プロローグⅢ

 「離れ」と聞いて想像したのは小さな小屋のような物だったのだが、そんな想像はいとも容易く打ち破られた。玄関から庭先へと回って連れられた先で見たのは、それはもう立派な一軒の家屋だったのだ。


「こういうのってさ。別館とかっていうんじゃないのか?」

「どうだろう。おばあちゃんは離れって呼ぶから、私もそう呼ぶようにしてたけど……違うの?」


 正直、俺もよく分からない。こんな次元の違う世界のことなんて知らない。


「まあいいや。早いところ終わらせましょうか」


 目の前にそびえる一軒家・・・を呆然と眺めている俺に構わず、たちばなはさっさと戸を開けて中へ入って行く。魔法使い云々は抜きにしても、やはり橘とは住む世界が違うのだ。改めてそれを痛感する。

 戸を抜けた先はすぐに段差になっており、橘が履いていたと思しき革靴が揃って置いてあることからここが下足場になっているのだろう。

 やはりそこは離れ。本館の方の玄関に比べたらやや粗末に見える。どうやら早くも感覚が麻痺してきたようだ。


「ほら。早く上がってきて」


 奥の方から急かす声が聞こえてくる。促されるまま下足場から視線を上げるとすぐに、雑多に積まれた段ボールの山やらポリ袋の群れが目に入る。

 段差を上がって奥に進む際にそれらを覗き見てみると、ポリ袋の中には衣服やらオモチャが収まっているのが伺える。どうやらここは物置の代わりとして使われているようだ。


「ここ、家賃払ったら住めるかな?」

「え?」


 荷物の山を抜け辿り着く畳が敷かれる広い空間で先に待っていた橘に向かって思わずそんなことを聞いてしまうと、返ってきたのはやはり困惑だった。


「それより、準備して」


 生活水準の格差に戸惑っている俺を横目に、橘は胸のリボンを外してそれを床に放る。そしてあろうことか、次いでブラウスの第一第二とボタンを外し始めた。


「なっ、ちょっと待て!?」

「な、なに?」


 いや。なんでそっちが意外な顔をするんだよ。


「何をし始める気だよ?」

「何って――あ、ばっ、ばかっ! なに変な想像してるのよ?!」


 開けたばかりのブラウスのはだけた部分を手で押さえると慌てて背を向けてくる。隠すくらいなら最初から外さなければいいのに。


「これは別にそういう意図でしてる訳じゃなくて、ただ単に楽な格好になる為よっ」

「だ、だよな」

「もちろんよ……まあ、私も配慮を欠いてたけど」


 そう言って向き直ってくる橘。どうやら第二ボタンを止め直したようだ。

 まだ少しだけ自分の心臓の高鳴りを感じる。さすがに俺だって男なのだ。少々の期待やらはあったのだ。恥ずかしながら……。


「それはそうと……これからいったい何をするんだ?」

「あれ、言ってなかったかな――君の使い魔を召喚するのよ」


 使い魔に召喚。何やらファンタジーな雰囲気がますます強まってきた。しかしながら、目の前の魔法使いの目は平静も同然である。


「いまさら理解が追いつかないのはいいとして、使い魔ってのは何なんだ?」

「うーん……一言でいうなら味方してくれる魔族ってところかな」


 なんとなくのイメージは掴めた。が、そうするとある疑問が浮上してくる。


「それじゃ、俺を襲った淫魔とかいうのは――」

「あいつは他の魔法使いが召喚した使い魔よ」


 やはりそうだ。魔法使いは橘の他にも存在する。さらに問題なのは、その他の魔法使いが決して友好的な存在ではないということ。

 現在までに知り得た情報を整理して導き出されること。それは――魔法使い同士が何らかの理由で争っている、ということだ。


「あのさ、どうして魔法使い同士が争っているんだ?」

「察しが良くて助かるわ。けど、それは魔法使いではない君には教えられないことよ」


 笑顔から一転。橘の表情は険しくなる。

 まるで「ここから先は踏み込むな」と忠告して来ているように思える。けれど。


「俺はもう巻き込まれている。それに死にかけたんだぞ。それでも――」

「だから使い魔を召喚するの。これ以上、こっちの事情で巻き込まないようにする為にね」


 怖い程に真剣な眼差し。これ以上はもう、踏み込めないらしい。


「分かった。その召喚とやらをするのに、俺はどうすればいい?」

「ありがとう。……契約者の証として少量の血が必要なの。少しだけ指先を切ってもらうだけだから、そっちの方の心配はいらないわ」


 俺が橘たちとの距離を縮めることを断念すると、ようやくその顔に笑みが戻ったのだった。



 呪文と称するべき小難しい言葉の羅列を橘が唱え始めると、室内の空気が素人目で見ても変容して来ているのが分かる。うまくは言えないがどこかピリついた空気だ。


「魔陣の属性は招来。招き、呼び寄せるは魔なる法則を使役する者。招く来訪者は魔なる世界の住人――」


 橘が手を据えた先の宙に浮き出る魔法陣は赤く発光し、まさに漫画やアニメのワンシーンを目にしているような気分だ。

 呪文が佳境に差し掛かろうとしているのか、次第に魔法陣を中心に発生する風が強まり橘の長い髪が激しく揺さぶられる。


「――我の呼び掛けに応えよっ!」


 力強い叫び声が聞こえた瞬間。魔法陣の赤い光が室内を覆い尽くした。

 眩さから目を閉じてしまった俺が再び目を開くとそこには――何も居なかった。


「……た、橘?」

「あ、あれ?」


 向かい合う橘は右手を前に突き出したまま小首を傾げて苦笑を漏らす。当然のごとく良くは分からないが、どうやら失敗してしまったようだ。

 そして居心地の悪い空気がこの薄暗い空間に漂い始める。


「召喚の魔法に失敗とかってあるのっ?!」

「いや。俺に聞かれても……」


 そんな空気を強引に蹴破ったのは橘らしからぬ、酷く取り乱した絶叫。


「呪文は完璧だったし魔陣もしっかり描けてた……」


 目線を下に向けながら何かをブツブツと呟き始める橘。どうやらこの失敗は自分の中ではあり得ないことだったらしい。分かり易く動揺している様が見て取れる。


「ま、まあ。失敗ってのは誰にでもあるさ」


 しかし。その言葉が届いていないのか、なおも橘は一人の世界に入り込んでしまっている。

 どうしたものか。頭を掻こうと右腕を上げた瞬間だった。


「さっきはどうも――ねっ!」


 何者かに挙げた方の腕を掴まれたと自覚してすぐ。耐え難い痛みが全身に駆け巡り、不快で耳障りな“あの音”が鼓膜を震わす。


「――っ?!」


 瞬間的に訪れた激痛が俺の喉を締め、絶叫だったモノは空気の漏れる音のみに変わる。


「ねぇ? 痛いでしょう、腕を折られるのって」


 涙で歪んだ視界を声の方へ向かわせると、そこにはあいつ――淫魔の浮かべる妖艶な笑みがあった。


「おっと」


 唐突に右腕が離されたようで、力どころか痛みで感覚さえもないそれが膝と同時に畳の上に打ち付けられる。

 いっそ死んでしまった方が楽になれるのではないか、そんな痛みが俺の脳髄を焼き切らんとする。


「あああぁぁぁぁっ!?」


 獣の咆哮――いや。それは自分の上げた叫び声。

 次いで聞こえるのは背後から聞こえる何かが崩れた音。しかしそんなこと、今はどうでもいい。


「君っ!」


 駆け寄ってきた橘が膝を着いたまま額を畳に擦り付ける俺の左肩を掴み、上体を起こそうとしてくる。


「あ、ああ……腕がっ、腕がっ」


 痛みは無慈悲なまでに思考を鮮明にさせる。が、身体の機能は著しく低下させてくるようで、その手に促されるまま起き上がろうにもどうも上手く動けない。

 右腕から絶え間無く発せられる痛みの電気信号が他の機能を阻害しているのか、そんなことばかりを考えてしまう。いや。俺は何を言っているんだ?

 もう分からない。痛い。酷く痛い。助けて。誰か助けて。嫌だ。耐えられない。いっそ殺してくれ――そこで意識は断線した。



 ◆◇◆◇



 ――それにしても酷い醜態だ。


 誰かがそう言う。誰だ?


 ――いっそ、そのまま死に絶えたらどうだ?


 それはいい、とケラケラ笑い声を上げる。誰が?


 ――いつまで寝ておる気だ?


 誰なんだ?


 ――わらわを呼び出しておいてその言いぐさか。


 誰も呼んだ覚えはない。人違いだろう。


 ――いいから目を覚ませ、下僕・・



 誰かに頭を叩かれた痛みで意識が覚醒した。それはいいのだが、それよりも拭えぬ違和感が唐突に脳内を駆けずり回る。

 痛み。そうだ、右腕は――しかし。


「痛く、ない?」


 それどころかしっかりと動かせる。いや。むしろ骨には何の異常すらもない。


「どうなって――」


 うつ伏せになった身体を起こそうと目線を前に向けると黒い布地のスカートが目に入る。それは異常に丈が長く、畳の上に放射状の広がりを見せているのだ。


「目が覚めたのなら早く立たぬか、下僕」


 若い女性の声だが聞き覚えはない。橘でも、ましてやあの淫魔でもない。ちょうど両腕を伸ばしたところで首を反らして声の持ち主を見上げる――そこには絶世の美女がいた。

 俺を睥睨するように見下されている二つの紅い眼。色白だが不健康さは感じない、まさに透き通るような肌。両肩から垂れる髪は神々しいまでの白銀色。


「誰、だ?」

「妾は早く立て、とそう告げたハズだが?」


 不機嫌そうな声色で告げられた直後。心臓を鷲掴みされたような苦痛を覚え、思わず伸ばしていた両手が挫けて顎を強打した。


「痛ってぇ――っ?!」


 そのまま仰向けになる。と、視界の中に妙な光景が映り込んでくる。

 女性の痩身な腕の先。綺麗な五指が掴むのは、絶えず一定の感覚で鼓動を打つ赤黒くて生々しい肉塊。形状からしてそれは――心臓だ。


「な、なんだよ、それ?」


 すると。女性は綺麗だった口元を歪めて笑みを浮かべて言う。


「下僕。お前の心の臓だ」


 ――ドクンッ。


 俺の耳は確かに体外から聞こえる自分の鼓動を聞いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る