幼い姿の主は月見て云ふ
――ごめんなさい。
離れに帰った俺は下足番で靴を脱ぎながら先に橘から告げられた言葉を思い返していた。
彼女は「自分のせいで」と自らを責めていたのだが。どうにも俺は釈然としない。まるで何もかもを橘が決定したような物言いに聞こえてしまうのだ。
「おかえり、マスター」
「ああ、リムルか」
「どったの? なんか元気ないけど……あっ。昼間のこと、まだ怒ってたりする?」
「いや。違うよ」
そう、違う。そのことじゃない。
だからだろうか。次にこんなことを口走ってしまったのは……。
「俺はさ……リムルの
「そうだよ?」
不思議そうに首を傾げるリムル。それはそうだろうな。
ごめん。そう言って俺は下足場を上がってリムルの傍を通過する。が。
「わかんないけど……もし不安ならさ、そんな風に思えないようにしてあげようか?」
腕を掴まれ、そのままリムルの身体の正面へと引かれる。眼前に迫った彼女の青い瞳は潤んでいて、顔の紅潮も今までになく――昼間に見せてくれた程を遥かに越えて見える。
ぼうっとした思考は安易に、その先に待つであろうまだ知り得ぬ世界へと踏み出すことを促してくる。
「マスター」
「リム――」
しかし。
「おい下僕。帰宅早々に玄関先で何をおっ始める気じゃ? 少なくとも主である
背後から聞こえてくる幼いがしかし。どこまでも偉そうな声が俺の思考を正常な働きへと回帰させてくれる。
「お、俺はなにを……」
「ちっ」
先まで殊勝な表情に見えていたリムルだったが。分かりやすく舌打ちをしてみせると、いつもの飄々とした笑みに戻る。そして。
「全く。盛りのついた男ほど見るに耐えぬ存在など、程々いやしないの」
振り返った先には、短くなった腕を組みその幼い見た目には似つかない口ぶりながらも、可愛らしく大きな両目を閉じて吐息をついて見せるマキナの姿。
昨日の今日とて代わり映えしないもないが。それでも、そこには俺の知った――いや。自らで選び取った光景が広がる。
「なにをニヤけとるか。ますます醜いツラだぞ、下僕」
「悪い。なんでもないよ」
いつか後悔する日が来るかもしれない。けれど。少なくとも、そんな日が訪れるまでの間は胸を張って言える。
これが俺の選んだ道だ、と。
夕食まで幾分かの間がある、と言って合流した橘を交えて始まった小会議だったのだが。早々に俺の頭はその内容に置いてけぼりをくらうことになった。
「覇権争いって、なんだよそれ?」
「だから、いま魔法使い同士が行ってる闘争の理由よ」
「それは分かるんだけどさ……」
そう。そこは分かるのだが、問題はその次だ。
「副賞として与えられる新しい魔法を創り出す権利、ってのが良くわからないんだよ。魔法って自分らで簡単に生み出せるものじゃないのか?」
「この際。俗世間の魔法ってやつのイメージは完全に捨ててくれる?」
憤った目が向けられる。いや。仕方ないだろう……。
「ここでの魔法っていうのはね、魔界の法則。つまりは別世界での法則なの」
「成る程。全く分からん」
はあ、と。盛大に吐息をつかれてしまう。
さすがに今までのことはすんなりとは行かずとも、それなりに理解の及ぶ範疇にあったのだが。それは
しかし今度のは違う。俺は魔界なんてモノを目にしたことはないのだ。
「よいか下僕。この世界では火を起こす時、人間ならどうやって起こすのじゃ?」
「そりゃあ、マッチとかライターとか使って――」
「魔界では違うのじゃ。全ての事象は魔力と呼ばれる絶対の力をもって起こされる――それが
俺の理解力のなさに居た堪れなくなったのか。それまで退屈そうに畳の上を転がり回って見せていたマキナが口を挟んできた。が、そのおかげで魔法の輪郭が見えてきた。
「つまり、その魔力ってのをマッチの代わりに使って火を起こすのが魔法。そういうことか?」
「そうじゃ」
再び畳の上を縦横無尽に転がり始めながらマキナは力強く――それは見事なまでに力強く返してきた。どうしてだろうか。すごくムカついてくるぞ。
「ありがとうマキナ」
そう言うと橘はマキナの方へ白い何かを投げ渡した。
「マッシュマッロ、マッシュマッロ」
小さな両手で投げれた白いもの――マシュマロを掴み取ると、マキナは歌うようにそれの名を独特なイントネーションで口ずさむ。その瞬間。もはや主としての威厳など、俺の中では皆無になった。
そして、その様をいと愛らしく見守ってらっしゃる橘。今朝のことで勘付いていたが、どうにも彼女はマキナのあの姿にご執心のようだ。
「あのさ、話を戻してもらってもいいか」
「はっ――ど、どこまで話したっけ?」
「……魔法とは何かって部分だよ。無駄に説明させてる俺が言うのは難だけどさ、あのちびっ子。そろそろ外に出さないか?」
「こら下僕。主人に向かって――」
「アホくさ」肘を着いて寝そべるリムルがそう呟いた声がした直接。扉をノックする音が響く。そして。
「朱莉様。お夕食の準備が整いました」
扉を開けて姿を見せたのは、テレビやなんかでよく見るフリルがふんだんにあしらわれた物とは違う。本物の人たちが装うと思しき地味な使用人服に身を包んだ長身な女性だった。
橘よりもやや明るめな赤い髪は後ろでまとめ上げられているようで、銀色の眼鏡のフレームに掛かる左右の髪は細い二本の束を残すのみである。前髪の方も目に掛かるか掛からないかの所で切り揃えられている。
切り細く見えるがキツすぎない目はマキナ同様に紅く、色白な肌も然りである。さもすれば。
「魔族、なのか」
「紹介が遅れたわね。彼女はメア、私と契約を結んでいる使い魔なの――」
「メアっ?!」
すると突然。マキナの上げる驚嘆の叫び声が室内に響き渡る。相当にうるさいが、その声色がどことなく嬉し気に聞こえるのは気のせいだろうか。
「お、お嬢様っ?!」
次はメアが驚く番だった。しかしそこは見た目通り。驚きの具合も叫ぶ声も、程々に控えめである。だが。
「知り合いなのか、マキナ? それにお嬢様って」
「その説明は
マキナの方へ振り返った直後、すぐ背後からメアの落ち着いた声色がそう告げてくる。いつの間にここまで上がって来たのだろう……。
「お嬢様には魔界にいた頃。身の回りのお世話から相談役、ひいては人肌恋しい夜のお供まで――何から何までご奉仕し尽くして致しました」
頬を赤らめながらも雄弁に語って見せる。
「夜のは置いといて……詰まる所、マキナの使用人だったってことなのね?」
「ええ。私は
魔族ってのはやはり。どこか一癖ある連中がその殆どであるのだろうか。いや。そこはさすが魔族、とでも言うべきだろう。
「それにしても――使用人が付いてたってことは、あっちじゃマキナは金持ちだったのか?」
その刹那。俺以外の人間――もとい。人間と魔族たちが一斉にこっちを見開いた目で捉えてくる。
「君、それって本気で言ってるの?」
「へっ……?」
橘が引きつった形相でこちらを見てくる。
「マスター。
マキナが魔姫と呼ばれる魔族なのは分かっていた。が、その名がどんな
確かに言われてみればその節は多々あった。最初にマキナを目にしたリムルの驚いた顔。そして何より、始めから今に至るまでの偉ぶった態度。それが所以だったのか。しかし。
「だから?」
俺が認識しているマキナは、偉ぶっているものの内面は今の見た目の通り幼い子供。正直に言ってしまえば主の威厳などは皆無なのだ。
「どうせ魔界でだってメアに全部任せて、自分じゃ何にもしない――」
急速に視界が動いた――いや。左の頬に鋭い痛みがある。俺は今、誰かに
「ちょっとメアっ?!」
橘の取り乱した声が聞こえる。どうやら叩いたのはメアらしい。が、何故?
「いきなりのご無礼は詫びます。ですが、そのようにお嬢様を蔑んだ……いえ。愚弄する発言、如何に誰だろうと許せません。ましてや、あちらでのお嬢様をよくお知りにも――」
「メア。それ以上はよい」
「ですが――いえ。失礼致しました」
跳ねる心臓を持ち合わせていないのが幸いしてなのか、俺は驚くほどに冷静だった。そして、酷く冷静なまでに視界の中央に捉えるマキナの表情を観察していた。
そこにはもう、俺の知るマキナは居なかった。
◆◇◆◇
夕食後。中途半端なままに終わってしまった小会議が再開されることはなかった。
離れに居づらくなった俺は今でもその広大さに慣れない庭に出て、すっかりと頭上に昇った三日月をボンヤリと眺めていた。
「ここに居ったか。妾の断りもなく独りで月見とは……つくづく許し難い奴よな、下僕」
一番に会いたくなかった奴に見つかってしまった。いやしかし。マキナも同様だろうに、それなのにどうしてこいつはここへ?
「あの、さ。さっきはその――」
意を決して声の方を向く。するとそこに居たのは“出会った時”のマキナだった。服こそ橘から借りたであろう洋服だが。
トレーナーにプリントされる黒いウサギの刺繍は明らかな胸の膨らみによって変形し、白銀の長い髪はその黒地の上でますますに映えて見える。下の方は履いていないのか、それも裾丈の長いトレーナーがももの途中までを隠していて定かではない。
トレーナーの裾から伸びる白くて細い脚がこちらに向かって歩みを開始する。
「どうした。妾の姿に改めて見惚れたか?」
「怒ってないのか?」
「憤る? 妾が?」
普通はあそこまで言われたらメアがそうしたように憤るもの。しかしマキナは意外そうな表情を向けてくる。
「その必要はないだろう。メアが――あの優し過ぎる阿呆がその任を負ってくれたのだぞ。その上で妾が憤っても見ろ。それこそ、手を痛めてまで代わりを務めたメアに申し訳が立たぬではないか」
のお。そう言って微笑んでくる。
俺は測り誤っていた。目の前の魔姫はその名に違わぬ――いや。それ以上に上に立つ者の器であるのだ。
それこそ、俺なんかが気安く罵っていいような存在ではない。
「ごめん――いや、申し訳なかった、です」
「よせよせ、今までの態度でよい。今更に改められてもむず痒さに困るではないか」
「いや、でも――」
「嗚呼は言ったがの。こちらに来てからの僅かな時間、妾は少しばかり気が楽になっていたのだ下僕。お前たちの礼儀を
また笑う。が、今度のは苦さを噛み締めたような微笑み。
「あっちでのマキナは――」
「勘弁してくれ。自分の醜態を語り聞かせるなど……流石の妾もそっちの気まではないからの」
やはりそうだ。夕食前に覗かせた俺の知らないマキナの顔。あの一切の感情を排したような表情は“あっち”にいた頃の彼女のものなのだ。
けれど、それを知る権利を俺は未だ持ち合わせてはない。いや。一生そんな権利を保有することはないのかもしれない。もしそうだとしても。
「なあマキナ。俺、決めたよ」
「急にどうした。何を勝手に決めよったのだ?」
「俺さ、お前について行くよ。何があっても」
するとマキナの動きが一瞬だけ止まる。そして。
「そうか――いや違うな。当然だろう下僕」
またしても始めて見る表情を浮かべてくる。
月光の怪しげな色味に染められるその顔はとても美しく。また、少女の持ち合わせる可愛らしさも備えていた。
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