第32話 まいとゆか―③
なんて返せばいいのだろう。
この言葉たちに私は、なんて返せばいいのだろう。
掛けられた言葉になんて返せば、あなたの気持ちと釣り合うのだろう。
背中を預けた扉の向こうで、あなたの息遣いが聞こえる。
「泣き虫だねえ、まいは」
知ってます。
「ゆかさんは、答えを待っていますよ」
わかってますよ。
「ーーーーが」
「ん?」
「のーーーどが……つまって………うまく、しゃべ……れない……の」
「そっか」
扉の向こうで少し音が鳴った。背中が少し、ぎいと揺れる。
きっとゆかさんの背中が今、扉越しに向こうにあるんだろう。
指は震えてる。
声は掠れてる。
ああ、まったく。
何にも変わってない気がするんだけどな。
私はずっと弱いまんま。強くなったって言ったって、多分、レベル5くらいのへちょへちょな私が、レベル7くらいのへちょな私になったくらいですよ。
そんなのでも、あなたは喜んでくれるんですか。
はあ。
まったく。
やっぱり、優しすぎるよ、ゆかさんは。
泣いて、うまく言葉は出ないけど。
ま、いっか。
これが今の私なのだから。
あなたの前で、私は私のままでいいのだから。
ゆっくりと腰を上げた。
涙で喉、痛い。
…………。
冷蔵庫に行って、何か飲み物がないかを探す。
麦茶があった。いろはすじゃないけど、ま、いっか。
コップに一杯だけ注いで、喉に流し込んだ。
新しい水分が、涙の痛みを流していく。
少し、気分がマシになる。
いつかのあなたの声がする。そうだね、これだけでマシになるんだよね。
私が勇気をくれた?
私が最初の一歩を踏み出したとき、勇気をくれたのは、ゆかさんなんですよ?
わかってないなあ。まったく、仕方のない人だ。
うん。
大丈夫。
踵を返してドアノブに手をかけた。
音に反応して、扉の向こうでゆかさんが動く気配がする。
一拍置いてドアを引いた。
扉を開けた先にあなたがいる。
体育座りで。
笑ってて。
どことなく眼が赤い。
思わず、笑ってしまう。
人に言っといて、自分も泣いてんじゃないですか、ゆかさん。
まーったく、しょうがない人だ。
膝をついて、抱きしめた。
柔らかいあなたの肩に触れる。あなたの頭が私の胸に埋まる。
暖かくて、ちょっと湿っぽい。
そんな、あなたに確かに触れてる。
嬉しい。ドキドキする。あと、幸せ、なのかな。
「ゆかさん、私、嬉しいよ。でも、気持ちが一杯過ぎて、なんて返したらいいか、わかんないよ」
「そっか、ゆっくりでいいよ」
「ーーーうん、なんだろ。本当に、何から言えばいいのかな」
「まいは私のこと、好き?」
「うん、好きですよ。人としても、女の子としても。ゆかさんは?」
「うん、私も好き。性格も、頑張るとこも。女の子としてもって言うのは、まだ、あんまりわかってないけどね?」
「いいです、これから一杯教えます」
「そーなの? 優しくしてね?」
「はい、もちろん」
「ねえ、まい」
「なんですか?」
「こんな私だけど、いいの? 多分、めんどくさいし、見栄っ張りだよ?」
「ゆかさんだから、いいんですよ。めんどくさいのは一杯気にして、一杯考えてくれてるからでしょう? 優しいだけです。見栄っ張りなのは、一杯頑張ってくれてるからでしょう? 私にカッコイイゆかさんも見せてくれてるからでしょう? そんなあなたに、たくさん、たくさんお世話になったんです。ゆかさんは素敵ですよ」
「えへへ、ありがと。まいも可愛いし、一杯考えて、一杯感じてるもんね。それでちょっとめんどくさいとこあるけど、だからあんな歌が歌えるんだもんね。あ、あとすぐえっちなこと言うけど、まあ、それだけ私が好きってことだよね?」
「ええ、もちろん。ゆかさんが可愛すぎるのがいけないんですよ。ふかこーりょくです」
「何それ、もう」
「ねえ、ゆかさん」
「ん?」
「きっとね、私、許されたら一杯、触っちゃいますよ? えっちだって一杯しちゃいます。大丈夫ですか?」
「うーん、まあゆっくり、ちょっとずつかなあ。触る練習して、ちょっとずつ、ね。優しくしてね?」
「はい、目一杯、優しくします。ちょっとずつ、ですね」
「うん、ちょっとずつ」
「ーーーー」
「ねえ、まい」
「なんですか?」
「えーとね、幻滅してない? その、割と酷いこと一杯思ってたと思うんだけど」
「んー? いいじゃないですか、誰だって綺麗ばっかりじゃないんだから、それに私は私のままでいいって言ってくれたの、ゆかさんですよ? だから、ゆかさんはゆかさんのままでいいんです」
「そ、そっかあ」
「ゆかさんはね、私には前向きなこと言ってくれたり、自分らしくしていいって言ってくれたんですよ。じゃあ、ゆかさんだって、前向きになっていいし、自分らしくしていいんじゃないですか?」
「え、うーん、他人にいうのはね、簡単なんだよ……実践は難しいというか」
「じゃあ、一緒に試していきましょ、どうしたら、前を向けるか、どうしたら、自分らしくしていいか。ちょっとずつ、ね?」
「ーーーーうん」
「ねえ、ゆかさん」
「なに、まい?」
「本当はね怖かったよ、ずっとずっと。あとね悲しかったよ。自分が好きだけど報われないのは。いつか好きなあなたと離れなきゃいけないかもって思うのはね、怖かったよ」
「うん、ごめんね」
「でもね、隣にいるとね。どんどん、好きになるの。諦めるなんてね、できなかったの。ごめんね、一杯、一杯甘えちゃって、ごめんね」
「ううん、いいよ」
「ちょっとでもあなたが好きになってくれないかってね、一杯、アプローチして。溜まっちゃったときは、ちょっと自棄っぽくなった時もあってね、でもね、ゆかさん優しいから。それでも受け入れてくれたから」
「ーーーー」
「そんなのね、無理ですよ。諦めるなんてね、無理。離れることを考えるほどね、好きになるの。どうしようもないの」
「ーーーー」
「でもね、ゆかさんに、私は私でいいって言ってもらえた時ね、ストンって何かが落ちたの」
「ーーーー」
「あ、私、この人の隣がいい、って」
「ーーーー」
「報われるとか、報われないとか、もう関係ない。私の居場所はこの人の隣なんだって、納得できちゃって」
「ーーーー」
「もし、ゆかさんが触れることを許してくれなくても、ここがいいって」
「ーーーー」
「そう、想ったの」
「ーーーー」
「ねえ、ゆかさん」
「なにーーー、まい」
「触っていいの?」
「ーーーいいよ」
「抱きしめていいの?」
「ーーーいいよ」
「キスしてもいいの?」
「ーーーいいよ」
「隣にいてもいいの?」
「ーーーいいよ」
「もう、離れなくてもいいの?」
「ーーーうん、いいんだよ」
「ねえ、ゆかさん」
「なに、まい?」
「泣いてるよ」
「まいも、泣いてる」
「うん、でもね、悲しくないよ」
「うん、私も。悲しくない」
「ーーーー」
「ねえ、まい」
「なに、ゆかさん?」
「今日の幸せポイントね、1ポイント」
「うん」
「全部で100ポイントになりました」
「うん」
「だから、私の気持ちを聞いてください」
「はい」
「あなたが好きです」
「ーーーーーーはい」
「これからも私の隣にいてくれますか」
「ーーーーーーーーはい、喜んで」
※
「ねえ、ゆかさん」
「なに、まい?」
「私ね、幸せだよ」
「うん、私も」
※
私達の歯車はずっと、噛み合わなかった。
お互いの寂しさに引かれて寄り添った私たちは、いざそれを噛み合わせてみて、初めて上手く回らないことを知る。
あなたの求める私と、私の求めるあなたは違うから。
世の中はほんと不条理で、綺麗に何もかもが嚙み合うなんてことはありっこない。運命の人なんて想像上の産物だ。
それでも、隣にいれてしまうのがまた、残酷で。
でも、それでよかったのかもね。
噛み合わないまま、一緒に暮らして、嚙み合わないまま、一緒に触れ合って。
鍵穴が刺さらないことを笑って。ずれた歯車に騒いで。
そうやって。
ゆっくりと、粘土が形を変えるみたいに、お互いの形を少しずつ相手に合わせていった。
触れて、我慢して、自棄になって、許されて、振り返って、また触れて。
落ち込んで、笑って、泣いて、喜んで。
そうやって、少しずつ変わっていった。
小さな小さな変化を、少しずつ積み上げていった。
身体に触れて。心に触れて。
相手を許して、自分を許して。
私は私のままで、あなたあなたのままで。
望まれた誰かじゃなくて、私達のままで。
お互いの隣にいるために。
カチ、カチと。
歯車が噛み合う音がする。
きっと、まだどこか歪だ。
本当の意味で完璧に嚙み合うことなんて、もしかしたら、ないのかもしれない。
でも、それでもいいと。
そんなあなたの隣にいるのだと。
そんなあなたの隣にいたいのだと、そう想えたから。
私達は今日、抱き合っていた。
胸のあたりが少し湿っている。
あなたの涙が零れてる。
閉じた眼から熱いものが溢れてる。
私の涙が滴ってる。
悲しくないよ、嬉しいんだよ。
あなたと触れ合えることが、あなたの隣にいれることが。
あなたと積み上げてきたこの変化が、たまらなく嬉しいんだよ。
いつか、そんな歌を。
きっとこの他の誰でもないあなたに向けて、歌いましょう。
そしたら、あなたはなんて言ってくれるかな。
暖かいあなたを抱きしめた。
ああ、独りじゃない。
私の身体は、私の心は、独りじゃないんだね。
これを幸せと呼ぶのでしょうか。
あなたの息遣いを感じる。
ねえ、ゆかさん。
いつか悲しいことが起こるかな。
いつか嬉しいことが起こるかな。
いつか辛いことがあったかな。
いつか喜ぶことがあったかな。
でも、今はいいんだよ。
不安も期待も、今はいいんだ。後悔も追慕も、今はいいんだよ。
今、私はあなたの隣にいるから。
この今が、きっと何よりの幸せだから。
今はいいんだよ、ね?
私はここにいて、いいんだよね?
あなたもここにいて、いいんだよね?
私達は私達で、いいんだよね?
幸せで、いいんだよね。
泣き腫らしたあなたが笑いながら、私を見た。
私も、きっと泣き腫らしながら、笑い返した。
「ねえ、まい」
「なに? ゆかさん」
「キスして?」
「うん」
頷いて、優しくあなたに、口づけた。
※
今日の幸せポイント:1
累計の幸せポイント:100
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