暮れの刻

 朝以来の居心地の悪い空気に耐え切れずになっていた頃。ちょうどリムルが戻ってきたのだった。

 両手を広げた程の大きさをする青い翼を仕舞うと、リムルは眉を潜めた複雑そうな表情で告げてくる。


「なに、あれ?」


 間の抜けた、そんな声色である。


「なにがあったの?」

「いや何て言うか……見たまま説明するとさ、人間と魔族の女が男を取り合ってるって感じ、かな」


 苦笑を漏らしながらも何とか説明を終えると、リムルは最後に「アホくさ」と頭を掻く。

 その感じから見て、どうやら気を張る必要もないのだろう。橘の表情からも緊迫感が薄れて見える。


「よく分からないけど、放っといて問題はないみたいね」

「ホント、人騒がせにも程があるっての――」


 しかし、そう言ってリムルが両手を挙げながら身体を伸ばそうとした時。


「そういえばエロバカ。その服、私のじゃないわよね?」

「あ……」

「ちょっと後ろ向きなさい」


 固まった表情のままリムルがゆったりと踵を返す。

 肩甲骨付近に空いた二つの大きな穴からは白い肌が見える。恐らくは翼を生やした際に破いてしまったのだろう……。




 昼休みになってすぐ。いつもの二人が俺の席へ駆け寄ってくる。すっかりと馴染みの光景である。


あゆむ、早く行くぞ」

「急がば回れ、だよ」

森咲もりさき。使い方間違ってる」


 昨日までと何ら変わりないやり取り。

 昼休みになれば戦場と化す購買部へ赴こうというのに俺の心は安まり、穏やかな気分に至ってしまう。


 先行する二人に続いて教室を飛び出した時、ふと隣のB組の方へ視線が向かう。と、そこで橘があの後すぐに早退したことを思い出す。

 橘には悪いがリムルの身を案じてしまう自分がいる。あれだって有事の際の何とやら――制服に穴が空いてしまったのも、謂わば事故みたいなものだ。

 自然とあいつの肩を持とうとしているのはやはり。マスターの自覚が出てきたからなのだろうか……。


「くっそー。今日はスタートダッシュ決まらず、か」

「策士策に溺れる……自業自得、ってやつだね」

「森咲、今日はヤケに難しい言葉を使ってるみたいだけど、どうかしたのか?」


 誰に指示されたわけでもないのにすっかりと一人ずつの列を成している生徒たちの、その最後尾に加わりながら前にいる森咲へ尋ねてみる。

 茶髪のくせ毛頭がくるん、と旋回する。するとすぐに大きな黒い瞳が俺の方を見返して一言。


「昨日から本を読むようにしたんだ」


 曇りのない。純粋な目だ。


「へえ、どんな本なんだ?」

「辞書とか広辞苑とか、とにかく難しそうなのっ」


 このまま小学生――いや。幼稚園児に紛れても分からないのではないか、そんな屈託のない笑みを浮かべてくる。

 そんな森咲の向こう側に立つ圭介が、さぞ楽し気な表情で無言のままジェスチャーを送ってくる。

 伸ばした人差し指をこめかみへ向け、次にそれを回す。要するに「頭ん中が狂っている」とでも言いたいのだろう……。


「オススメだよー。歩も始めてみたら?」

「あ、ああ。気が向いたら、な」


 どうしてだろうか。どうしてこうも森咲はどこか他人とズレた考えを導き出してしまうのだろうか。

 根はいい子――いや。茎や葉、そして花弁の一枚に至るまでいい子なのだが。どうにも知能の方は手のつけられない問題児らしい。


「――はい。兄さんの方こそ気を付けて……うん。それじゃあまた家で。うん。バイバイ」


 不意に背後から電話をしていると思わしき少女の声が聞こえてきた。その声は俺のすぐ背後で途絶える。チラと後ろへ目配せして見るとそこには、紺の長い髪を右の耳へかけ直そうとしている女子生徒の姿があった。

 限りなく黒に近しい深い青色の瞳はパッチリと猫のようで、鋭さと愛らしさを同居させている。そんな目のせいか、顔に備えるその他のパーツは一様に小さく見えるが、どれも整っている。


「あの、何か?」

「あっ、何でも」

「そうですか」


 先の電話していた時とは比べようのない冷めたトーンの声。アカの他人なのだからそれも普通だろう。それもジッと見られた後にもなれば不機嫌さを伴うのは至極当然。

 しかし、何故だろうか。素っ気のない言葉に見え隠れするのは不機嫌さというよりは――無関心。まるで道端の石ころとでも話しているような印象を覚えてしまう。


「どうしたよ歩?」

「いや……」

「あれ。水戸みとさんもパン買いにきたんだー」


 目の前の森咲の顔が一層に明るくなる。そして。


「あ、笑実えみちゃん。今朝は兄さんのお弁当を作ってたら自分の方に手が回らなくなっちゃったの」


 水戸と呼ばれた先程の少女も微笑みを見せながら柔らかな声色で返す。どうやら二人は顔見知りのようである。


「ホントに水戸さんってお兄ちゃん想いだよねー。内助の功、だねっ」

「森咲、違――」

「そ、そんな……内助だなんて」


 すると急に少女は紅潮し始めて両手で顔を覆う。どういうわけかは分かりかねるが、どうも妙な子だ。


「森咲、知り合いなら場所変わるぞ」

「うん。あっ――」

「大丈夫。カレーパンは買わないから」


 なら、と森咲と場所を入れ替える。


「なんつーか、俺たち以外と森咲が話してるのって新鮮だよな。しかも、けっこー可愛い子だし」

「まあ、そうだな」


 だが、それ以上に俺は先刻感じ得た少女の無関心さの方が気になって仕方がなかった。




 覚えたての帰路を辿った先に待っていたのは、墨色の門に背を預けた状態のまま腕を組んで閉眼している橘だった。遠目からでも分かる。あれは完全に憤っている。


「た、ただいま。こんなとこで、どうかしたのか?」

「待ってたのよ」


 その姿勢のまま片目を開いて告げてくる。


「待ってた?」

「そう。今この家の周りには強力な魔法結界が展開されてるのよ。どこかのエロバカが勝手に出てこないようにね」


 やはり昼間の件を引きずっているのか。


「何も閉じ込めることないだろう?」

「あのね。別に内側の連中を閉じ込める為だけの結界ではないのよ。外部からの侵入にも対応してるの」


 嗚呼なるほど。わざとらしく手を叩いてみる。


「右手を出してくれる?」


 そう促されるままに右手を差し出すと、橘の細っそりとした指がそれに触れてくる。

 こちらの手が熱を帯びているのかそれとも、彼女の手が冷たいのか。右手の甲を這う指は氷のようだ。


「なにしてるんだ?」

「通行証を――ね」


 瞬間。つねられるよりも少しだけ強い痛みが走ると、橘の指は離れていく。一転。次いで甲に訪れるのは熱した鉄を押し当てられたような鋭い熱さ。


「あっつ――!」

「すぐ収まるわよ……というより――」


 甲に浮かぶ円形の模様が薄れて行くのを見ていると、ふいにその向こう側で浮かない表情――戸惑いがちに目を伏せる橘の顔が見えた。


「あなた、どうしてそんなに手が冷たいの? ううん。冷え症とか、そういう次元の冷たさでもない……まるで」


 困惑の表情は、次第に驚嘆へと変わる。そして。


「死んでるみたい」


 瞳には恐怖の色味が混じり出す。

 どういったものか。橘は俺とマキナが交わした“契約”のことを未だ知らない。彼女は未だ、俺が人であると思っているのである。

 昼間に訪れた“あの感覚”が再び目覚めようとしている。


「あのさ、俺――」


 僅かな沈黙を経てようやく俺が口を開かせると、橘は肩をビクッと震わせて見開いた、茶けた瞳で見つめてくる。

 察しがついているのかは分からない。でも、俺の口から直接告げなければならないのだろう。だから。


「あの女――マキナの使い魔になったらしい」


 瞬きをした次。暮れ始める夕陽に溶ける橘の紅色の髪が揺れたのが見えた。

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