第4章『動き出す不吉』
兆し
その報せを受けたのは朝食の席でだった。メアがこしらえた魚の煮付けを喉に詰まらせる程の衝撃に襲われたのだ。
「昨日、
正面で煮魚に箸を入れるお祖母ちゃん以外の全員が俺と同様に表情を強張らせる。
「最近はここら辺も物騒になったものだね」
当然のことで。橘のお祖母ちゃんは魔法使い同士の覇権争いのことや、それに孫が参加していることなど知り得ないのだろう。その口調は他人事の色味が強い印象を受ける。
テレビのある台座の方からさらに左へと視線を移ろわすと、橘もこちらを見ていたようで。いつになく茶けた瞳の鋭い様相が視界に入り込んでくる。
「橘……」
思わずその名を呟く。すると橘は何も言わずに頷いて見せてくる。
せっかくの煮付けだというのに。それからというもの、その絶妙な加減の甘しょっぱい味は酷く淡白に感じてしまった。
綺麗な毛並みの黒い子猫とじゃれ合うマキナを他所に、離れの内は異様な空気感を伴っていた。
あのリムルですら俺の横で難しそうに眉をひそめているのだから、相当である。
「被害者の男。あれは多分、君が戦った魔法使いで間違いはないと思う」
最初に口火を切ったのは腕組みして閉眼していた橘だった。
「そうだとは思う。けどさ、俺はあの時――」
「それはリムが保証するよ。マスターはあの後すぐに気を失っちゃって、
そうだったのか――はいいとして。そうとなれば、ますますに分からなくなる。
「普通に考えるのなら他の魔法使いに殺られたってことだとは思う。けど、どうにも腑に落ちない部分が出てくるのよね」
組んだ右手を今度は顎に添えながら橘は告げる。
何かを考えている様子だが。どこか険しく見える目元が決して快くない答えに行き着いたのだと、俺に勘繰らせてくる。
「どうかしたのか?」
「いやね。もしそうだった場合、どうして君やリムルに対しては手を出して来なかったんだろう、って思ってね」
言われてみれば確かにそうだ。しかし。
「どちらにせよ。今のままでは情報に乏し過ぎるのぉ」
猫を抱きかかえながら俺たちの輪へ参加してくるマキナは、ややこの場の雰囲気とは似つかわしくない声色を発してくる。
その声の色は恐らく――期待である。
「なんだよマキナ。妙に楽しそうだけど」
「早速その場へ赴くのじゃ。捜査とは足でするものだ、と。テレビとかいう輩に映っていた者は言っておったのじゃ」
なるほどな。刑事ドラマか何かに影響を受けているのか。でもまあ。
「それは一理あるかもしれないな」
「そうは言っても、君。あそこに行ったとしても中には入れな――」
「あの時の魔法を使えば気付かれずに入れるんじゃないのか?」
橘と最初に会った際に使用していた魔法だ。
それがどういった効果なのかはよく分からない。しかし、あの時の橘は確かに透明人間のようになっていたのだ。
「うーん。あれなら確かにバレずに現場に入れるとは思うけど、あれって持続させるのには結構な魔力が必要なのよね」
頭を掻きながらボヤいてくる。が、それならば――
やはりテレビニュースの力は絶大で。俺たちが植物庭園の側まで来た頃には結構な数の野次馬が押し寄せていた。
庭園の白い柵の周りには制服姿の警官が一般人が立ち入らないようにと、等間隔で配置されている。これでは目を盗んで入り込むなど、到底叶わないであろう。
「それじゃ早速、頼むぜ」
「さっきも言ったけど。幾らマキナとは言え、魔力には限度があるのよ。だから――」
「分かってる。余計に長居はしない」
透過の魔法で身体を文字通りに透明にさせ続けるのには一定量の魔力を有するため。俺たちが出した結論は、俺がマキナの魔力を消費しながら現場を調査するというものだったのだ。
「それから、見るのは遺体の状態とその周囲。もし男の遺体の方が無ければ、すぐにでも引き返してくること。いい?」
「ああ――そんな怖い顔するなって」
ここへ来る道中からずっとそうだ。橘はいつも以上に険しい表情を見せてくるのだ。
「……始めるわよ」
不機嫌――いや。少し違う。
心配――それも違うだろう。ならば、その顔はなんだ?
「属性は変異――」
呪文の詠唱が始められる。が、やはり表情は険しいままである。どうしたものか。
そんなことを考えていると、ふと――あの感覚が襲ってきた。
身体を巡る血液の足が重くなるような感覚。だが。思考の方はそれと反してよく回るようになる。感覚もまた然り。
気分は高揚して――マズイ。それはマズイ。
「ヤバ――」
橘の名を呼ぼうとした時。脳裏にリムルの顔が浮かんだ。昨日の晩に魔力共有の契約を交わした際の、あの顔だ。
詳しいやり方はなかった。ただ単にリムルのことを念頭に置いただけ。それだけで魔力の供給元を変更できた。
橘が魔法の発動を終えて目を開けたのが見えた頃。俺の中では彼女に優しく包まれたような感覚だけが残る。
「気分の方はどう?」
「だ、大丈夫だ。それより――」
「こっちの方は問題ないわよ。君のマヌケ顔は見えてないから」
控えめな笑みを浮かべる橘。いや。それは繕った笑みだ。そう見える。しかし。
「それじゃ――行ってくる」
事情は変わった。俺は迅速に事を済ませなくてはならない。共有したことで伝わってくるようになったリムルの魔力。
それはマキナと比べて酷く――希薄だ。
警官たちの間に当たる白い柵の背はそれ程に高くはなく、走った勢いのまま跳躍すれば一番上に手を届かせるのはそう難しくはなかったのだが。
「な、なんだっ?!」
飛び付いた際に立ててしまった音は予想外に大きく、近くに立っていた警官が驚いた様子で辺りを見渡し始めてしまった。
焦るあまりに柵の上部に掛けていた手を滑らせてしまいそうになる。が、今の俺は透明な身体をしているのである。警官が一向に俺の方へ視点を合わせて来ない姿を見て、ようやくそのことを思い出した。
柵を飛び降りた俺はとりあえず。先に見えた巨大な樹木の方へ走る。
可能な限り足音を立てるべきではないのであろうが、ここに来て野次馬やらテレビの取材陣らの存在が味方してくれる。外の喧騒は園内の中央に当たるこの場所まで届いており、俺が立てる足音などは容易に掻き消してくれるのである。
これ幸い、と周囲を見回してみるとすぐ。
「ったく……また心臓を矢で一発、か」
「なんて言うか、時代錯誤って奴ですよね」
刑事と思われる男のシワがれた声に続いて、若い男声の茶化したような笑い声が聞こえてきた。
「おい
「いやだって、今のご時世に矢って凄くないですか?」
「これだから最近の奴は……」
声は樹木よりもずっと先から聞こえて来たようで。俺が木を迂回しながら声の持ち主たちの方を見てみると、そこにはブルーシートの前に立つ二人のスーツ姿の刑事たちの姿があった。
一方は短く刈られた髪に幾らかの白髪が混じっており、一方は刑事にしては少しだけ長い茶髪頭だ。そして。どうやらあのシートの中に男の遺体は収められているようだ。
しかし。なんとか間に合った、と息を吐くよりも先に新たな問題も浮上して来ている。どうやって中身を見るか、だ。
「そうだ――先輩。カメラに映りたくないですか?」
これは願ってもいないチャンス。だが。
「増尾。お前、少しいい加減にしとけよ?」
「ははは……冗談すよ」
さすがにそうは簡単にいかないか。
しかしどうしたものか。こんな所でモタモタしている猶予なんてないというのに……。
焦りだけが意識の上に這い出てくる。が。身体の方は怖いほどに落ち着いている。
「リムル……」
そんな時だった。
「痛っ――」
舌先に電流が走ったのだ。そして、唐突に俺の頭は理解する。魔力の供給元が強制的に切り替わったのだと。
温かさすら覚えていた身を包む心地の良い感覚は一転。どこまでも暴力的で、とても抗いようのない強大な何かに身体の主導権が奪われて行く。そんな感覚が襲ってきた。
「リムッ――ああっ!」
咄嗟に、自分を保とうとして叫んでしまった。耳に返ってくる声でそれを悟る。と。
「誰だっ!」
こっちへ振り返った白髪頭の刑事と目が合う。が、すぐに見当違いの方向へと視線を逸らした。
透過の方は持続しているらしい。
「あっちからっすね」
「ああ」
すると二人の刑事は警戒した様子の、ゆっくりとした足取りでこちらへ向かってくる。
絶好の機会であるのだがしかし。マキナの魔力は俺が身体を動かすことを良しとしない。このままでは無駄になる。リムルがどのような状態に瀕してしまったのかは分からない。しかし。
いずれにせよ。このまま何の成果もなしに戻ってしまうのはあまりに――あまりにあいつに掛けてしまった負担が無意味なものになってしまう。
――どこまでも着いて行く。
昨日の自分が言い放ったその言葉を思い出した瞬間。俺は抗うことをやめた。乗っ取ろうとする力に何もかもを委ねる選択をした。
するとどうだろう。身体の強張りはそれまでが嘘だったかのように無くなり、難なく俺の足は歩み出せた。気分の高揚もない。
簡単なことだったのだ。俺はマキナを――
それが俺の――弱さだった。
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