第30話 まいとゆかー①

 朝、目を覚ますとあなたが隣にいた。


 とある土曜日の日のこと。


 あなたは、ゆかさんは、私の布団で小さく寝息を立てている。


 私はなんとなく笑って、腰を上げた。


 音を立てないよう、ゆっくりと布団を上げて、そっとあなたの隣を抜け出した。


 部屋に響くクーラーの音に足音を忍ばせながら、カーテンの隙間を少し覗く。


 今日は快晴。日付はもう八月で、暑い日になりそうな、そんな予感がした。


 東向きの部屋はカーテンを開ければ、同居人を簡単に目覚めさせられるけれど。


 まだ、いいか。


 私は少しだけカーテンに隙間を開けると、そっと部屋を出た。しばらくしたら、起きるかな。


 独りで暮らすには少し大きい2DK、朝日が眩しい東向きの部屋。駅から徒歩十分、主要都市まで電車で数分のベッドタウン。


 そこが、私とゆかさんが一緒に暮らす場所。


 朝ごはん用の食パンをオーブントースターに入れて、ケトルの電源を入れる。


 ここが、ゆかさんと私が一緒に過ごしてきた場所。


 トースターとケトルがそれぞれ、音を立てる。


 私がなにも口にしなければ、音はただそれだけ。


 寂しいような、切ないような、でもどこか穏やかな時間。


 胃の奥が少しだけきゅっと閉まるような感覚。


 小さな、小さな、緊張の芽。


 昨日の言葉を思い出す。


 『今度ね、話したいことがあるから、話してもいい?』


 『今じゃダメなの、私も色々と整理しなきゃいけないから』


 一体、何を伝えてくれるのだろう。


 いい予想もある、悪い予想もある。どちらもまったく的外れかもしれない。


 あなたは一体、何を伝えてくれるのだろう。


 でも、どちらにせよ、きっととても大事なこと。


 あなたの心のこと。


 トースターとケトルが仕事を終える。


 音に反応して、私の部屋で少しゆかさんの動く音がした。


 起きた、かな。


 カップに自分の分のコーヒーを淹れた。


 ゆかさんのカップには紅茶のティーパックを淹れた。それから、お湯を注ぐ。


 じっと、待つ。


 待ってから、ティーバッグを取り出して、燃えるごみの箱に捨てる。


 それから、牛乳と砂糖をそれぞれのカップに入れていく。


 どちらもたっぷり、甘くなるように。


 でも、私のより、ゆかさんは少しだけ牛乳少な目。砂糖多め。


 はちみつを少しだけ、紅茶に垂らす。


 スプーンでゆかさんの紅茶を混ぜて味を確かめてから、同じスプーンでコーヒーを混ぜる。


 ふと思い立って、冷凍庫から冷凍野菜の袋を取り出す。ついでに、いつかつくった冷蔵ゆで卵も。


 ゆで卵を皿において、野菜をレンジで温める。うん、我ながら健康的な食生活をするようになったな。


 コーヒーをすすりながら、レンジが仕事を終えるのを待った。


 チンと音が鳴るころに、パジャマ姿のあなたがドアを開けた。


 「おはよう。ゆかさん。ごはんできてるよ」


 「ん、おはよう、まい。ありがとね」


 そうあなたは優しく微笑んで、私の向かいの席に腰を下ろした。


 私は出来上がった野菜とドレッシングをお皿に並べて、パンと紅茶をゆかさんの前に差しだした。


 「いただきます」


 「はい、いただいてください」


 ゆかさんはまず、紅茶に手を付けてそれからふふっと笑った。


 「どしたの、ゆかさん」


 「んー? 私好みの紅茶で、とても愛を感じました」


 「はは、たっぷり込めましたから」


 私達は笑い合って、それからはどちらも喋ることなく、ゆっくりゆっくり食事をする。


 響くのは食器の音。飲み物をすする音。食事をする音。クーラーの音。どこか遠くで鳴くセミの音。


 なにか音が鳴っているけれど、不思議ととてもとても静かな時間。


 ーーーーーー。


 ーーーーーー。


 ーーーーーー。


 もしかしたら。


 もしかしたら、この時間はもうすぐ終わり告げてしまうのかもしれない。


 そう想うと、少し、寂しくなるけれど、不安にもなるけれど。


 でもそれがあなたが出した答えなら。


 私はそれを聞いてみたいから。


 ちょっとだけ、目じりに涙が浮かんだ。


 ゆかさんには悟られないよう、髪をかき上げるふりをして、そっとぬぐう。


 そういえば、散髪してないから、随分、髪も伸びたね。


 ゆかさんも結構伸びてる。そりゃそっか、四か月も切ってなかったんだもんね。


 もしかしたら、そろそろ切り時なのかな。


 最後にゆで卵を口に含んで、私はそっと食事を終えた。


 ゆかさんはゆっくりと、ゆっくりと味わうようにパンを口に含んでいた。


 それも程なくして終わりがくる。


 そっと二人の食事が終わりを告げる。


 「「ごちそうさまでした」」


 そう言って、さっと二人で洗い物。ゆかさんが洗って私が流すと、ものの数十秒で洗い物は終わった。


 それから二人で歯を磨く。


 私は短く、ゆかさんは長く、それぞれのペースで歯を磨き終える。


 カランとコップに歯ブラシを返して、私達は元の食卓の席に戻った。


 「ねえ、まい」


 あ、くるかな。


 ちょっと、かしこまったゆかさんの声。


 そっと、息を吐いた。


 「30分……ううん、40分かな。それだけ経ったら、私の部屋に来てもらっていい? 昨日言ってたこと話すから」


 「はい」


 息が震えるのを感じる、なのになぜか頬は緩んでどことなく微笑んでいるみたいになる。


 怖いから。


 不安だから。


 おびえてるから。


 何故だか、泣きそうだから。


 でも、でもね。


 答えを聞いてみたいから。


 私の想いの行く先を。


 あなたの想いが来た道を。


 聞いてみたいから。


 それがなんとなく、楽しみだから。


 私はそっと頷いた。


 「半年待ったんです、30分でも40分でも待ちますよ」


 私がそう言うと、ゆかさんは優しく微笑んだ。


 「ありがとう、まい」


 これがどうなるかわからない。


 私達の行く末はわからない、わかないけれど。


 まあ、いいよ。


 あなたが笑えるなら、それでいい。


 そうすれば私も笑えるから。


 あなたが幸せなら、それでいい。


 きっと、あなたの答えがどんな形になったとしても。


 あなたが真剣に悩んで、導き出した答えなのだろう。


 なら、それでいい。


 ゆかさんは、そっと席を立つと、自分の部屋に入った。


 「入る時、ノックしなくていいからね」


 扉の向こうで、あなたは優しい声でそう言った。


 独り、取り残された私はそっと自分の震える肩を抱いた。


 息は震えて、指も震える。


 40分かあ、長いな。


 まあ、いいか。


 思い出に浸るにはきっといい時間だから。


 自分を見つめ直すのにはきっと、いい時間だから。


 軽く息を吐いて、笑った。


 遠くでセミの声がする。


 そういえば。


 いつの間にか、もう一年も経ったんだね、ゆかさん。


 そんなことを想った。


 ※

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