第2章 僕は、風になりたい。2

 その視線に耐えかね、僕は顔を伏せると、足早に倉庫に戻った。


 ――やだなぁ……。


 あいつら、早く帰ってくんないかな……。

 内心そう願いつつ、僕はもう一台ロイター板を持ち上げた。

 体育館に戻ると、二枚重ねになっていたロイター板に、さらに、今持ってきたロイター板を重ねた。都合、ロイター板の三枚重ねが完成したことになる。


『おっと? 親亀の上に子亀をのせて、子亀の上に孫亀のせて的な発想でありましょうか? ロイター板の三枚重ね! さながら、ロイター板のミルフィーユであります‼』


 盛り上がる伊達さんと対照的に、僕のテンションはダダ下がりだった。

 恐る恐る振り返ってみたが、3on3をしていた男子生徒たちは、もはや僕のことなど気にしていない様子で、自分たちの試合に熱中していた。

 よし、今だ! ちゃっちゃと、終わらそう!

 急ぎ倉庫に取って返すと、最後の準備としてバスケットボールを手に戻ってきた。


『さあ、乙幡が再度、体育館に戻ってまいりました。おっと? その手には茶褐色のバスケットボールが握られております! そして、その手前には三段に重ねたロイター板ミルフィーユ。さらにその先に見据えるのは、バスケットゴールであります』


 伊達さんの実況通り、僕はバスケットゴールを見据えた。


『こうした状況証拠を積み上げて参りますと、乙幡がこれから挑まんとしている企みが朧気ながら見えて参りました。その企みとは、まさかのではないでしょうか⁉』


 伊達さんの白々しい実況の通り、僕がやらんとしているのは、まさにスラムダンクだった。ゴールリングに直接手でボールを叩き入れる、ダンクシュート。あの国民的バスケ漫画のタイトルにもなったこのダンクシュートを、この僕が無謀にも再現しようとしているのだ……。

 当然、これは伊達さんの思いつきによるものだ。


『たとえば……そう! スラムダンクが決まるその瞬間を実況できたなら、成仏できるかもしれないのであります! 少なともスラムダンクにはその可能性を感じるわけであります!!』


 正直、成仏の確実性には乏しそうにも感じたが、伊達さんからいくつか出された成仏できそうな実況シーン案の中で、まだかろうじて僕が再現できそうなものだった(それでも、かなり無理があるけど……)。

 背に腹は代えられず、僕は無謀にもスラムダンクの再現をする苦渋の決断をした。とにかく一日も早く伊達さんを成仏させ、平穏な日々を取り戻したい。ただ、その一心で。


 伊達さん、始めてもいいですか? 僕が内心でそうつぶやくと、


『もちのろんであります!』


 なんだか昭和っぽい返事が返ってきた。

 僕は緊張をほぐすように、その場でボールを2回バウンドさせると、小さく深呼吸した。


『遡ること、1990年。週刊少年ジャンプに「スラムダンク」の連載が開始されてから今年で早31年。ついには映画化が決定したことが先に発表されたのは、記憶に新しいところであります。なんと発行部数は、1億2000万部を突破。日本の総人口とほぼ同じ発行部数を誇る、まさに国民的スポーツ漫画であります。振り返れば、わが国におけるバスケット人気の火付け役としてこの漫画が果たした役割は計り知れないわけでありますが、そればかりではなく日本にとどまらず全世界の少年少女をバスケットへと駆り立て、原作内に描かれていた風景は今や聖地巡礼の地として観光地化されているほどでございまして。もはや、漫画という枠組みを超え、全世界的文化のひとつとして「スラムダンク」は――』


「――ちょ、ちょ、ちょっとすみません!」

 僕は思わず小声で伊達さんにツッコんだ。

「なんか始めづらいんですけど……いつ始めたらいいんですか? それに、さっきから漫画の『スラムダンク』の話しかしてないですよね?」

 僕がそうつぶやくと、伊達さんは露骨にため息をつき、


『人の実況の腰を折るとは、まったく無粋であります! 乙幡剛は、実況のわびさびが、まったくわかっていないわけであります! 落語に枕、プロレスに前座があるように、実況にも言わば助走に近い前段パートがあるわけであります。煽りと言ってもいい。これによって、実況は深みを増し、聞く人々の心を打つことができるわけであります。それを途中で止めるとは、言語道断! なにより、実況する側にとって、その方が気持ちいいわけであります!!』


 結局、伊達さん都合じゃないか……と思いつつ、よく考えたら、今やってることすべてが伊達さん都合でしかないという本質的なことに気づいてしまった。

 ここは、この実況と一刻も早くおさらばするために合わせるしかないか……。

 ため息ひとつ諦観を決めた僕は、実況の「前段パート」が終わるのをただ待つことにした。


 ひとつ咳払いすると、伊達さんは再び続ける。

『――気を取り直して、実況を再開させていただきます。そんな「スラムダンク」が連載されている頃には、この世に影も形もなかったひとりの少年が、今、ここ東京都立南北高校第一体育館におきまして、ある企てを実行に移そうとしているわけであります! その企てこそ、そう、スラムダンクなのであります‼ 少年の名前は、乙幡剛。正直、アスリートには程遠い体型の彼が、スラムダンクに挑まんとしているわけであります! いったい、なんのため彼は挑むのか⁉』


 あなたの実況から逃れるためですよ、ため息まじりに剛は内心で毒づいた。


『現在、じっくりとバスケットゴールを見据え、その大きな体でどっしりと床の感触を確かめているような状況。ゴールの高さは、リングまで、じつに305センチ。3メートルを超えてくるわけであります。いくら巨漢とは言え、それなりの跳躍、つまりはジャンプ力が要求されてくるわけであります。さらに、リングの直径はわずか45センチ。その小さなリングめがけ、自らの手で直接、茶褐色のボールを叩き込んでやろうというのが、この男の腹積もりなのであります』


 元々、伊達さんの腹積もりですけどね……。


『さあ、若さみなぎる16歳、乙幡剛が、この世界の片隅の都立高校体育館で、ある種、ミッションインポッシブルな企てに挑んでいくぞ。さあ、なにか気合を入れるようなそぶりは見せないのか? なにかしら、ないのでありましょうか? いや、ないわけがない!』

 

その声に僕は仕方なく、自分の両手で両頬を軽く張って、気合いを入れるをした。


『おっと! ここで時間一杯の力士よろしく、両頬を自らの両手で張りまして、乙幡が気合いを入れたようであります! さあ、制限時間いっぱいか? がんばってほしい! 限りなく不可能なこのミッションをコンプリートし、一皮むけたおとこになってもらいたいところ! さあ、行け! 乙幡剛! そして、風になれ! 乙幡剛!!』


 伊達さんのこの声を受け、僕はゆっくり一歩を踏み出した。

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