プロローグⅣ

 ――ドクンッ。


 一刻。そしてまた一刻。規則正しいリズムで脈打つ自分の鼓動を“視認”する。異常だ。言わずもがな、そんなのは常軌を逸している。


「ほれほれ、立たぬか下僕。そのまま怠惰を決め込むというのならこの心臓、今すぐにでも握り潰して見せても良いのだぞ?」


 妖艶――いや。この際、その表情は狂い笑いと称して違わないだろう。そいつは歪んだ笑みを浮かべながら徐々に心臓を握った手に力を込め始める。

 細い指の隙間から赤黒い肉がはみ出るのを見た瞬間。耐え難い苦痛が俺を悶えさせる。


「あっ――がっ?!」


 文字通りに胸の内を締め付けられたような感覚。それは息苦しさにも似ている。


「ほれ、立つ気になったか?」

「あ、ああ……は、はやっ、く……」


 鼻で笑う声がすると息苦しさは遠退く。すると、半ば脅迫観念に突き動かされる形で機敏に身を翻してから立ち上がる。まだ整わない荒んだ呼吸音が耳に聞こえ、皮肉にも自分が生きていうのだと実感する。


「やればできるじゃないか」


 嫌に涼し気な物言いを浴びせられる。

 それにしてもこの女はいったい何者なのだろうか。それ以前に何故、俺の心臓を――あっ。


「俺……なんで生きてんだ?」


 胸に手を当てがってみるが、やはりそこからは鼓動を感じ得ない。誇張ではなくて本心から卒倒してしまいそうになる。が。


「安心せい。わらわがお前を不死族アンデッドも同然の身体にしたのだ。その為にこの心臓を抜いたまでのこと。何も取り乱すようなことはないだろ?」


 至極。それはもう、とてつもなく当然のことであるかのように告げてくる。

 不死族の身体、その為に心臓を抜いた?


「お前、なに言ってんだよ? 訳わかんな――」

「お前? 誰に向かっての言いぐさだ?」


 さっきよりも更に強い息苦しさ。いや。今度は確かな痛みすらも伴っている分、先とは比べ物にならない程に耐え難い。

 またしても膝が折れそうになった時。乱暴な手つきで髪の毛を掴まれ、そのまま倒れることを許してはくれない。しかし、幸いなことに胸の苦痛が頭皮の痛みを曖昧にさせてくれる。


「自分の立場を理解できていないようだから、今回ばかりは許してやらんこともない。だがもし、次に妾をお前呼ばわりした時は……分かるな?」


 眼前に向けられる女の左手が否応なしに頷くことを強要してくる。どうやらこの女の前では俺の意思など、あってないも同然のようだ。

 何せ言葉のまま、命をその手に握られているのだから。


「やはり人間風情。手懐けるなど造作もない」


 主従関係が明確になり満足したのか、ようやく頭皮の痛みが鮮明になる。が、それもすぐに治まる。

 膝が畳の上に着いた俺は胸を摩りながら立ち膝をした状態のまま女の顔を見やる。


「ふん。すっかりと良い顔つきになったではないか。そこでだ下僕、お前にさっそく最初の仕事を命じてやろう」


 優美な面持ちを取り戻した女は白い両腕を組みながら顎をクイ、と動かす。その動作に促されるまま腰を回して後方へと視線を向かわせる。

 移ろう焦点が定まると、俺は思わず息を飲んだ。


「下僕。あの女を助けたいか?」


 女が告げてくる“あの女”とは――橘だった。

 綺麗に開けられた壁の大穴の先に見える庭先で橘は、淫魔の黒い尾で首を締め上げられていたのだ。細身な身体は地面から僅かに浮かび、尾を振りほどこうとしている両手は今すぐにでも事切れてダラリと垂れてしまいそうに見える。


「た、橘っ!」


 居ても立ってもいられずに駆け出そうとすると。


「待て」


 女の短い叫びがそれを制してくる。


「妾は助けたいかどうかを聞いたのだ。助けろ、なんて一言も――」

「そんなこと言ってる場合かっ! 早くしないと橘は――ぐっ?!」


 だが。それ以上の発言は許されないらしい。

 それでも今は――今だけは悶え苦しんでいる場合じゃない。


「ぐっ……いか、せろ」


 歯を食いしばり、挫けそうになる膝を何とか持ち直させる。


「ほお……そこまで大切な女なのか」

「はぁはぁ……たのむ、いかせ、ろ」


 爪が食い込むが、構わず胸を掴む。そうでないと意識が遠退きそうになってしまう。


「わかった……だがそれは下僕、お前では役不足というものよ」


 不意に胸の苦しさが止むと、女は愉快そうな笑い声を漏らしながら俺の傍を通り過ぎる。


「お、おいっ」

「案ずるな。お前はそこで“主”の力が如何に強大な物かを見届け、そして目に焼き付けておればよい」


 華奢な背中が大胆にも露わになるデザインの黒いドレス、そして白銀の長髪を夜風に靡かせながらゆったりと進んで行く。

 美しさ。その様はまるでその言葉を体現しているようにも見える。が。全身から漂う例え様のない黒ずんだオーラとも呼べる雰囲気からは、言い知れぬ恐怖すらも覚える。


「随分とまあ、こっちでは強者を装うではないか――淫魔?」


 壁の大穴を抜けたところで女がそう告げる。


「なっ……どう、して」


 歩き進める女の背の向こうに見える淫魔の表情が凍り付く。橘を締め上げていた尾がその拍子に緩んだのか、それから解放された橘は苦し気な咳を漏らしながら地面にへたり込む。


「どうした。先の弱者をなぶる愉悦に浸っていた表情がなりを潜めたようだが……何か問題でも生じたか?」


 やはりこの女、相当に意地の悪い性格のようだ。

 何故かは分からないが淫魔が可哀想に思えてきたぞ……。


「くっ、こんなの聞いてないわよ――」


 そう言うと淫魔は、瞬時に背中から青い翼を生えさせて飛翔し始める。が。


「ふん。この妾を前にして逃げられるとでも思うたか?」


 羽ばたきで生じた突風で激しく揺さぶられる髪を手で押さえながら女が告げると、その言葉が言い終わるよりも早く淫魔の悲鳴が降ってくる。

 何事か、と俺も壁の大穴を抜けて上を見やる。

 そこには紫の閃光――もとい。電流にも見える何かを全身に纏いながら空中で身をよじらせる淫魔の姿があった。


「な、なに……を?」


 白い煙を上げながら弱々しく地面に舞い落ちてきた淫魔が、ガクガクと震える両足でなんとか踏ん張りながら女を睨む。しかしながら女の背は、そんな睨みなどは意に介していないようで微動だにせずに佇む。


「障壁だ。それこそ、帝魔ていまクラスでないと突破できぬような代物よ」


 よくは分からない。けれどその自信に満ち足りた物言いを聞くに、どうやらこの淫魔は逃走が不可能になったのだろう。


「さて、と……妾は淫魔、お前程に弱者を嬲る趣味の悪さなど持ち合わせてはないのでな。これで終わらせるぞ」


 組んでいた腕を外すと右手を夜空にかざす。次の瞬間。

 もはや、どういう原理で行っているのかすらの推察も馬鹿げた行為に思える光景が広がる――かざした先に現れた紫色の光を帯びた魔法陣からゆっくりと剣が降りて来たのだ。

 その大仰な演出にしてはやや飾り気のないように思える剣は、金色の鍔の部分に大きくな紫の宝玉をはめ込まれただけの普通の剣に見える。しかし。


「覚悟は良いな?」


 直後に淫魔の足元の地面から飛び出してきた黒光りする無数の鎖が弱り切って見える彼女の手足、そして翼や首に巻きつく。

 どうやらあの剣の取り出し方の大仰さは囮なのだろう。本命は淫魔を拘束した鎖の方。これで完全に相手は詰んだ。どこまでも抜かりがない。


「くそっ、くそっ」

「最後の最期まで見苦しいな……のお、下僕?」


 横目で合意を求めてくる女。だが――醜悪だ。こんなのは。


「な、なあ。もういいだろう?」


 そんな考えが過り、俺の口を突いて出た言葉はそれだった。


「……おい」


 当然、気に障ったであろう女が体ごとこちらへ振り返る。

 出会ってから初めて向けられる明らかな敵意の眼差し。その真紅の眼光を見返すと左手に持つ心臓を握られたわけでもないハズだが、妙な息苦しさを覚える。


「どういうつもりだ、下僕」


 だが、もう言い放ってしまったのだ。例え心臓を握り潰されようとも、退くわけにはいかない。

 いや。それよりも何より、俺には許せなかった。


「こんなやり方、間違ってるだろ? あんたはさっき、自分で言っただろっ! 弱者を嬲る趣味なんてないって」


 あの時、俺は確かに感じたんだ。カッコイイ、と。


「それが何だよ。逃げようとする相手を閉じ込めて、終いには弱ってる相手を拘束までして怯えさせて、こんなの弱い者イジメが過ぎてんだろっ!」


 自分の声の反響が終わると、しばらく静寂が続く。


「弱い者イジメ……か」


 何かを確かめるようにして呟くと先の鋭さを失った紅い目が下を向いてからもう一度、俺へ向けられてくる。


「ならば、どうすればいい?」


 弱った。こんな展開は予想していなかった。


「え、いや……まあ、なんていうか――」


 その時、潤んだ目を向けて来る淫魔と目が合った。

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