赤い思考

 家路を並んで歩く俺とたちばなの間には、これといって会話らしき言葉の交わし合いはなく。だが、不思議と居心地の悪さは感じない。

 お互いがお互いの存在に慣れてきたのだろうと、そう思う。


「雨。降られなくて良かったわね」


 一瞬、何を指してのことを言っているのか分からなかったのだが。うわ言のような声が聞こえた方を向くと、夕の橙と夜の紺とが混じった紫にも見える彩りを仰視する姿が見え、悟る。

 見惚れるような空模様には朝同様――いや。あの頃に比べたら幾分か疎らではあるものの、切れ切れの雲が漂っているのだ。


「橘も降りそうだって、思ってたのか?」

「朝のあの雲の感じ、絶対に降ると思ったんだけどね」

「時期的にはもう、梅雨だしな」


 自然なものだと、改めて驚いた。こんなにも橘と他愛もない会話を交わせるなんて、つい先週までの俺なら夢にも思わなかったことであろう。

 そんなことをほんのりと実感していた時。ふいに視界の内の橘の表情が豹変する。

 空へ向けて見開かれた褐色の瞳が鋭さを伴いながらこちらへ向けられると、告げられる。


「魔力の感じ――近いわよっ」




 駆け出した橘の後を追って行った先で待っていたのは、あまりに凄惨な光景だった。

 住宅街近くの七階建てマンション。その駐車場にそれはあったのだ。


「た、橘……」

「ずいぶんと派手にやらかしてあるわね」


 駐車場の一番奥。マンションからも一番に離れた場所。そこで後ろの塀にもたれるようにして脱力――もとい。息絶えている男。

 元から赤い色だったシャツの上からでは分かり辛いのが唯一の幸いだが。それでも。首から上にあるはずの物を失ったその姿は、否応なしに激しい嫌悪感と嘔吐感を抱かせてくる。


「こんなの、異常だ……」

「何をいまさら――と、言いたいとこだけど。流石にこれは常軌を逸してるわね」


 気丈に見えるが。その笑みも声も、隠しようのない程に引きつって見える。心なしか顔も青ざめている気がする。

 その時。


朱莉あかり様、大丈夫ですか?」


 どこから現れたのか。私服姿のメアが俺と橘との間に入って来た。音もなく、とはこのことだ。


「ええ。いい気分でないのは確かだけど、心配される程に最悪でもないわ」

「安心致しましました。歩様はどうです?」


 一本の赤い毛束が、この惨状を目の当たりにしても尚。知的な顔相を保つメアの涼し気な顔に変わる。


「俺も大丈夫だ」

「それでしたら、この場は早々に退散した方が良いかと思われますので」


 朱莉様。メアはそう言って再び橘の方へ顔を向ける。


「そうね。面倒なことになる前に行きましょう」


 警察へ通報しながら俺と橘、そしてメアはその場を後にした。


 先とは違い。街灯が灯った道を歩く俺たちの元へ降り立つ沈黙は重たく、居心地の悪さは最大級に達している。

 互いの顔色を伺うこともせずに黙々と。ただ歩みを止めないようにすること意外には一切の神経も思考も巡らせない。そんな雰囲気である。

 この頃は肌寒さも潜んで来たと思えたのだが。夜風が吹くたびに俺は身を震わせる寒気を覚える。

 今この瞬間にも。あの惨事を引き起こした人間がこの街を闊歩しているのかと思えば、それは当然の反応に違いない。そう言い聞かせるがしかし。死に対する恐怖を持ち合わせない俺自身が抱いているこの恐怖とは、いったい何に起因してのことなのか。

 そんな疑問を浮かばせていると。


「分からないものよね」


 橘の呟きが聞こえてくる。


「朱莉様、如何なさいましたか?」

「いや、ね。命を奪うにしても――あそこまでの猟奇性を発揮する人間の、その考えが分からないのよ」


 ここまでの沈黙の間、橘はそんなことを考えていたのか。

 確かに理解に苦しむようなことだが。それはそうだろう。


「俺たちは未だ――人殺しじゃない」


 二人の視線が俺に向く。どちらも、一様に驚きは見らない。

 その目は何故か、哀れみを含んでいる。


「そうね」


 返ってきた声の小ささに、俺の耳は酷く痛んだ。




 風呂から上がり、離れへと戻った時。二人は既に床に就いていた。

 マキナはクロと共に。リムルは俺の布団の上で寝ている。


「自分のところで寝ろよ……」


 経緯は分からないが、こうなっては仕方が無い。

 首にかけたタオルでもう一度、完全に水気の抜けきらない髪を乱暴に拭く。

 目を瞑ると。当然のごとく室内の暗がりは完全な闇へ移行し、その闇の先では夕刻の駐車場の光景が喚起される。改めたところで。当初抱いた嫌悪感は今も俺の中に居座り続け、次から次へと際限なく不快な気分を募らせていく。


「俺もいつかは――」


 髪を拭う手を止め、そのまま下ろす。

 命を賭している以上。いつの日か俺だって加害者に――殺人を犯すことにもなるだろう。本意、不本意は拘らずに。

 橘だってそうだったんだ。あいつはもう、既に誰かの命を奪っている。あの時の小さな声が報せて来たのはそういうことなのだ。

 そう思うと。これまで嘯いていた自分の言葉が酷く薄っぺらく、芯が伴っていないことを気付かされる。


 ――殺す。


 昨日。俺は生まれて初めて本気の殺意を抱いた。

 しかしそれも。今にして考えればマキナから供給された魔力で高揚していたからこそ、抱いたものかもしれない。そこに俺の実感は込められていたのかどうか、それすらが危ういのである。

 森咲が――大切な人が傷付けられたというのに。俺は自分が憤ったのかどうか、自信が持てない。「大切」という言葉が聞いて呆れる醜態ぶりだ。

 人を殺めること。事ここに至って、俺は恐れている。

 そんな自分が嫌で嫌で――仕方が無い。


「寝られそうに、ないな」


 今し方に入って来た戸を開け、夜風に晒される。と。


「どうしたの?」


 学校の物でもない緑色のジャージ姿の橘がそこにいた。ふと胸元の白い布へ目を向かわせて見ると。そこには「3年3組」とマジックで書かれていた。


「中学校のか?」

「寝間着くらい、何を着たっていいじゃない」

「まあ、そうだな」


 橘の意外な一面に沈み切っていた気分が、幾ばくか浮上した。


「それよりさ、どうしたのよ? あの二人は寝てるの?」


 俺の向こうを覗きながら言う。


「ぐっすりと」

「それなら君も、寝たらいいじゃない」

「どうにも寝れなそうなんだよ。誰かさんが布団を占領してるからさ」


 真実でもあるが、これは嘘だ。


「だったら畳の上で寝ればいいんじゃないの? もう寒くもないんだし」

「そうだけどさ――橘こそ、こんな時間にどうしたんだよ?」

「君に会いに来た――て、言ったらどうする?」


 片目を瞑る、悪戯っぽい笑みを向けてくる。

 それが本意でないことなど理解している。しかし、どこかで期待感を膨らませようとする自分もいる。でも、流石にそれは。


「無いな。もし有れば、明日の天気が心配になるよ」

「そこは素直に喜んで見せるくらいのサービス、したらどうなのよ?」

「ごめん。今はそんな気分じゃないんだよ」


 笑ってみるが、どうにも上手く繕ろえている自信がない。


「連れないわね」

「まだ謝らないとダメか?」

「全然足りないわよ、全然」


 二度も重ねなくてもいいだろうに。


「あのさ。この際だから言ってもいいか?」

「ダメ」

「ならまあ、いいか」

「ホントに連れないわね。嘘よ、なに?」


 どっちだよ――いや。嘘だとは分かっていたが。やはり今日は冗談に付き合ってやれる気力はもう、底冷えしてしまっている。


「君、って言うの、そろそろやめないか?」

「どうしてよ?」


 意外そうな表情が浮かぶ。


「なんかさ、余所余所しくないか」

「うーん。じゃあ何て呼べばいいの?」

「普通にあゆむ、とか」

「下の名前で呼べ、とか。図々しいにも程があるわよ?」


 それもまた、冗談混じりな口調である。


「悪い、それじゃ――」

「何を考えてるか分からないけど、こっちの調子が狂いからさ。その落ち込んだ感じ、どうにかしてくれる?」

「ごめん」


 鬱陶しく思われていることには薄々勘付いてはいたのだが。急激に感情を操作できる程、俺は器用な人間ではないのだ。


「どうすれば元に戻れる?」

「いや、分からない」

「じゃあ――」


 やや俯いたままで言葉尻を待っていると。眼前に橘の顔が迫る。


「なっ――?!」


 咄嗟のことに、俺は半歩だけ身を退く。すると。


「するわけないでしょう?」


 ニヤリと笑って見せてくる。


「お前な……」


 その感情が片鱗を覗かせたのは僅かだ。それはとても刹那的で。思考の眼を凝らさなくては確認することが叶わない程の一瞬。しかし、それは確かに過った。

 殺意。目の前で舌先を出してほくそ笑む橘に、俺はそんな悍ましい感情を覚えてしまったのだ。

 妙だ。変だ。おかしい。

 からかわれただけ。そんな些細なことに俺は、森咲の時には抱けたかどうか危い想いを――確かに抱いた。


「ねえ、どうした――」

「もう寝るよ」


 鮮血を頭から被ったかのようだった。視界を彩る物、その全てが真っ赤に染まる。

 どす黒い血流は視界ばかりか、思考までも浸食し始める。


 ――殺っちゃえば?


 あいつの――人殺しの声だ。


 ――殺った後に生じる後悔もまた、甘美なものだよ。


 黙れ。頼むから、俺の思考から消えてくれ。


 ――いずれは堕ちる場所だよ。


「――うるさいっ!」

「ど、どうしたの?」


 どこからか橘の声がする。怪訝さが色濃いが、無理もない。

 しかし。俺は応える間も惜しんで離れの戸を手探りで探し当てると、そのまま戸を開いて潜る。

 背後からは依然として呼び止めようとする声が聞こえるが、気に留めるのも疎ましい。そんな考えばかりが浮かぶ。


 だって――頭の中で響くあいつの声がうるさいから。



 

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