結束の晩
暗闇。ただひたすらに、どこまでも続く闇の先。それは確かにこっちを見ていた。そして。
――殺す価値もない。
笑った。歪に。金色の瞳を光らせて、笑った。
暗がりの先に怪しく浮かび上がる二つの目。それはまるで猫のようだが。でもそれの持ち主は猫ではなくて。それは人――いや。認めたくはない。
あれはそう――人ならざる者だ。そう思い込むことにしたんだ。あれは化け猫で、人ではない。
あんなに愉快そうに人を壊すのが自分と同じ人間だなんて、そんなこと。あり得ない。あり得てはいけない。
◆◇◆◇
心地の良い弾力。それはとても柔らかくて。許されることならばいつまでもそれに包まれていたい。包まれて――
「んぐっ?!」
「ほら、やっぱりマスターだって男だもん。この気持ち良さには勝てないってことね」
「なんつー起こし方してんのよ……」
可笑しい。目を開いているのに、意識だって覚醒しているはずなのに。暗い。目の前は真っ暗だ。そして息苦しい。
「おい淫魔。お前の豊満な乳房の見事さは心得たのじゃ。だから、そろそろその阿呆を解放してやってくれぬかのぉ。
マキナの声だ。しかし、乳房?
「はいはい。私だってマスターを圧死させるつもりなんてないもーん」
そう返すリムルの声が聞こえた直後。光と新鮮な酸素が舞い込んでくる。そして。
「おはよ、マスター?」
仰向けになっている俺の視界にはリムルの微笑みが映る。
仰向けになっている俺の上で四つん這いになって乗るリムル。柔らかい感触。息苦しさ。乳房。圧死……。
「頼むから――頼むからリムル。もう少しだけでいいから、恥じらいというのを持ってくれ」
「そんなに照れなくたって良いんだよ。この胸も、この唇も――リムルの全部、マスターの物なんだよ?」
そういうことじゃないのだが。
「良かったじゃない。愛されてるわよ、君」
「妾は気に食わぬのじゃ」
呆れ顔の橘は相変わらずの意見だが、マキナの方は意外にも憤ったようで。華奢な腕を組んで丸い頬を膨らませる。まさか。
「下僕の分際で妾を差し置いて、人並みの至福を得ようなど。決して許さぬのじゃっ」
少し。猫の額ほども期待してしまった自分が情けない。
それはそうと、猫といえば。
「橘、あの子猫はどうしたんだ?」
「あの子ならメアがお風呂に入れてるわよ」
つまり、ここには居ない。それだけでも異様な安堵感を覚える。
「それよりもさ、君。幾ら苦手だからっていきなり卒倒することはないんじゃない?」
「卒倒?」
嗚呼。それで俺は離れの畳の上で寝ているわけなのか。
それにしても妙なのは先程の夢の方だ。何か忘れ難いような夢を見ていた気がするのだが、今ではすっかりと内容が抜け落ちてしまっているのである。
「あーんもう、猫ちゃんが怖いとかってマスター可愛いぃ」
「やめろって、リムルっ」
抱きついてくるリムルを押し退けながら身体を起こす。が、起こせはしたのだが。やはりリムルの力は強く、抱きつかれたままの状態は続く。まあ、悪い気はしないのだけど。
しかし、ふと。
「しかしまあ、下僕よ。お前は思った以上に脆弱な男じゃの。昨日といい、先といい。妾の魔力が幾らあっても足りなくなるじゃろうに」
今度はため息を吐きながらマキナは告げてくる。
昨日――そうだ。
「聞こうと思ってたんだけどさ。昨日のあの感じ、どういうことなんだ? なんて言うか、一瞬だけ俺はマキナみたいになってたんだよ。上手く説明できないけど」
そう。あの時の俺は完全に“マキナ”だったのだ。
「淫魔から事の
「同調反応?」
「端的に言うならのぉ……妾から供給された魔力がお前の意識を乗っ取った、という所じゃ」
乗っ取った。簡単にこいつは言い放ったが、それは限りなくマズイことだ。
「それじゃ何だ。俺は戦う度にあんな――」
「勘違いするな下僕。それは
幼い見た目に反してその目は恐ろしい程に鋭く、放たれる言葉の矢は的確に俺の急所を射る。
責めを受けるべきなのは俺自身の弱さ。薄々は感じていたが、改めて言われてしまうとやはり。何とも返す言葉に困ってしまう。
「マキナ、あんたにマスターの気持ちが分かるわけ?」
そんな時。いつの間にか俺から離れていたリムルの低い声がマキナへ向けられる。
「分からぬ。それに理解する道理もない」
「マスターは昨日。わけもわかんない内に死ぬ痛みを味わって、それで――」
「だから何だと言うのじゃ。これは下僕が自ら選び取った選択の、その結果じゃ。こうなることを踏まえて妾と正式に契約したのは
再び俺の方へ向けられる鋭眼。
それもそのはず。こいつの言っていることは何一つ間違っていない。だからこそ。
「ありがとうな、リムル。けど、マキナの言う通りだよ。これは俺が選んだ道なんだ」
切なそうな目を向けてくるリムル。そしてもう一つ。橘からも同様な眼差しが向けられる。
「橘もさ、もう責任を感じてくれなくてもいいんだ。とっくに俺は巻き込まれた、なんて被害者感情は引きずってない」
ようやく伝えられた。けど。
「下僕。その言葉、そしてあの晩の言葉も自らの体裁を保つ為のものではなかろうな?」
マキナからの目は変わらずに険しい。それでも。
「ああ。どこまでだって着いて行くさ、
メアと共に離れへやってきた黒毛の子猫から逃げるようにして部屋を出た俺は、そこでようやく今が夜だったことに気付いた。
せっかくの土曜だというのに、俺はその大半を寝て過ごしてしまったのである。
「やっぱ星、綺麗だな」
ふと暗がりの空を見やると。そこには満天とはいかずとも見惚れるには十分すぎる星々の煌めきがあった。
「マスター?」
すると、背後からリムルの声が俺を呼ぶ。
あんな後では仕方ないのだが、その声にいつもの元気さは伺えない。
「どうした。リムルも猫、苦手なのか?」
「ううん。マスターと一緒に居たくなったの」
そう言うとリムルは隣まで歩み寄って来る。そして。そっと肩を寄せたと思った直後、頭を預けてきた。
どうしてだろう。いつもの抱擁に比べたら何てことのない密着のはずが、妙に身体が強張ってしまう。
「あの、さ。さっきはホント、ありがとう」
「お礼なんていいよ。私は思ったこと言っただけだもん」
「そ、そっか」
「うん」
どうにもダメだ。心臓が無くとも緊張はするらしい。
さっきから声が震えるのを自分でも分かる。
「ねえマスター? 私ともさ、魔力の共有して欲しい」
一旦途切れた会話からしばしの静寂を挟むと、唐突にリムルは言った。声色の程から真意は推し量れないが、それは多分。昨日の朝とも違う、真剣なものだ。
「理由、聞いていいか?」
「好き――ううん。あのねマスター、私だって魔族なんだよ? 魔姫ほどはないかもしれないけど、魔力の持ち合わせはあるの」
肩に感じていた重さが消える。
「使って欲しい。マキナの魔力を使うのが怖いなら、私のを使って欲しい」
正面に向き直ってくるその表情は真剣そのもの。その言葉は切実さが濃く――いや。もはやそれしか感じ得てこない。
それに、リムルは見抜いていた。俺の本心を。
「確かに怖い。けど、だからってリムルに頼っちゃダメなんだよ。そうじゃないとマキナと橘――俺は二人に顔向けできなくなる」
そう告げた後。俺の目は光るものを捉える。
「なら……私のことは?」
笑み。そこには微笑みがあった。が、その弱々しさは穏やかな心情が由縁ではない。それはきっと、呆れだろう。
眼前の相手の気持ちを度外視し、他の連中の気持ちを重視する。そんな愚かしい人間への呆れ。そして失望。
だから俺は。
「んっ――」
体裁なんてものを捨てた。誰にどう思われようとも構わない。
ただ失いたくなかったから。ただ愛おしく思えたから。ただ――そうしたかっただけだから。
「マスター?」
「ごめんな、俺――」
リムルが言葉を途絶えさせてくる。
「何も言わないで、ね?」
あの夜。マキナは一度触れさえすれば共有する為の契約は果たされる。そう言っていた。
しかし。それならばこれは違うのだろうか。これは契約を果たすための儀式ではなく、もっと単純なものなのだろうか。いや。この際、どっちでもいい。他から受ける評価を捨てたのだ。
もう構わない、そう思った。
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