近くて遠いⅡ

 ◆◆◆◆


 その叫び声は――自分のものだった。

 絶叫にしては小さく。嗚咽にしてはしっかりとした声。

 俺は人を。一瞬前まで生きていた人間を、殺した。大切な人が傷付けられた。そんな理由を大義名分にして。


「は、はは――事故だ。いや違うな。正当防衛だ。そうだよ。俺はただ」


 笑っている。俺は今、笑っている。意識も視界も。思考も何もかも正常に機能している。けれど。感情だけは壊れているようだ。


 ◆◆◆◆


 ――いーけないんだ。いけないんだ。


 歌?


 ――ひーとーをーこーろしたー。


 幼い声が歌う。

 やめろ。やめろよ。


 ――ひーとーをーこーろしたー。


 やめてくれ。


 ――わたしと同じだね、少年くん?


 お前か。お前が歌っていたのか、この――人殺し。


 ――君もだろう?


 俺も、人殺し?

 何を言ってるんだ、こいつは――いや。人殺しの考えなど、総じて理解し難いものだ。だから。仕方がない。


 ――自分の身体を見てみなよ?


 身体――服が、赤い。これは血だ。

 誰の血なんだ。誰の。

 ん、足になにか触れたような――え?


「ああああああ――っ!」


 膝が地面に着く感覚でようやく。混沌から意識が戻ってくる。そして俺は、また。叫んでいた。


「あゆ、む……歩なのっ?」


 そんな絶叫を遮って耳に届く聞き慣れた声。しかし。酷く怯えたその声色は、俺の知っているものではない。似ても似つかないのだ。


「もり、さき」


 灰色の中に赤い斑点はんてんがちらほら。その向こう側に見えるのは、制服のブラウスを羽織っただけの森咲。どこからか漏れる月明かりが辛うじて見せる彼女の表情は、安堵――ではない。

 すす汚れた頬を伝う光の筋は絶え間なく。その筋の始点である大きな瞳は。


「助けに――」

「違う。違うよ……だって歩はっ」


 先の魔族を見る俺の目と同様。歪なものを捉えた目だ。

 途端に息が詰まり、背筋が焼け付くように熱くなる。


「森咲、俺は――」


 次にとるべき、告げるべき事柄が分からなくなる。だから。とりあえず近づいてしまう。が。


「来ないで――化け物っ!」


 拒絶された。それと同時に、俺は何かに足を取られる。


「たす、けて……たす、け……て」


 右半分の頭部を失った男がこちらを見てくる。

 どうして。どうしてこんな。どうしてこんなことになったんだ。分からない。

 俺はただ、大切な人を助けたかっただけなのに。どうして。どうしてこんな――


  ◆◆◆◆


「歩っ! ねえ、歩っ!」


 声が聞こえる。身体を揺らされる。この声は――森咲?


「起きてよ……歩」


 涙声だ。泣いているのか。どうして――いや違う。

 曖昧な思考を排して、目を開ける。そこには。


「大丈夫か、森咲?」

「歩――っ」


 涙でくしゃくしゃになる森咲の顔が見えた。そして。それは直後に消えて、俺の身体の上に微かな重みがかかって来る。


「重いよ、森咲」


 胸の上で泣き崩れる森咲の頭にそっと手を置く。

 妙に埃っぽい空気が漂う。ここは先程の倉庫のようだが。それならさっきのは、いったい。


「良かったよ、歩……でも、死んで?」


 震えていた森咲の声がふいに冷たくなると。その言葉が刃物になったかのように、俺の胸に突き刺さった。



 ◆◇◆◇



「くそがっ――どうして傷が塞がるんだよっ!」


 文字通りに胸を抉られる感覚。そして。焦りと驚愕の程が聞き取れる男の声。

 それらが、意識の戻ってきた俺の身に降りかかる。


「くそっ――」

「無駄じゃ。その粗末な刃を幾度突き立てようとも、そいつは死なぬぞ」

「誰だっ?!」


 この声は。


「そいつの主じゃ」


 マキナだ。


「主――てことは、こいつは魔族かっ」


 いつの間にか外していたサングラスで分からなかったのだが。俺を見下ろしてくる男はあの。色黒のスキンヘッドの男だった。しかし。

 それなら、どうして生きているんだ?


「陽炎の魔術で動きを封じるまでは賢明じゃったがのぉ……惜しい。それにしては惜しかったぞ」

「魔術? こいつは魔法だ――まさかっ!?」

「今更に気付きよったか。そこで伏せてるわらわの下僕は、お前と同じ人間じゃ」


 男が焦ったように身動ぐのが。いったいどういう訳なのか、いまいち理解できない。しかし。


「悪いけど、こっちはこっちで複雑なんだよ」

「うわっ!?」


 上体を起こして頭を掻いて見せる。こうやって余裕な素振りを見せることでさも。俺が得体の知れない存在であるのだと思い込ませる。

 こうすればきっと――今度こそ上手くいく。


「お、お前ら……な、何者なんだよっ?!」


 恐怖によって常軌の程が押し潰されたのか。男は手にしている、ナイフにしてはやや長い刀身の刃物を床に落とす。

 鋭い光沢を煌めかせるそれが立てた、甲高い音が止むのを待つ。そして。一度マキナへ目配せしてから再び男の方を向いて応える。


「使い魔だっ!」

「主じゃっ!」


 微妙にズレたが。まあいい。


「くそ、こっちには人質が――」

つくづくを以って、救えん奴じゃな」


 男が踵を返そうとした瞬間。マキナが右手をくいっ、と挙げる。すると。男の足元に紫色に発光する円が浮かび上がり、直後。一本の太い鎖が男の身体に巻き付くようにして現れた。


「くそっ! くそっ!」


 そのまま男は尺取り虫のように地面をのたうちまわる。


「やはり馬鹿とは、ひとつの言葉しか発せられぬようじゃな」


 腕組みをして、さぞ愉快そうに肩を震わせるマキナが言う。そんな様を見てホッと息を吐いた時。俺は肝心なことを忘れていることを思い出す。


「あっ――森咲!」


 これでは俺も。目の前で「くそ」を連呼する男のことを言えたものではないな。


 男が出てきたであろう灰色の煉瓦の隙間を抜けると。体育で使用するマットにも見える物の上で両手と両足、それから口を布で縛られている森咲が倒れて居るのが見えた。


「森咲っ」


 彼女の名を呼びながら近付こうとしたのだが。先程の光景が脳裏に過る――化け物、と。だが。


「んー、んー」


 俺の姿を確認した森咲の目に怯えの色は――ない。が。すぐに身体を反対方向へ向けてしまう。

 一瞬だけ足が止まったのだが。それでも口の布だけは取ろうと、歩を進める。


「森咲――」

「見た?」

「は?」


 口の布を取ってすぐに発せられた言葉に理解が追い付かず、俺は不覚にも間抜けな声を漏らしてしまった。


「私の身体、見た?」

「あっ――」


 失念――していたわけではない。だが。俺の頭はそれどころではなかったのだ。

 実際。はだけたブラウスが上手いこと陰の役割をして、下着が外された森咲の胸元を隠して――いや。俺は何を頭の中で弁明しているんだ。


「どさくさに紛れて人の身体見るなんて……火事場ドロボーもいいところだよ」


 首だけを回し、少しだけ潤んだ瞳が向けられてくる。

 しかしその声は。その声は――いつもの森咲の調子で。それが嬉しくて、俺は。


「森咲、それ……違う」


 溢れ出す涙を止めることが出来なかった。




 突然に見舞われた危機的な状況はしかし。それはもう、呆気ない幕切れとなった。

 縛っていた布を全て解いた森咲と共に瓦礫の合間を抜けると。そこには見る影もない程にボコボコな顔相になった男の姿があり――まあ、恐らくはマキナの仕業なのだろうが。

 それから程なくして。俺の通報を受けた警察が倉庫に到着し、警察の手によって男は連行された。そして。


「やっぱ森咲も、警察に行った方がいいだろ」

「いーよ、別に。縛られて――その、少し胸見られただけだし」


 倉庫を後にした俺たちは、そこから少しだけ歩いたところにある公園のベンチで休憩していた。

 男が着ていた赤いパーカーをブラウスの上から着込む森咲は、頬を紅潮させながらも。どこか複雑そうな面持ちで俯いた。


「あの、さ。遅いかもしれないけど、俺――」

「歩は歩だよ」


 真剣な声色が俺の言葉を遮り。俯いたまま視線だけを俺の方へ向けて、続けられる。


「私って頭悪いからさ、難しいこととかわかんないけど。いま隣に座ってるのは大切な友達だって。それくらいのこと、わかってるんだよ?」


 例え。言葉尻にそう付け足して、今度は身体ごと向き直ってくる。


「どんなになっても、歩は私の大切な人。それは絶対に変わらないから」


 揺れる視界が捉える森咲は静かに、そして。穏やかに微笑んでくれた。でも。その顔はすぐに歪んで見えなくなる。


「もう、泣くことないじゃん。歩は泣き虫さんだなー」

「ごめん。でもさ――」


 近いのに遠い。勝手に距離を定めてしまっていた自分が恥ずかしくて。大切な親友だ、と。口ではそう嘯いていたはずなのに、そんな相手を信じ切れていなかった自分が滑稽で。でも。


「今度こそ、裸の付き合いだよね」

「ああ。合ってるよ」


 森咲が言ってくれた言葉は堪らなく、嬉しかった。

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