プロローグⅡ

 耳障り――そんな言葉すらも生温い。それはもっと、不快で耐え難い“声”だ。


「痛いっ痛いっ痛い――」


 淫魔の右腕が唐突にひしゃげた瞬間。醜悪な叫び声が俺の耳を襲う。が、それと同時に首の圧迫感からも解放された。


「げほっげほっ……」


 後ろに倒れこむようにして倒れた俺は、すぐ後ろにあった壁にもたれるようにしてそのまま腰を落として行く。


「てめぇこのガキ、何をっ?!」


 先までの妖艶さと余裕を失った淫魔が俺を見やり声を荒げると、その背後から突如として“たちばな”の姿が出現する。

 予め橘の姿に造形しておいた透明なガラス細工に着色を施したかのように鮮明になった彼女は、目の前で片膝を着いて痛ましく変形した右腕に逆の手を添えるソレに一瞥いちべつを下す。


「こっちよ。淫魔さん? それともエロバカ、って呼んだ方がいいかな?」

「なんだと――」


 憤慨を露わにする淫魔が振り返ると、そこで動きが止まる。


「な、なんで生きて……?」

「逆に聞くけど、あの程度で私が死んだと思ったの?」


 何の話かは分からない。が、なんとなく想像はつく。


「くっそ……必ず殺してやるからな、魔法使いっ!」


 次の瞬間、耳をつんざく轟音が響く。

 淫魔が屋上への扉を壊して出て行ったのだろう。扉が向こう側へ吹き飛ばされており、代わってそこには夕焼けの色に染まる屋上が見える。


「大丈夫?」


 ホッと息を吐いた俺が咳を一つ溢すと、扉の方を見やっていた橘が駆け寄ってくる――いや、誰だ?


「橘、なのか? それとも――」

「私は本物よ」


 先のことがあっただけに、その一言だけでは随分と心許なくも感じる。しかし、今の俺には目の前の見惚れてしまいそうな程に綺麗な微笑みを信じることしかできないのだろう。




 学校を後にした俺たちは近くの公園のベンチに座り肩を並べていた。


「それじゃなんだ。さっきのバケモノは魔族で、橘は魔法使いなのか?」

「飲み込みが早いみたいで助かるけど、ちゃんと理解してるの?」


 いや。正直に言えば理解なんて淫魔と対峙した瞬間から置いてけぼりを食らっている。

 しかし、あの苦しみは疑いようのない現実だった。


「実際に目の前にして、しかも危うく殺され掛けたんだ。嫌でも、ってやつだよ」

「まあ、そうね。当事者の私ですら戸惑ってるんだもん。君からしたら理解なんて遠に及ばないものよね」


 苦笑――いや。その顔は嘲笑だった。

 なぜ橘がそんな笑みを溢し見せたのか、俺にはそれを知る由もない。が、確かに目の前の橘が良くできた贋作ではなく、自分と同じく赤い血の通った人物であるのだと確信は持てた。


「話を戻して悪いが、魔法使いってのは何らかの造語か隠語なのか? それとも……」


 本当に言葉通りなのか。敢えて最後までは告げない。

 しかし。


「残念だけど、言葉通りの意味よ」


 やはり嫌な予感は当たる。八分程度は覚悟もしていたが、どうにも信じ難い。事実は小説よりも奇なり、とはよく言ったものだ。本心からそう思う。

 首を回して顔だけを横に滑らせるてみると、橘の顔は少しだけ紅潮の兆しが見え隠れしている。夕陽もなりを潜めた今となってはその赤らみも俺の勘違いではなく、ありのままの事実だろう。

 さもすれば橘は表向きではない自身の肩書きに関して快く思っていないどころか、どこか気恥ずかしさを覚えているのか。


「魔法使い――橘の年の頃だと魔法少女とかの方がしっくりくるかもな」


 試しに揶揄してみる。すると。


「君って意外と嫌な性格してるのね……助けて損したかも」


 やはり予想は的中した。

 言葉の方は繕っているのだが。声色と顔色。その両者の方は雄弁と内情を吐露してくれている。

 やや上ずった声。紅潮――いや。もはや赤面すらも通り越して耳までも真っ赤である彼女は、出会った当初よりも随分と人間味が増して魅力的に見える。


「悪い。今のは軽い冗談だよ。それにしても、橘もそんな顔するんだな」

「あのね……魔法使いだって人間よ? ちゃんと感情だって持ち合わせるし、心臓を抉られれば息絶えるの」


 極端な例を挙げてきた所を見るに、よほどあの冗談が気に障ったのだろう。それにしても「胸を抉られる」とまで表現するとは、相当である。


「魔法使いってそんなに恥ずかしいものなのか?」

「正直に言って、平然とそんなこと聞いてくる君が不思議なくらいよ。普通ならもっと茶化してきたりしない?」


 過去にからかわれた記憶でもあるのだろうか……少しだけ気の毒に思えてきたな。


「笑わない――違うな。笑えないんだよ、ただ単に」


 そう。すでに俺の世界には魔法使いと呼ばれる人種も、魔族なる人外の存在までもが実在するようになってしまったのだ。もはや他人事ではない。故に笑えない。


「なんかホッとしたわ。もう少し取り乱しちゃうかと思ってたから」


 はあ、と。ひとつ息を吐いてから橘は柔い表情を向けてくる。

 学校ではすれ違ったり遠巻きに視界の中に収めていただけだったのだが、改めて見るとやはり橘は学年でも群を抜いて可愛い。あくまでも俺の主観だが。

 猫のように冷淡でいて知的な表情ばかりではなく、今し方向けてくれた人懐っこい笑みまでも持ち合わせる。無自覚の内にそれらを使い分けているようだが、そうに見えても聡明な彼女のことだ。それすらも計算の内なのかもしれない。

 そのように底を測りきれない部分もまた、彼女の魅力を強めているのだろう。ともすれば、俺はいつの間にか術中にハマったことになってしまう。どうにも敵わない。さすがは魔法使いだ。


「どうか、したの?」

「あっいや、何でもないよ」


 見惚れていた、なんて自白するわけにもいかない。そう思って自然な動作を心掛けて正面へ向き直る。

 その直後。


「あっ……そうだ」


 何か思い出したかのように調子外れの声を漏らすと橘は続けて告げてくる。


「今夜、ウチに来てくれる?」




 魔法使いの居住する場所といえばついつい西洋風の洋館を想像してしまうものだが、橘の家は純和風の昔ながらの造りをした瓦屋根の平屋だった。かく言うも、敷地面積の程は一般庶民とはかけ離れているのだが。

 大仰なまでに威風漂う門を橘の後に続いて潜る。すると次に映るのは地面に大きな石が埋まって出来ている石畳みの道。そして脇にチラと見えるのは意外な程に小ぶりな池が左右に二つずつ。


「橘家って立派な家柄なんだな」

「あはは……そうでもないわよ。だってここ、おばあちゃんの家だから」


 歩き進めるまま横目を向けてくる橘は困った様子で告げてくる。

 いつもならば、他人の家の事情に踏み入るのは極力ならば避けるべきである。そう考えているのだが今回は事情が事情なだけに続けてしまう。


「実家ではないのか」


 できる限り気にも止めていないことを装って告げてみるが、橘の顔は前を向いたまま動かない。

 やはり不味いことを口にしたのか。居心地の悪い空気に肩をすぼめていると、木枠の玄関の前でふいに橘は歩を止めて振り返って告げる。


「私、両親がいないの」


 無表情――いや。何かしらの感情は確かに覗いてはいるのだが、それが何なのか分からない。悲しみ、寂しさ、鬱々。ひとつ言えるのは浮いた感情ではないことだけ。


「その……ごめん」

「別にいいわよ。君は知らなかったことなんだし」


 そう言って彼女は微笑んだ。それが偽りではないことを祈ろうにも、こんな時ばかり円滑に働く頭がそれをさせない。不本意にも思慮深くなってしまう。

 知らなかったこと。聡明で且つ人の気持ちを鋭敏に察することのできる能力を持ち合わせる橘はそう言うが、同じように相手の心を人並みに察することのできると自負している俺もまた、それが繕われた言葉なのだと理解してしまう。


「これからはもっと気を付けて言葉を選ぶよ」

「気にしなくていいのに……変なところで律儀なんだね、君って」


 先と比べたら非常に弱々しい笑みが向けられる。故に少しだけホッと胸を撫でおろせた。


「変わってるだろ?」

「ええ。とってもね」


 それから俺は橘に促されて家の中へと踏み入った。


 面を食らう。俺は生まれて初めてその言葉の真意を身を以て体感した。


「あら朱莉あかり。とっても誠実そうな彼氏じゃない」

「もう。違うってば、おばあちゃん」

「そんな照れなくてもいいのに、ねぇ?」

「え、あっ、はあ……」


 縁側に沿うようにして進む橘が障子を開けた先の和室で待っていたこの屋敷の主でもある彼女の祖母は、それなりの年の頃に見える外見とは裏腹に活力の溢れる――もとい。元気な人だった。

 まとめ上げた白髪をかんざしで結い、着ている和装の柄もどことなく派手に見える。こう言っては難だが、「如何わしい噂の立つ旅館の女将です」と紹介されても納得してしまう風貌だ。


「ご、ごめんね。おばあちゃん、少しだけお酒が入ってるみたい」


 本日一番の困り顔を浮かべながら小声で告げてくる。


「あ、ああ。大丈夫だよ」


 成る程。シラフでないのら幾分かはこのテンションに合点はいったのだから問題はない。


「そうそう、おばあちゃん。裏にある離れを使わせて欲しいんだけど、いいかな?」

「おやおや。ちゃんと避妊――」

「ああもうっ、違うってばっ!」


 慌てて両手を振り回す橘。かく言う俺も居た堪れず目を横へと背ける。

 すると。この一室だけで俺の部屋が二つほど収まりそうな間取りの和室の隅に置かれる漆塗りの棚の上に飾られた写真立てが目に入る。

 眼鏡を掛けた人の良さそうな男性と綺麗な顔立ちの女性が二人して微笑んでいる写真が収まっていることから、恐らくは橘の両親だろう。そう考えると、心なしか女性の方は橘に似ている気がしてくる。


「はいよ。用が済んだらここの上に置いといてくれればいいから」

「うん。ありがとう」


 どうやらこっちの方も話が着いたらしい。どことなく橘の顔に疲労が見えるのは気のせいだろうか……。


「それじゃ、行きましょうか」

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