第8話 別にそうでもないあなたにキスをする
ある日の朝のこと、掃除をしようとゆかさんの部屋に入った。
あまり入る機会はないけれど、別に入って怒られることはない。
軽く口笛を吹きながら、携帯式の掃除機をぶいんぶいん吹かせる。
ふと、気付く。
ゆかさんのベッドのマットの隙間に本の端っこが見えた。
エロ本か?
いや、しかし、ゆかさんがそういうの読んでるの見たことない。
隠す趣味、BLとかかな、それか割とマニアックなやつか。
でも、ゆかさんがその手の隠れ趣味の片鱗を見せた記憶もなく。
多少、葛藤はしたが、結局、私はこそっとだけそのマットを開けて本の題名を盗み見てみた。
本の題名はーーーーー
『LGBTと、その心理』
※
「ゆかさんが、私のことを知ろうとしてくれてるんだなーって幸せになりました」
本屋のバイトの棚出し中に、ハロワのお姉さんとそんな話をした。
顔見に来たとか言って、遊びに来ていたお姉さんは若干、呆れた顔で私を見ていた。
「あんた、なんでも幸せね‥‥」
「お姉さんも、告白通ったんだから幸せじゃないですか。おめでとー」
「ありがとー、…………あんた目ぇ逝ってない?」
「ちょっと今、私の中で幸せと憎悪が戦ってるんで」
「おう……」
「幸せ優勢なんですよね、困ったことに」
「困らなくていいでしょ……」
お姉さんとの距離を開きながら、私たちはぽつぽつと話をする。
「しかし、これはもう、えっちいけるのでは?」
「いけない。十中八九いけないよ」
「そんなあ……。そんなにダメですか?」
「オタサーの姫の『私酔っちゃったんだけどー』に反応するオタク君くらいダメそう」
「それ、ほんとにダメそう……」
ごめん、全国のオタク君。報われろ君らも。あと、オタサーの姫も、ごめん。謝るべきなのかも知らんけど。
「はあ、そっかあ……ダメかあ。ざーんねん」
「ふふ、どしたの? 欲求不満か?」
お姉さんが鼻で笑いながら、そんなことを言った。
それに私は鼻で笑い返す。
「
お姉さんはちょっと驚いた顔をした。
「どしました? 当たり前でしょ?」
「いや、なんかさんざんセクハラしてるとか言ってたからさ、そうでもないのかと」
思わず、軽く笑う。
「お姉さんは、好きな、えっちしたい人と一か月半同棲して、欲求不満にならないんですか?」
「……まあ、なる……かな?」
性欲は、正直、貯まってる。常に好きな人と一緒にいて。半端に触ることが許されて、でも、本当の意味で触れ合うことは決して叶わない。
三大欲求の一つが常に蓋されてる。しかもただ蓋されてるだけじゃなくて、常に美味しい料理を目の前に出されて、見ることだけが許されてる、そんな状態。
期待だけが、膨らんでいく。
想いだけが、膨らんでいく。
叶うことは、ないままに。
「最近、ちょーっと頭痛いんですよ。欲求不満過ぎて」
「……生理とかじゃないの?」
「まだですけどね、どうだろ。はは。とりあえず、せーよくぼーそーちゅーですわ」
軽くわらったけど、ウケは残念ながら取れなかった。
その日の帰り際に、彼女さんとお幸せにと厭味ったらしく言ったら、お姉さんは困ったような顔で私を見ていた。
困れ、困れ。彼女さんと仲が悪くならない程度に、困ってくれ。
ごめんよ、お姉さん。ちょっと、八つ当たりしたい気分だったのだ。
後で、そうメッセージを送ると。
知ってるわ、ばーか。
とだけ返ってきた。さっすがあ。想いを叶えれる人は違うねえと口笛を吹く。
感謝にやっかみも、含みながら。
※
最近、正直、ちょっとしんどい。
理由は、まあ、自業自得なんだけれど、この前、ゆかさんに触れちゃったから。
ゆかさんの胸に。首に。耳に。
キスして、舌まで入れた。
自分でやっといてなんだけれど、あれはやばかった。
その前のゆかさんの好きと併せて、完全にスイッチが入ってしまった。
眼を閉じればいとも簡単に、あの時の情景が再現される。
服の内側の熱。私のとは違うブラの感触。脇から胸に至るまでの柔らかな皮膚。初めて触れた場所。細く、なめらかな首。ゆかさんの命を繋ぐ場所。耳に直接声をかける感触。きっと私の声しか聞こえてない。そこに舌を入れる感触。ゆかさんの反応。
想像するだけで、身体が熱くなる。最近は本当に、それだけでムラムラしてしまうから、折角解禁されたハグもあまりできていない。
‥‥やっばい。ほんとやばい。なんかもう、暴走してる自覚がある。
セクハラポイントが貯まりきる前に、私の理性のタガがぶっ壊れそうな気がする。
というか、直感が告げてる。
近く、我慢できずに暴走する。
残念ながら、私は直感にそこそこ自信がある。
特に、自分の限界に関しては、割と正確だ。
……ゆかさんを、できるだけ傷つけないといいのだけれど。
でも、どちらにせよ。その時は。嫌われちゃう、かな。
嫌だな、とは思うけれど、多分、私の心も身体も止まれない。
それくらいのものが貯まっているのだと、もう限界なのだと。
頭の奥で何かがずっと喚いていた。
※
その日、帰るとゆかさんはキッチンの椅子に座って、今朝見たLGBTの本を読んでいた。
「おかえりー」
「ただいまですー……」
ゆかさんを見るだけで、心臓がバクバクと鳴る。息が少し乱れて落ち着かなくなる。
あー……もう、思ったより早いなあ。
「まいー?」
「なんですか?」
ゆかさんは本のページをめくったままこちらをみない。
「まいって女の子同士のえっちとかしたことある?」
ゆかさん。
まじで。
だめだから。
今は。
「ーーーーーーありますよ? それが?」
ゆかさんは相変わらずこちらを見ていない。別に照れてるわけじゃなくて、ただ本を読みながらしゃべっている、ただ、それだけ。
ゆっくりと、ゆかさんが見ていない間に、歩をゆかさんの近くまで進めた。
「あー、やっぱりあるんだ。そりゃそうだよね。いや、今、まいみたいな人の本読んでるんだけどね」
「ーーーーーー」
本当に。
ゆかさん。
今ね。
それはね。
だめ。
ゆかさん、悪くないけど。
私が、悪いんだけど。
「どうするのかなーって、そういうとこはやっぱ書いてなーーーー、まい?」
隣に立って、椅子に座るゆかさんを見下ろした。
両手を彼女の頭に回す。
「ーーーーーか?」
「え?」
「
そう言ってから。
ゆかさんの口をふさいだ。
私の唇で。
無理矢理。
感触がする。
柔らかい。
暖かい。
そして、少し湿っている。
ほんの少し、ゆかさんの身体の匂いがする。
触れているという事実だけで、脳が満たされていく。
ゆかさんの眼が驚きに見開かれた。
少し暴れようとしたけれど、首と頭を抱きしめて離さない。
ごめんなさい。
本当に、ごめんなさい。
泣きそうになりながら、キスをした。
今まで、絶対に、唇だけは奪ってこなかった。
そこへの口づけは心を許した証だから。
許されない限り、触れてはダメな所だから。
いくら、肩にしようが、耳にしようが、それは変わらない。
だけど、今はダメだった。
身体には触れない。
そこまでしてしまえば、本当に傷つけてしまう。
ゆかさんに一生、残る傷を与えてしまう。
それもいいのかもしれないけれど、やっぱりこの人には笑っていて欲しいから。
これが私が満たされて、我慢できるギリギリのライン。
でもそれだけでも、心は満たされていく。
昂っていた身体が満たされていく。
この口づけ一つで何もかもが満たされていく。
不整脈を打っていた心臓が落ち着いていく。
肺に流れる空気が穏やかになる。
頭痛が引いていく。
微睡んでいたような視界が明確になってくる。
唇と触れる手だけが、温かく、ゆかさんを感じさせてくれる。
気づいたら、ゆかさんの抵抗は止んでいた。
でも、息が苦しそうだったから。そっと口を離した。
名残惜しいけれど。
離れるときの、水音一つでさえ、満たされてしまう。
ふうと息を吐いて、ゆかさんを見た。
少し、ぼーっとしたような、よくわからない表情をしてる。
「ごめんなさい……」
目を伏せて、そう告げた。
ゆかさんは少しの間、私を見て、それから自分の唇をゆっくりなぞった。
あそこにさっきまで、触れていたのだと思うと、もう一度、心臓がドクンとなった。
もう一度。
いや、そもそも、嫌われてたら。
拒絶されたら。
‥‥仕方ないか。無理矢理だもんね。
追い出されたって、文句、言えない。
「ごめんなさい」
もう一度、謝った。
ゆかさんはゆっくり、私を見た。
「まい?」
「ーーーはい」
それから、ゆっくり私の頬に手を伸ばした。
「セクハラポイントね」
「……そんなんで、いいいんですか? 私、酷いこと、したのに」
「うん、ちょっと怒ってる」
「です……よね」
「でもしんどそうだったから」
「ーーーーーーーー」
「本当に、おふざけでこんなことしないでしょ、まいは」
「ーーーーーーーー」
「なんかあった?」
「ごめんなさい」
「話して、まい」
「ごめんなさいーーーー、前、触った時から、抑えられなくてーーー」
「うん」
「自分でするのもできなくて、思い出しちゃうからーーーー、ゆかさんのーーーーー、胸、首、耳、全部、ゆかさんの全部、思い出しちゃうからーーーーーー」
「うん」
「ちょっと、しんどくてーーーー、暴走、しちゃい、ました」
「そっか」
「ごめんーーーーなさい」
「ん、いいーよ、満足できた?」
「ーーーーはい」
座るゆかさんに頭を抱き寄せられた。
肩口に頭をうずめる。
情けなく、泣く。
私が悪いって言うのにね。
「まいがさ、我慢してくれてるのは知ってたから。私を傷つけないようにっていうのも、知ってたからさ、いーよ。許してあげる」
「ごめんなさい」
「うん。そういう欲はさ、あるんだもんね、仕方ないよ」
「ごめんなさい」
「セクハラポイントはーーー2かな」
「……口にしたのに?」
「キスは大体、2でしょ?」
「……今度から、口にしていいですか?」
「それはダメ」
「…………ですよね」
「どうしても、しんどい時、だけね」
「…………はい」
「まい? やっぱ、私といるの、しんどい?」
「……幸せです。隣にいるだけで、幸せです。私が高望みするのが悪いだけで」
頭を優しく、撫でられた。
「あのね、私も悪いんだよ? まいがそうなの知ってて、ずっとそばに置いてるんだから」
「…………でも、今、幸せなんです」
「おめでたいなあ、まいは」
本当に、そうかも、おめでたい。
「まあ、まいにしんどい思いさせちゃってるけど、私もはじめて奪われたから。おあいこってことで」
「え…………?」
「むー、なんじゃ。初めてだよ、この年で。わるーございましたねー」
ゆかさんは私の顔のすぐ近くで、唇を尖らせてむくれている。
「ゆかさん、かわいいから。絶対、彼氏いたことあると思った……」
「………引きこもりだったんで、学生時代は縁がなかったのでーす。ゆかさんはー、まいがー、思っているよりー、ずっとー、情けない人なのですよーだ」
すねてる。かわいい。
いや、ていうか、初めてだったのか。私が。
それは、なんというか。
なんというか、だね。
「ゆかさん、もう一回、口にしていいですか?」
「治まったんじゃなかったの……?」
「今のでぶり返しました。セクハラポイント、4にしていいですから」
「………はあ、まとめてだから3にしといてあげる」
「知らなかった、まとめてキスするとお得なんですね」
「そんなセール品みたいに言われるのはーーーーーー」もう一度、口をふさいだ。
満たされる感覚に、酔いながら。
私が、初めて。
この人の心のあかしに触れたのは、私が初めて。
あー、嫌だな。
こんなの誰にだって、触れさせたくない。
独占欲?
私の方が強そうですよ、ゆかさん。
両手で必死に抱きしめて、離さない。
ゆかさんは最初、驚いたような感じだったけれど、後はなされるがまま。
でも、手が私の背中に回されるようなことはない。
これは、私の一方的な欲求を受け止めてくれているだけ。
情けない私を、ただ甘えさせてくれているだけ。
それは少し、悲しいけれど。
ならせめて、今は精一杯甘えよう。
当分、ぶり返さないように。
あらんかぎりを満たしてしまおう。
抱きしめる。
唇一つ一つの感覚を味わい尽くす。
舌を入れてしまおうか、と一瞬考えたけれど。
思い立ったころに、口を離した。
「これ……息……できな……」
「鼻で息するんですよ?」
「え……鼻息かかっちゃわない?」
「思ったより気になりませんよ」
いい加減、照れが来たのか顔が真っ赤になったゆかさんとそんな話をしながら。
いや、今はこれでいいかなと思った。
したいことは山ほどある。
どこまで、許されるのだろうか。
ゆかさんから手が伸びない以上、これは私の一方的な性欲の発散にすぎないのだけれど。
それでも、少しずつ堪能していく方がいいと思った。
急にそんないろいろやっても、ね。
今は、このささやかで、でも心が満たされていく。この感覚だけで、いい。
「ふーん…………、わ、結構、遅くなっちゃった。ご飯にしよ、まい」
「ーーーーーーはい」
私は唇を少し撫でて、そう返事した。
頭痛は気づけば治まって、いろんな不調が少しマシになっていた。
うん、当分は大丈夫そう、かな。
※
ちなみに、その日の夜に生理が来た。
妙に落ち着かないとは思ったけど……、どーりで、ね……。
はあ……。
※
今日のセクハラポイント:3
累計のセクハラポイント:47
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