第3章『魔を斬る劔』
拙さという枷
事件――というよりは事故。そんな珍事が襲ったのは翌朝のことだった。
「ど、どういうことなのじゃ……」
昨晩、俺に見せた威光すらも感じさせる出で立ちはどこへやら。小マキナ――戦時以外の時に装う幼い姿のマキナは、自分がさっきまで眠っていた布団に向かって四つん這いの状態になってうわ言のように漏らす。
「マキナ、お前――」
「言うな下僕っ! 言うんじゃない……言うんじゃ、ない」
自らの情けなさからか。その大きな紅い瞳が次第に潤み出し、顔中が紅潮し始める。
こんな姿は見たくなかった……。
「くそっ、昨日の今日だってのにっ!」
「
「おねしょとかっ!」
「は?」
「え?」
俺の推理を聞いたマキナの顔が素に戻った。何故?
「いや。おねしょ、だろ?」
「違うわっ! 元の姿に戻らないのじゃっ」
「ああ」
そっちか。
「焦ったぜ……」
「おい下僕。昨日の殊勝さはこの短時間でどこへ旅立ったのじゃ?」
いつも通りでいい。そう言ったのはマキナの方だったのだが。
とまあ。それはいいとしても、こんなにもマキナが狼狽えているのが俺には今ひとつピンと来ないのだ。
「それはそうと。戻れないのがそんなにもマズイことなのか?」
「不味いのじゃ。非常に不味いのじゃ……この姿では本来の力を行使できぬのじゃ」
畳の上にへたり込んで小さな頭を抱える。その説明は分かりやすく、今し方に陥ったこの状況が如何に危機的なものなのかは伝わった。が、しかし。
「橘、空気を察してくれ。そして、いつからここに居た」
マキナがその格好になった瞬間。それを待ちわびていたかのように橘が颯爽と抱擁し始めたのだ。
「あっ、ごめん。分かってる……分かってはいてもね、人っていうのは自分の本能には抗えないものなの。君にもいつか分かる日が来るわよ」
ここ二日で俺は橘を誤解していたことは分かった。魔法使い云々はこの際抜きとしても、やはり普通の人間だ。それも限りなく森咲に近しい人種――は言い過ぎだが、そっちよりなのは確かである。
「でもさ、それってかなりヤバイよね? メア、だっけ。あれの戦闘能力は知らないけど、そこのおチビさんが欠けたら私たちって相当に弱くない?」
両手を挙げて大きく身体を伸ばすリムルが言葉の割りには、そこまで深刻さを伴わずに進言してくる。
「ま、私はマスターがそばに居てくれればそれでいいんだけど。ねぇマスター?」
そして抱きついてくる。寝間着のままなので、どうにも胸の柔い感覚がその薄い生地から伝わってきて対処に困る。が、決して悪い気は――いや。それどころではない。
「そうは言うけどさ、リムルだって魔族だろ?」
「そうだけどね。淫魔っていうのは元々戦闘に関してはからっきしな魔族なの。なんて言うか……可憐だし?」
人の腕をへし折っておいてよく言う……。
「そうですね。私たち奉魔も同様、戦闘に関しては些か心許ないです」
いつの間にかメアまでもが室内にいる。
「そうなのよね。メアの隠密行動には舌を巻くものがあるんだけど、本当に戦闘の方は苦手っぽいし」
いつもの調子に戻った橘がマキナの横で難しい顔をしている。もはやその素振りさえもフリのように見えて仕方が無い。
しかし。こうなることを見越していたわけでもないのだが、俺とマキナは昨日の晩に“あれ”を行ったのだ。
「致し方ないの。下僕、戦闘に関しての要はお前じゃ」
「ああ。多分、それしかない」
唇に手を当て、頷き返す。
「え……なに?」
急に身を離して目を丸くするリムル。やはりそこは同じ魔族。あれに関しては心得ているのだろうか。
「いや、その……昨日の夜、マキナと正式な契約を――」
「そんなっ! リムだってまだしてないのに……」
「え、なに? 何なの?」
リムルが半ばヒステリーを起こしているかのような声を漏らすと、状況を把握し切れていない橘はそれ以上の困惑を見せる。
メアの方は軽く赤面して俺から目を逸らし、マキナも俯き加減で畳を見据える。
「リムも――」
直後。リムルに抗いようのない力で押し倒される。
「ちょっと待てって、ここじゃ――」
「嫌だよ……リムだってマスターとする」
潤みを通り越したリムルの瞳から数滴の雫が顔に落ちてくる。本気で泣き出している……。
「な、なに? なにしようとしてんのっ?!」
上ずった橘の声が聞こえる。マズイ。非常にマズイ事態だぞ、これは。
リムルの様子を見るに多分。あれをしないことには収まりが着かないだろう。しかし、こんな大勢の前であれをするともなれば――ましてや。事情を知らない橘がそれを見た日にはどうなるか……。
「マスター」
恐らくあの箱の中に収まる俺の心臓ははち切れんばかりに大仰な動きを見せているのだろう。眼前に迫るリムルの泣き顔は堪らなく、許されるのであれば今すぐにでも俺の方から顔を寄せたて行きたい。が。
「リムル。今は止そう」
泣いたことで僅かに荒くなった吐息が鼻先に触れる距離まで迫った時。顔を背けて告げる。すると両肩の負荷は薄れる。
「リム――」
もう一度その顔を見ようと視線をズラしたが。そこにはもう、居なかった。
次いで耳に届くのは木目の床をドタバタと駆けて行く音そして。扉を乱雑に開け放つ開閉音。
「え、修羅場?」
「朱莉様。失礼ですが、少しばかり場の空気をお察し下さい」
布団の上で寝転がりながらしばらく。俺のこの奇異な身体の状態では相応しくない言葉なのだろうが、放心したまま天井の木目を眺めていた。
学校へ休む旨を伝えた俺と橘は、街中を駆け回った後で近くの公園で落ち合った。
「そっちは――ごめん」
膝に手を置いて肩で息をする橘は答えを待たずして訂正してくる。こんな時にまで気を遣ってくれたのは嬉しいが、それを喜んでいる場合でもない。
「そんな遠くへはいけないんだろう?」
「ええ。あの結界を無理に突発したのよ? 普通は動ける状態でもないはず……」
朝食を食べ終わった後。一旦は学校へ赴こうとした俺たちが見たのは、昨日から橘が家の周りに張っていた魔法結界の一部が無理矢理に破られた痕。そして、地面に付着していた血痕だった。
「不用意からだ……俺の考えが足りてなかったから、リムルを傷付ける結果になったんだっ」
「またメアには怒られそうなんだけどさ、いったい君はマキナと何をしたっていうの? まさかとは思うけど……その、セ――」
「キスだよ」
「え……キス、だけ?」
言いたいことの察しはつく。つくのだが、本当にそれだけだ。
「それなら別に――っていうのは可笑しいけど。昨日だって君はリムルとしてたじゃない」
「頼むから察してくれ」
頬を赤く染めて苦笑を浮かべる橘に向かって舌を出して見せる。
「あっ……ああ、そういう、こと、ね」
見開かれた目が泳ぎながら明後日の方を向き出す。
こうなることに比べても、あの場はやはり渋って正解だったのではないか。そんな考えを頭を振ることで排してから、俺は再び踵を返して走り始める。
こんなことをしている間にもリムルは……。そう思えば思う程に足の踏み出しは加速度を増す。
「ちょっ――」
背後から橘の声が聞こえてくるが、構わない。リムルは俺の使い魔で、俺はリムルの
俺たちが居た公園の隣は自然庭園になっており、入場が無料のわりには客足の程はお世辞にも良いとは言えない。しかし。
「リムル……」
傷付いた魔族が身を潜めるにはうってつけらしく、庭園中央の巨大な樹木の地面に張り出した根に腰を掛けて休んでいるリムルの疲弊し切った姿がそこにはあった。
「マス、ター?」
薄く開かれた目から覗く瞳は青ではなく彼女ら魔族が本来持ち合わせる紅に戻っており、所々が破れてしまった服から見え隠れする体色の方も白ではなく淡い青になっている。
その姿は初めて俺たちが出会った時と同じ、淫魔としての姿だ。
「ごめんリムル。これだけは――」
「来ないでっ」
その瞬間。リムルへと近付こうとして踏み出した俺の右足は目的の地面へ着くこともなく膝から先が――消し飛んだ。
「うっ――?!」
横転する視界の先に腕をこちらに伸ばすリムルの悲痛な表情が見えた。そして。
「あ――あああああっ!」
次いで俺の思考が巡り着いたのは痛覚。それは容赦無く激痛を自覚させようと働きかけてくる。
痛み――いや。それは熱だ。耐え難い程の高熱だ。
「マスター、そんな……」
定まらない視界はもはや、リムルの姿は愚か。何も据えることもなく揺れ動き続ける。そんな時。
「トドメだ――オーガ」
聞き覚えのない男の声が聞こえた直後。
視界は揺れ動くどころか、聞くに絶えない
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