兄と妹

 ふと気付くと――部屋は明るさを帯びていた。どうやら寝付けずに朝を迎えてしまったようだ。しかし。

 言い得て妙なことに。眠気や、頭を絞める疎ましい痛みはない。さすがにスッキリとした爽快さを感じ得る気分でもないが、最悪とも称せない。そんな曖昧な気分。

 布団を剥いで上体だけを起こすと、太もも付近に感じていた温かさの正体に気付く。


「お前か……」


 そこには丸くなって眠る黒毛の子猫――クロが乗っかっていたのだ。それも。気持ち良さそうな寝顔がこちらに向けられていると来たものだ。

 マキナや橘が見たらさぞ、喜んでいただろう。しかし。


「どうするかな」


 下手に退けようとして起こした日には、それこそが最悪というもの。それでも。どうにかしなければこちらも動くに動けないのだ。


「早いな、下僕」

「マキナ――起きてたのか?」

「まさか。お前でもあるまい……今し方、目が覚めたのじゃ」


 横を見ると。天井を仰いだままのマキナの姿がある。

 その幼い姿にもすっかりと見慣れたものである。


「昨日。メアから聞いたのじゃろ?」

「知ってたのか?」

「何となくじゃ。お前の至極分かり易い顔を見れば大凡おおよそのことは大抵、察しがつく」


 依然としてこちらを見ようとしないが。そう告げながら笑いを漏らす。


「なあ――」

「そう焦るでない。時が来ればわらわから伝え聞かそうと思っておる」

「そっか」


 そこに見えたのはやはり。あの目だった。遠く過去のことを眺めているような、虚空を見やっているような虚ろな目……。



 二日程度の以来だというのに――いや。三日か。どちらにしろ、教室のありふれた風景が嫌に懐かしく思えて仕方がない。


「よおあゆむ、金曜はどうしたんだ?」

「ちょっと風邪ひいてさ。もう大丈夫だけど」

「ダメだよ歩、風邪っていうのは治りかけが一番油断しがちなんだよ?」

「それを言うなら肝心、だろ」


 森咲もりさきにしては珍しく惜しい間違いだ。意味合いとしては正しいのだから。


「しっかしよぉ、この街もいよいよ始まったな」


 何が始まったのかは分からないが、圭介けいすけはかなり嬉々とした様子で告げてくる。


「最近じゃテレビの中継車とかよく見るしさ。その内、インタビューとかされんのかな?」

「えっ、それじゃ美容室行かなきゃ、だね!」


 森咲は浅葱色の癖毛頭を手で梳かしながら整える素振りをとって見せるのだが。どうにも、代わり映えしたようには見えない。相変わらずのクシャクシャヘアーである。


「あんまり喜ばしいことでもないだろ、それ」


 最近の騒ぎとはやはり。魔法使い同士の覇権争いが原因で間違いはないのだろう。しかし。

 少し前の――先週までの俺ならきっと。圭介や森咲のように、どこか他人事のように思っていただけだった。だからこそ。当事者となった今でも圭介たちの能天気な様子を咎めることは許されない。


「相変わらず、歩は真面目だよな」

「そうでもないよ。現に近いところで影響は出てるわけだし、どうにも他人事のフリなんて出来ないってだけだよ」


 故に今は、こうやって遠回しに注意を喚起させるだけしか叶わないのである。

 もしもこの二人に何かあれば、なんて。そんなことは考えたくもない状況だ。せめて。俺のような不用意で非日常的な世界へ近付いたりしないで欲しい。

 二人の居るこの場所だけが僕にとって、唯一の高校男子としての日常なのだから。


 久しぶりだからか。学校は予想以上にあっという間に放課後まで至った。

 疎らに教室を出て行くクラスメイトたちを目で追いながら、俺と圭介は森咲の帰り支度を待っている。が、当の森咲はこの状況を意に介している素振りは皆無である。

 机の中を漁っては、いつの物かも知れないくしゃくしゃのプリントを発見する。そしてまた戻す。それの繰り返しをここ数十分の間行っているのだ。


「おい森咲、いい加減にしろよ?」

「あれ。圭介と歩、どうしたの? 帰らないの?」

「この後、駅前に寄って行くんだろ?」

「あっ、忘れてた……」


 おいおい。圭介と声が被ってしまった。

 するとようやく。森咲は机の採掘をやめて、紺色の学生カバンを手に取って立ち上がる。


「三人で寄り道って、なんか久々だよね」


 教室から出たところで急に、森咲は嬉しそうに言う。


「そういやそうだな。先々週以来、だよな」


 同じように笑顔でこちらに顔を向けてくる圭介。

 二人の。その楽し気な様子につられて、俺まで顔がほころんで行くのを自分でも感じ得る。


「先週は色々とあったからさ」

「あ……。もしかして歩が金曜休んだのって、失恋が原因か?」

「失恋?」

「橘ちゃんだよ。忘れてるってことは――」

「ショックが大きかったんだね。可哀想な歩……今日は朝まで付き合うよ」


 そういえば、そんなことを言ったような気もする。幾ら誤魔化す為とはいえ、今度からは嘘も慎重に選ぶようにしよう……。

 圭介と森咲から向けられる目には、本気で同情の色が浮かんでいるのだ。どうにも耐えられない。


「は、ははは――ありがとうな」


 そんな他愛のない会話をしながら下駄箱前までやって来ると、そこにはちょうど。今まさに靴を取り出そうとしている橘の姿があった。


「おお。噂をすれば障子に目あり、ってヤツだね」

「森咲、違う」


 それでも意味が通じそうだが。やっぱり間違えている。


「なんか、気まずいな」

「なんで圭介が気まずいんだよ」


 三人揃って立ち尽くしていると、ふいに橘がこっちへ向いてくる。


「いま、帰りか?」

「ええ。そっちも?」

「ああ」


 こちらの事情は知らないであろう橘は、至って普通に受け答えてくる。が。


「えらく普通に会話してんな」

「いや、嵐の前の静けさだよ。絶対にっ」


 横の二人はヒソヒソと勝手な憶測を語り合っている。

 ここは早々に引き上げるに限るな。だが。


「それじゃ橘、また明日な」

「え、ええ。それじゃ――」

「そこ、どいてくれますか?」


 ようやく終わりを迎えると思っていた矢先。背後から聞き覚えのある――あの無機質な声が聞こえてきたのだ。

 慌てて振り返ると。階段の上から射す夕陽を背にして森咲の友達らしい、水戸みととかいう女子生徒が立っていた。

 逆光で詳細な表情は伺えないが、その暗い中にあっても鋭く浮かび上がる青い瞳には確かに。憤りのような感情が浮かんでいる。


「あ、ごめん」


 二人の方へ身を寄せて道を開く。と。


「あ、水戸ちゃんだ。気を付けてね、嵐が来るから!」

「ああ笑実えみちゃん――え、嵐って、なに?」


 森咲のおかげで眼光こそ和らいだように見えるが。今度はその瞳に困惑の色が浮かぶようになる。


「ごめん、なんでもないから。気にしないでくれ」

「え、ええ。それじゃね」

「バイバーイ」


 ようやく見えるようになった少女の顔には苦笑が残りつつも、俺の作った道を通り過ぎて下駄箱へと向かう。そして。

 橘の方も昇降口を出たようで。向き直った時には既に、その姿はなかった。


「あのさ森咲。頼むから、余計ややこしくなるようなことは言わないでくれ」

「え、なにが?」

「歩さ、それを森咲に言っても無駄だってこと。お前なら分かるだろ?」


 そんなことを言われていても尚。物凄くいい笑顔を見せているあたり、そのようである。


「そうだな……」


 俺が吐息をついた直後。さっきの少女が消えて行った先から声が聞こえて来た。


「兄さんっ」


 声色の程は大きく違えど。それは確かに水戸のものだった。無機質は愚かその声は。盛大に嬉々とした様相を彼女が呈しているのだ、と報せて来る。


「なんだ?」


 その変わりように興味を抱いたのは俺だけではなかったようで。圭介は下駄箱を陰にして覗き見ようと動く。


「もう、覗き見なんてダメだよー」


 口では言うが。森咲もしっかりと圭介の後ろにつく。


「お前らな……」


 各いう俺も、その後ろにつく。

 そこに居たのはやはり水戸で。彼女の背の向こうに見える背の高い男性が、くだんの“兄さん”だろう。

 水戸と同じように紺色の髪は全て降ろされており、前髪は目に掛かるか掛からないか程度の長さ。耳の方も見え隠れしている程度に切られている。

 しかし。一番に特筆すべきはその目だ。青いであろう瞳は淀んだように光を失い、その色合いはまさに深海のようで。細められたまぶたが余計に、虚ろ虚ろな印象を与えてくる。


「わあ、イケメン」

「妹も妹なら兄もまた然り、か」


 二人が称するように。男の顔立ちは確かに端正だがしかし。細いというよりは痩けて見える頬のせいか、それとも色白な肌が悪いのか。俺にはどこか生気を失っているようにも見える。


「あいつらが彷徨うろついてるらしいから、迎えに来たんだ」

「ありがとう兄さん。今はひとりなの?」

「ん、あいつなら――」


 その時。男の虚ろな目が僕を捉えた。しかし。


千景ちかげ、そろそろ行こうか」

「え、うん……」


 盗み見ていたことに対しての言及はしない。が。振り返り様にもう一度向けられて来た目は――あの日見た、猫の目と同質なものだった。

 その目の意味合いは恐らく。


 ――咎める価値もない。


 これに相違ないのだろう。

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