの汗が染み込んでいる。ですが、かいた汗の分だけ、踏みしめた歩みの分だけ、君は強くなるんだ! どんなにキツく、辛くとも、歯を食いしばってがんばれ! 剛! 負けるな! 剛‼』
実況の通り、日が登るにつれ気温は上昇していった。
夜明け前から出発しておいて、本当によかった……。
歩き始め、すでに2時間が経過。
だが、スマホの地図を見ると全行程のまだ2/3ほどを進んだあたりだった。
残り、約5キロ。
汗は止めどなく流れ、先ほどから幾度か目に入った。その度に腕で拭うのだけど、それでも目に痛みが走った。息も上がり、一歩一歩が最初よりさらに重く感じられるようになった。
特に下り坂は太ももの筋肉痛にはキツい。プルプルと勝手に太ももが震えだす。太ももを両手で押さえつつ、ゆっくりと一歩一歩。慎重に進むしかなかった。
が、ちょっと気が緩んだ拍子に、ほんの小さな段差に左のつま先が引っかかった。バランスを崩し、僕はあえなく転倒。運悪く右膝をアスファルトにすった。右足を抱くようにして、その膝を見る。すでに血が滲んでいた……。
――ちきしょう!
僕は……ただ歩くことさえ満足にできないのか……。
自分で自分が情けなくなり、不甲斐なさに憤りがこみ上げてきた。
と、次の瞬間、頭上から筋肉質な手が差し伸べられた。
見上げると、そこには昨日、道場にいた斬日本の若手選手のエースで、おそらく道場内の若手で一番年長の小谷さんの顔があった。
「おいおい、大丈夫か? 剛」
小谷さんはスポーツマンらしい爽やかな笑顔で、そう語りかけた。
小谷さんが、なぜ……ここに?
内心そう思っていると、小谷さんの太い腕が僕を引っ張り上げ、たちまち立たせてくれた。
『おっとー! このタイミングでまさかの斬日本の新人レスラー小谷晋二郎選手が現れました! これは偶然でありましょうか? あるいは偶然を装った必然でありましょうか⁉』
小谷さんは、僕の膝を見ると言った。
「膝の傷は見たところ擦り傷で浅そうだから、道場に着いたら治療しよう。大丈夫、心配しなくていい。ところで……ここまでちゃんと自宅から歩いてきたのかい?」
僕は、ただ無言でうなずいた。
「やっぱりそうか! さすが伊達さんの甥っ子だ! エライぞ、剛‼」
小谷さんは、そう言うと、僕の頭を乱暴になでた。
「別に誰も見てないからズルしてもバレなかったのに、君はズルせずここまでバカ正直に歩いてきた。そうだろ?」
その言葉に僕は、またうなずく。
「ズルできないバカ正直なヤツ、俺は嫌いじゃない。そういう不器用だけど一生懸命なヤツが、結局は一番伸びる。これ、誰の言葉だと思う?」
「小谷さん……ですか?」
「ちがうよ、俺じゃない。赤鬼の言葉だよ」
「赤鬼って……大鉄さん?」
「あぁ。あっ、俺が『赤鬼』って言ったってのは内緒だぞ」
そう言うと、小谷さんはまた爽やかな笑みを見せた。
「よーし! 道場はもう目と鼻の先だ! 一緒に歩こう‼」
小谷さんはそう言うと、僕の背中をその大きな手で叩いた。思わず、むせる。
「あぁ、すまんすまん! レスラー仲間にするような強さでやっちまった」
そして、小谷さんは豪快に笑い、続けた。
「さあ、行こうぜ、剛! 剛だけに、レッツゴーだ‼」
満身創痍だったけど、ベタなダジャレに思わず笑みがこぼれた。
「――はい!」
そして自然と大きな声で僕も返した。
残り5キロの道のりは、ひとりで歩いていた時より断然、楽に感じられた。
小谷さんは僕を気づかい、道中で「ここの中華はウマい」とか「ここの銭湯は斬日の若手ご用達だ」などと、街案内するかのような気さくさで、僕の気をうまく紛らせてくれたからだ。
小谷さんが僕を心配し、偶然を装ってサポートしてくれたことはもはや明らかだと思った。終始笑顔を絶やさない小谷さんに、僕は心の中で何度も感謝した。
そして、いつの間にか最後の直線までたどり着いていた。視界に道場が見え始めると、さらに驚くことが起きた。
『すでに、乙幡の体は限界の先にいるようにも見えます。ですが、右、左、右、左とその歩みを止めることはありません。隣では、小谷選手が常に明るい表情で語りかけ、乙幡を気づかい続けている。そのかいもありまして、ついに最後の右折を経て、乙幡、小谷の両名は斬日本プロレス若虎道場への最後の直線に入ってまいりま……おっと――! なという光景だ! 我らが乙幡剛のことを、斬日の若手選手がほとんど総出で扉の前で出迎えているようであります! なんという優しさ! なんというスポーツマンシップ! 感動的な光景であります‼』
「「剛、ラストだ――!」」
「「がんばれ――! 剛!」」
「「あと少しだぞ――! 剛!」」
口々にそう叫ぶ、斬日本の選手たちが見えてきた。
こんな情けない僕を、トレーニングもまだ2日目の僕を、斬日本のみなさんがわざわざ声援で出迎えてくれたのだ。自分たちのトレーニングだって当然あるのに。その時間を割き、わざわざ扉の前で僕を待っていてくれたのだ……。
気づくと、どんどん視界がぼやけていく。
あれ、おかしいな……。両頬に、汗の他に伝うものを感じた。
考えてみれば「誰かに応援される」という感覚も、本当に久しぶりだ。
ひょっとすると、まだ両親が生きていたあの頃以来かもしれない……。
誰にかに罵倒されたり、罵られることはあっても、声援を送られるなんて皆無だった。だから、この声援はあまりに非日常で、照れくさく、胸が熱くなるものだった……。
「「おつかれ――‼」」
「「よくやったな! 剛!」」
「「よくがんばったな、剛!」」
扉の前になんとかたどり着くと、選手たちは一斉に拍手し、ねぎらいの言葉をかけてくれた。
「……ありがとう……ございます」
僕は汗びっしょりかつ、ぐしゃぐしゃの顔で、なんとか感謝の意を伝えた。
と、扉の奥から竹刀を持った赤鬼こと大鉄さんが進み出て、
「バカヤロ――! トレーニングはまだ何も始まっておらん‼ さっさと中に入れ――! おまえらも人の応援する暇があったら、自分のトレーニングをさっさとはじめろ――‼」
とさっそく雷を落とした。
その声に若手のみなさんは散り散りになり、道場の中に入っていく。
そして、その後を追うように僕も小谷選手と一緒に道場に入る。
「おい、剛! 今日は昨日のように生ぬるくはないからな! 覚悟しとけ――‼」
と大鉄さんは、さらに僕に一喝した。
が、その言葉とは裏腹に、大鉄さんは、ほんの一瞬、優しいほっとしたような表情を見せた。
――まさか、小谷さんに僕を出迎えさせたのって、ひょっとして……。
その瞬間、僕はどんなに辛くとも、この夏、この道場で、この人の指導に喰らいついていこうと密かに誓った……。
『さあ、今日も斬日本の赤鬼こと、本山大鉄直伝の斬日式トレーニングが、容赦なく乙幡剛を痛めつけていくわけであります。しかし、この試練は必ずや、我らが乙幡剛を文字通り心も体も一皮むけた漢に変えていくはずであります。だから、がんばれ! 剛! 負けるな! 剛‼』
――計画2日目終了、トレーニング成果
・ヒンズースクワット:100回(20回×5セット)
・プッシュアップ:40回(5回×8セット)
・腹筋:40回(5回×8セット)
・ロープ登り:できず
・ロードワーク:15キロ(徒歩)
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