主と猫

 何かが鼻をくすぐる感覚で目が覚める。手にはふにふに、と柔らかく心地の良い感触がある。抗いようのない――あるいは寝ぼけた思考がそうさせるのか。思わずそれを抱き寄せる。


「んっ――」


 次いで聞こえるのは、苦し気なマキナの声。


「ん? あっ……」


 ボケた視界が鮮明さを取り戻す。すると、そこにはマキナの頭頂部が見える。首を起こしながら回し見る。

 そこに至って気付いたが、俺の手が仕切りに掴んでいたのはマキナの胸元だった。幸いにも今のマキナは幼い状態だったので――て。


「アウトだよっ」


 今日もまた。そんな具合に一日が始まった。



 たちばなのお祖母ちゃんの家から、風が強く吹く道を歩いて二三十分ていど。俺は三日前まで生活していた親戚の叔父さんが管理するアパートの前まできていた。

 剥がれ出している箇所の目立つ外壁や錆色の程が酷い石階段の手すり。それらを見れば頭にボロ、と付いてしまうような外観だが。


「やっぱ落ち着くな」


 慣れというのは目まで曇らせるのか。住めば都――もとい。掴んだそばからガタガタと外れそうになるノブを回し開けた先に待っていた光景に深い安堵を覚える。

 白い壁紙は天井部と床に面する箇所が黒ずみ、玄関を上げってすぐのフローリングは爪痕のような傷がちらほらと。

 廊下と呼べるほど長くもないニス塗りの木目を進むと、タンスやその他の家具を除いて六畳間ほどの部屋に出る。ささくれが酷い畳がチクチクと久方ぶりの再開に水をさしてくる。

 これではまだ、あの離れの方が人の住む家屋を呈している。そんな気持ちになる。

 両親を失った俺に叔父さんがこの部屋を貸して与えてくれた当時から備え付けられていた茶ダンスの上に置いていた白い封筒を手に取る。


「どうするかな……」


 しばらく見つめていると、玄関からメアの声がしてくる。


あゆむ様。荷造りの手助けをするよう、朱莉あかり様より遣わせられました。何かお手伝いすることはありますか?」


 自然に。ただ自然に、を意識して封筒を身体の陰に忍ばせる。別段、誰に見られようと構いはしないのだが。そうしてしまう。


「そうか、ありがとう。それじゃそうだな――とりあえず、座ってくつろいで居てくれ」

「分かりました。それではお言葉に甘えて」


 そう言うと。メアは四角い銀縁のメガネを外して玄関を上がってくる。それにどうだろう。今日はいつもの使用人服ではなく水色のシャツに下はもも丈の白いパンツという、かなりラフな格好である。さらに。いつもは後ろで団子状にまとめてある赤い髪はポニーテールに変わっている。

 その。いつもとは百八十度違う雰囲気のメアの姿に見惚れてしまったのか、手元が緩んでしまった。


「あれ。何か落ちましたよ?」

「ん、あっ――」


 思わず声を漏らしてしまう。けれど俺の身体の動き出しは鈍い。


「何ですか、それ」


 ふと。メアが相手ならば話してしまっても構わない。そう思えてしまう。


「写真が――俺の親の写真が入ってるんだよ、これ」


 ゆっくりと畳の上から封筒をつまみ上げ、それを見つめる。その中に収まる多少の色褪せが目に付く二枚の写真を喚起しながら告げる。


「女々しいというか、何というか……ダサいよな。親の写真をこんな風に大切にしてさ」

「ご両親はご存命ではないのでしょうか?」


 いつもよりも一段と落ち着いた声色が聞いてくる。


「ああ。つい二年前に殺されたんだよ――俺の目の前でさ」


 今もあの場所に変わらず立っているであろう一軒家を想像してしまう。橘のところに比べたら全然に狭い家だが、あの離れよりかは大きい家だ。


「目の前で、ですか」


 今度は落ち着いた雰囲気というよりは、幾らか沈んだ暗めの声。

 紅い瞳を伏せるメアだが。その顔に同情や悲哀の色味は感じない。だからこそ、今は救われる。


「まあでも。その犯人は捕まったし、俺は助かったんだ。運は良かった方なんじゃないかな」


 当時は違かったが、今はそう思える。しかし。


「運が良かった……残された者は本当に運が良かったのでしょうか?」

「どういう意味だよ、メア」

「いえ。歩様の考えを否定するわけではありませんが、どうにもわたくしには理解し難い考え方に思えるのです」


 ここに至って始めてメアの表情に感情の片鱗が見える。だが、言葉とは裏腹にその感情は困惑ではない。それは多分。誰に向けてかは分からないが、哀れみに見える。

 俺に向けてなのか、それとも自分自身へか。それとも。


「メア、それって――」

「荷造りの方、そろそろ取り掛かりませんか? これではいつまで経っても終わりませんよ」

「そう、だな」


 気まずい空気のなか。俺は二年という時間を過ごした部屋を出る準備を始めた。



 仰々しい門前へと戻ってきた頃。すっかり太陽は頭上高く昇りつめていた。

 比較的に軽めな荷物をまとめた黒いスポーツバッグを肩にかけたメアと共に墨色の門を潜った際。本館の玄関口へ続く石畳が見えるよりも早く、左方向の庭から楽し気な声が聞こえてくる。


「何事でしょう?」

「この声からしてマキナと――橘、か」


 しかし。それにしても楽しそうだ。

 擬音に当てはめるのならまさに。きゃっきゃっ、である。


「朱莉、そっちに行ったのじゃっ!」

「きゃーっ!」


 黄色い悲鳴だ。それは確か、幼いマキナを初めて目にした際に橘が上げたものとおおよそ同じ。

 一瞬だけマキナとじゃれあっているのかとも考えたが、その口ぶりからしてどうやら橘が愛でている対象はマキナではなく――もとい。二人は何か別のものに対して熱を上げているようだ。


「行ってみましょうか」

「だな。どうせ離れ行くには通る道だしな」


 メアと頷き合ってから石畳の横に備わる小さな池の傍を通り抜けて庭へ出る。すると。

 屋敷の陰を抜けた先に広がる新緑の映える庭の中央に寝そべる橘と、その側でしゃがみ込むマキナの姿が見えてくる。

 パッと見ただけでは橘が仰向けに倒れこんだのをマキナが心配しているような構図に見えるのだが。


「あれは――猫、でしょうか」


 訝しげな口調のメアが言う通り。目を凝らすと橘の上に黒い毛玉のようなものが見える。

 それはとても小さく。丸まっているのか、ここからではその全貌を確かめることができない。


「二人とも、何してるんだよ」

「おお下僕、戻ったか。お前も見てみろ。この子猫、実に愛くるしい姿をしていると思わぬか?」


 俺たちが近付くと、マキナと橘は文字通り。骨抜きにされたような締まりのない表情を向けてくる。気のせいか、橘に至っては微量なヨダレまで垂らしているように見える。


「朱莉様。いくらここが自宅の庭だからとはいえ。そのようなお顔はどうかと……」


 ついに見てられなくなったのか。メアは非常に言い辛そうに告げる。


「わ、私としたことがっ」


 迅速に口もとを拭う。が、もはや俺にとって“今まで”の橘の方が本当の姿に見えてしょうがない。


「それにしても、その猫はどうしたんだ?」

「つい先刻。散歩をしていたわらわが拾って連れ帰って来たのじゃ」


 依然として橘の上で丸まっている子猫の小さな頭を撫でながらマキナは微笑む。その姿だけを見ていれば、この幼女が魔族であることを忘れてしまいそうになる。


「拾って来ったって……ここで飼うのか?」

「私は構わないわよ。ねぇ?」


 橘もそう言いながら子猫を撫でる。すっかりと魅了されてしまっているようだ。


「全く。朱莉様は本当に可愛いものに対してはお目がありませんね」


 メアはそう言って橘の頭を撫でる。いや。それは可笑しいだろう……。


「ほれ下僕、お前も触ってみぬか。この肌触り……一度味わったが最期、この者の虜になること間違いないのじゃ」


 どことなく期待感に満ち溢れて見える視線が送られる。しかし。

 如何に主の命令でも、その至福な気持ちを共有したいと願う純粋な想いだったとしても。俺はこの子猫に触れることはできない。なぜなら。


「悪いなマキナ。その、俺さ――猫、苦手なんだ」

「はあ?」


 だが。俺の言葉に一番の反応を見せるのはマキナではなく、橘だった。


「こんなに可愛い生き物が苦手? 君ってアレなの、馬鹿なの?」


 そこまで謂れるとは……。


「苦手なものはしょうがないだろ」

「しかし何故だ。妾にもその気持ちは汲み取れんのじゃ」


 マキナまでもが言及してくる。

 しかし、実は自分でもよく分からない。いつからか俺は猫が苦手になっていたのである。

 もっと幼かった頃に母親に捨て猫を拾ってきたことを咎められた記憶もある。が。肝心の苦手になった際の記憶が定かでない。


「誰しもが苦手に思う対象は存在します。歩様の場合、それが猫だったというだけです」

「メア……」


 思わぬところからの助け舟だ。


「メアの言う通りじゃが、それにしては難儀なものよ。こんなにもい姿をしているというのに、それが苦手とはのぉ」


 マキナが再び子猫の頭を撫でた時。気持ち良さそうに首を動かした拍子に、くりくりとした円な黄色い瞳と視線が交差した。


 ――殺す価値もない。


 その瞬間。どこからかそんな声が聞こえた――いや。頭の内で響いた。

 それはとても淡白な声色。それ故に言葉との妙な差異に得体の知れない恐怖を覚える。背筋を長い爪でなぞられたような、そんな寒気が全身を震えさせてくる。


「どうした下僕?」

「あ、いや……可愛い顔してるなこいつ、って思ったんだよ」

「それなら――」


 マキナは何かを告げようとしている。が。

 もう、俺の耳は一切の音を聞き入れようともしない。それどころか、視界は一瞬の隙に暗転してしまう。


 そして。真っ暗なスクリーンには――あの日の映像が映し出された。

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