第5章「急転離別」
穏和な日
嫌に久しい感覚に目が覚める。
右腕には柔らかい感触が。左腕には締め付けられるような感触が。どちらにしろ。俺も男である以上、それが嬉しくないとは言わない。が。
「すっかりと朝の風物詩になって来たわね」
そんな男の夢――もとい。願望を体現している様を、違う女の子に呆れた眼差しで静観されては。喜ぶものも喜べないのである。
「俺に非はないだろ」
「顔。ものすっごい、ニヤけてるわよ?」
「へっ?」
「嘘よ」
その凄く冷たい目が、とても痛かった。
ゆったりとした朝食の席。橘のお祖母ちゃんは今日も、変わらずに気力に満ちたご様子。その横で白米をかき込む小マキナも相変わらずである。
右隣のリムルは仕切りに「あーん」と、箸で摘まんだオカズの里芋を向けてくる。反対方向から感じる橘からの冷めた視線もいつも通り。
特に変わった事もない、平穏な朝の風景である。
『昨夜。
男声ニュースキャスターの告げる言葉に身を強張らすのも、すっかりと慣れたもので。
「相変わらず物騒ですよねー」
「
誤魔化す際の演技にも磨きがかかってきたように思える。
「私のことは心配しなくて大丈夫だよ、おばあちゃん」
「まあね。あんたには
「ご老体。それでは返って心配が増すと云うものじゃ」
「そうね。路上でいきなり、なんてことになったら大変よね」
この小さい主はまたしても。余計な一言を添えてくる。
口もとをニヤつかせながら細目を向けてくるところを見るに、大いに楽しんでいるようだ。やはり確信犯的な犯行である。
「そんな心配はいらないですよ? 一応は、俺にも常識ってのはありまして……」
「あのね、おばあちゃん。そもそも私はこいつとそんな仲じゃないし」
それはそうなのだが。そこまでキッパリと言い切らなくてもいいだろうに……。
以前のような、在らぬ噂が立たないよう。俺と橘は時間を空けて学校へ向かうようになっていた。そして。今日は俺が遅れて家を出る番である。
もうしばらくで梅雨に入るからなのか。空に漂う雲の数が多くなってきた気がする。下手をすれば、今日の午後は雨が降るのかもしれない。そんな空模様だ。
道行く人々の手に傘が握られてはいないのだが。それだけではどうにも、心許ない。そんな考えを巡らせていると。
「あれは……」
少し先の道で並ぶ、覚えのある背中が見えた。
片方は同じ高校の女子生徒の制服。もう片方は白いTシャツにジーンズと、かなりラフな格好の長身の男性。最近になりよく遭遇するようになった、
妹に限っては朝の挨拶を交わす程の仲でもないのだが。兄の方は事情がまた違う。昨日見たあの人の目は、未だに俺の脳裏に焼き付いて消えることがないのだ。しかし。
どちらにしても。妹は愚か、兄の方には全く面識のない俺に今できることは、ただ学校へ向かうこと。それ以外にないのだった。
やきもきとした気分を抱えながらも。前を歩く二人の背を見やりながら、いつの間にか俺は学校へ辿り着いていた。
階段で二階まで来ると。自分のクラスである『1年A組』の教室はすぐ目の前に現れる。
流石に昨日の今日だ。森咲の手前。悠々と入って見せるわけにもいかないのだろう。そう思っていたが。
「おっはよー、歩」
ちょうど教室から出てきた森咲は、俺の顔を見るや。あっけらかんとした笑顔で言い放ってきたのだ。
「お、おう」
「どったの? 豆鉄砲でもくらった?」
その瞬間。背筋が凍り付く。
「お、お前……誰だ?」
「えっ?」
あの森咲が言葉の意味を間違わずに使いこなせている――いや。だからこそ、こいつは森咲ではない。
「使い方が合ってるんだよ、今の」
「あのさ歩。私のこと馬鹿にし過ぎじゃない?」
「いや、つい……」
怪訝な目を向けられて来たので、冗談はここまでにしよう。それよりも。
「ほら、これ」
俺は学生カバンとは別に持ってきた袋を森咲へ差し出す。
「ん、なにこれ?」
「忘れ物だよ」
紐で窄んでいた袋の口を解くと。一瞬だけ驚いたように目を見開き、そして。
「これって昨日の?」
満面の笑みを溢しながら。袋からネズミーマウスのぬいぐるみを取り出して、大事そうに抱き締めて見せる。しかし。そんな様子に軽く罪悪感を覚えてしまう。実は、それは昨日のぬいぐるみとは別の物なのだ。
昨日拾ったネズミーマウスは俺がブチまけた鮮血に染まり切っており、今朝方。橘に頼んで彼女がたまたま所有していた同じ形の物を譲って貰ったのだ。
「ありがとね」
目の前の森咲はそんなことも知らずに、素直に喜んで見せてくる。しかし。これでいいのではないか。そう思うのは俺の自分勝手な考えなのだろうか……。
「お礼なんていい――」
「ちょっと」
純粋な瞳を見てられずに。胸元のネズミーマウスを見やっていた俺の視界は、瞬く間すらも与えられずに移ろう。腕を掴まれた感覚から、誰かに引っ張られたようだ。
「女へのプレゼントだったわけ?」
ようやく定まった視界に映るのは眉間にシワを寄せた、わかり易く憤っている橘の顔だった。
「いや、違くて――」
「違う?」
こんなことになるのだったら、事情を説明しておくのだった。
「だから、これは昨日の――」
「えーっと、なんか邪魔みたいだし。また後でね」
「いや、森咲っ!?」
「私のネズミーマウスー!」
嗚呼。朝からもう、滅茶苦茶だ……。
今日は何てことのない日常を満喫できたような気がする。幸せに、確かな定義が存在しないのならば。俺は放課後までの時間を、幸せなひと時だった、と称せる。
もしも願いが叶うのなら。俺は今日という日が永劫に続いて欲しい。そう願うだろう。魔法使い同士の戦いに身を投じた状況にある俺にとっては、それ程に尊い時間に感じられた。
「未だ残ってたの?」
誰一人として残っていない夕陽の色に染められる教室の、自分の席に腰を据えたままの俺へ。扉から顔だけを覗かせる橘が呆れた声色で告げてくる。
「そういう橘こそ、どうしたんだよ?」
「ちょっと野暮用ってヤツでね」
「まあ、俺もそんな感じかな」
「座ってるだけじゃない」
今度は身体ごと教室に入ってきながら橘は言う。
「なんかさ。いまさら俺、実感したんだよ」
「何を?」
次に俺が告げる言葉に勘付いたのか。橘の返答にややトゲを感じる。
「一歩間違えれば、傷付くのは俺だけじゃないってことにさ」
そこでしばしの間が生じる。そして。
「私にはね。この学校で友達と呼べる人なんて居ないの」
橘は静寂に溶けるような声で呟く。
静かな。いや。それはあまりに静かな告白で。俺は驚嘆の感情を漏らすことさえも許されず、ただ。橘の呟くような一人語りを黙って聞くことしかできない。
「それなのにさ。どっかの馬鹿が、勝手に首突っ込んで来ちゃってさ……」
小さな嘲笑を漏らすと。それまではどこでもない虚空へ向けられていた橘の視線が、ふとこちらへ向けられてくる。
「正直、迷惑だったし。すごく、怖かったのよ」
「橘……」
でもね。微笑みながら、そう続ける。
「今は少しだけ違ってる。迷惑なのは変わりないけど、怖さの方は消えたわ」
どこからか聞こえてくる声でかき消されてしまいそうな程にか細いその呟きはしかし。しっかりと俺の耳まで届いていた。だから。
「そっか」
俺は謝罪の言葉を呑み込んだ。
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