4
あらゆる準備を終えて、ヒロマくんと約束した日になった。僕はホテルに先に入って、準備を始める。メイクをして衣装に着替え、持ち込んだ脚立を立てて登り、照明や設備を確かめる。
約束の時間になると、ヒロマくんがやってきた。時間ぴったりに来た彼は、このあいだ着ていた服装に、季節外れの長袖のカーディガンを身につけていた。帰るときに痣や傷がむき出しになることを見越して、僕が着てくるようにリクエストしたのだ。僕は脚立にまたがったまま、上から声を掛ける。
「鞄下ろして、服着替えて。寒かったらベッドの上にバスローブ置いてあると思うから、それ着てね」
彼は深く被った帽子を外し、マスクを取り去る。表情は堅く、緊張していることが伝わってくる。僕は脚立から降りて、タブレットで「アイの即興曲」を見返しながら、ヒロマくんに声を掛けた。
「準備ができたら、四ページ目から始めよう。目覚めた主人公が誘拐されたことに気づいて、椅子の上で暴れるシーンからだね」
ヒロマくんはボクサーパンツだけを身につけ、バスローブを羽織った。僕は彼の横に座り、彼が差し出してきた手首を取って、そこにベルトを巻いていく。アイスブレイクとして朝ご飯を尋ね、交通手段を尋ね、それから「緊張してる?」と聞いた。
ヒロマくんは引きつった笑みを見せる。「少し」
「そっか。ちょっとごめんね」
僕は椅子から腰を上げ、彼の首へ手を伸ばした。ヒロマくんは警戒して体を跳ねさせるが、僕はそれを気にせず、彼の右顎下あたりにそっと触れる。
「……たしかに、脈が速くなってるね。深呼吸して。もう少し体の力、抜ける?」
僕の指示を聞いて、ヒロマくんは鼻の穴を膨らませ、大きく息を吸って、ゆっくり吐き出した。それでも緊張は解れることなく、表情はこわばったままだ。
「大丈夫だよ。別に失敗したって死にやしないし。信じてほしいな」
「はい」
そう返事をしたヒロマくんの声は、はっきりとわかるほどに震えていた。完全におびえていることがわかる。
心配されていたことが、本当に起きてしまうかもしれない、と僕は思う。
ベルトをすべてつけ終えると、椅子に座るように言った。そして、コミックと見比べながら、ヒロマくんと主人公を同じ格好にしていく。足を折りたたみ、太ももと脹脛をテープでまとめる。閉じられないように足首をそれぞれ肘掛けにくくりつけ、両方の腕は背もたれの後ろに回してベルトで繋いだ。上半身が自由に動かせたので、胸と腹に縄を回して結ぶ。
最後に帯状のアイマスクを広げ、頭からかぶせた。前髪を巻きこまないよう、額から払ってアイマスクの外側へ出すようにする。
僕は半歩下がり、タブレットに映したコミックとヒロマくんを見比べ、忘れている物がないか確認する。つけるべきものは全部つけたはずだ。始めるよ、と声を掛け、出だしのセリフを口にする。
『目、覚めた?』
いつもよりも低くて、冷たい温度を意識して発声する。この後に、監禁されたことに気づいた主人公が、「なんだよコレ」「外せよ」と慌てる場面が続く。
しかし、ヒロマくんは呼吸を繰り返すばかりで、なにも言わなかった。
『今、自分がどうなってるか分かるか?』
とりあえず、ヒロマくんのセリフをスキップさせて続けてみる。すぐに中止の判断を出さず、もう少し様子を見てみる必要がある。
僕は手を伸ばして、彼の前髪をさっと払ってやる。それからコミックにはないけれど、顎下あたりに指を添えてみた。彼の脈はとても勢いがよく、熱い血液がどくどく流れている様子が指先でわかった。耳を澄ませてみると、歯が震えて、がちがち鳴る音もかすかに聞こえる。
もうこれは、芝居にならないと判断していいだろう。このまま続けても望んでいた結果を得られない。どうしたものか、と思案してると、「先生!」と鋭く呼ばれた。
「目、目外してください。はやく」
「なにかあった?」
「こわい、こわい、怖いんです。目だけ、目だけ外して」
これは演技ではない。僕はそう判断してアイマスクを頭から抜いてやった。黒色の生地の下から、涙を流して腫れた目元が出てきた。
「センセ、先生お願い。いっかい全部外してください、こわいから」
彼は体に取り付けられたものを外そうと、めちゃくちゃに四肢を動かす。絶対に外れるわけがないのに、無理やり暴れる姿は狂気的に見えた。僕は慌てて手首と足首のベルトを外し、足首を縛っていた縄もほどく。すべてが取れると、ヒロマくんは跳ねるように椅子から飛び上がって、僕を押しのけて部屋の隅へ駆け出す。
彼はそこで立ち尽くしていた。幽霊でも見たように、目の焦点が合わず、子どものように震えていた。
「役に、入りきれなくて……」
すみません、と繰り返す彼の顔色は悪かった。もともと色が白いが、血の気が引いてさらに白くなっている。まるで病人みたいだ。
とりあえず、僕はワイシャツを脱いで、持参してきたTシャツを頭からかぶる。ベッドの端に腰かけたヒロマくんの横に座り、様子を見守る。ペットボトルの水を渡してみたけれど、それに口をつける様子はなさそうだった。
「何か僕、まずいことしたかな? ちょっと急ぎすぎた?」
そう聞くと、ヒロマくんは首を横に振り、違います、と答える。
「先生は悪くないです。問題なのは、オレです」
ヒロマくんは戸惑っている。僕はまるで、懸命に立ち上がろうとする小鹿を見守っているような気分になった。彼は彼なりに、自分が抱えた性衝動に向き合って、葛藤を解消しようとしている。
「今日ここにきて、先生が道具とか全部用意してて、しかも髪形や衣装まで揃えたのを見て、怖くなったんです。オレ、どっかで『ごっこ遊びができればいい』って思ってたんです。エロ漫画みたいなこと、本当にできるわけないって思ってた。でも先生がそういうことを茶化したりしないで、本気の目をしてくるから、オレ、こんなのできないって怖くなった。縛られたり、電気流されたりして気持ちよくなんてなれない」
ヒロマくんは下を向いて、力なく首を振る。鼻をすする音が聞こえたので、もしかしたら自分の不甲斐なさに泣いているのかもしれない。
「オレ、主人公になれない。セリフも、全部覚えてるのに。全部そらで言えるのに」
「なるほどね……」
ここで「じゃあやめようか」と提案することもできた。状況を判断するなら、それが正しいだろう。気持ちがついていかないのに無理やり続けても、傷が残るだけだ。いい思い出にはならない。
「ようするに、この漫画の主人公になるには、自我を捨て切れていないんだよね。だから体が動かなくなるんだ。まだヒロマくんの中には『ヒロマくん』がいる。環境を用意して道具を揃えても、肝心の人格がまだ入れ替わっていないんだ」
だからといって、ここでヒロマくんをみすみす帰してしまうことは気が引けた。あのとき、助けてくださいといったヒロマくんの真剣さに僕は応えたいのだ。拙くはあるが、僕なりに助言を与えてみる。
「……コレはね、僕がよく使う方法なんだ。
何か役を演じる必要がある場合、なりきろう、とか、演技しよう、とか思わないほうがいいんだ。なりきろう、演技しようって思うのは、本来の自分と連続してるから、うまくいかなくなるんだよ。何かを隠す作業だから、どうしても下地が透けて見えてしまう。
そうじゃなくて、それぞれをまったく別のものにするんだ。電子レンジを想像してみるとわかりやすいかもしれない。何かを取り出して、何かを入れる。冷凍おにぎりを温めた後に、マグカップに入れた牛乳を温める、みたいな。演じるんじゃなくて、人格をそっくりそのまま、入れ替えるんだ。元の自分――この場合で言うと、『ヒロマくん』はどこかに置いておく。いつかまた、取り出せる場所に」
ヒロマくんは、僕の話を黙って聞いていた。
「ここにいるのは、BL漫画の主人公で、男からいわれのない暴力を振るわれる、『ユキ』なんだ。もちろん僕も、君をヒロマくんとして扱わない。フリーターで、毎日ふらふら遊んで暮らしていた『ユキ』として扱う。口では嫌がるけれど、実は淫乱な『ユキ』として扱う。誕生日を大勢から祝われて、みんなから愛されているヒロマくんとしては扱わない」
誰も見ていないよ、と僕は付け加える。
「君がユキになりきって、どれだけ滑稽で醜い様を出したって、僕以外に見ていない。ほんとうのお芝居と違って、カメラもまわっていないし、観客の目もないんだ。いったいなにが怖いんだろう?」
ヒロマくんは、そこでようやく顔をあげ、僕の顔を見た。僕は畳みかけるように彼へ問いかけた。
「観測者は僕しかいない。君は、それでも恥ずかしい?」
「それは……」
見ているのは僕しかいない。そんなことはヒロマくんもわかりきっているのだ。問題は、僕の目線ではなく、自らが自らへ向ける目線なのだ。それを取り外すことができなければ、プレイを再開してもまた同じ事を繰り返すだろう。
ヒロマくんは、電子レンジの中身をしっかり取り替えなければいけない。
温めた冷凍おにぎりから、マグカップに入った冷たい牛乳へ。
皆から愛されるヒロマくんから、人権を取り上げられ、陵辱の限りを尽くされるユキへ。
ヒロマくんは、僕の問いかけに暫く考え込んでいた。時間としては長く感じたが、実際は数分かもしれない。
やがて、もう一度顔を上げ、僕に言った。
「先生しか見ていないなら、恥ずかしくないです」
顔に血色が戻っていた。さきほどの死人のような顔とは違って、何か覚悟を決めた顔だった。あるいは、彼の中で人格を入れ替えることに成功したのかもしれない。
「つぎ始めたら、もうやめるつもりはないけど、それでもする?」
僕はしつこく念を押してみる。ヒロマくんはもう、戸惑わずに返事をした。
できる、とヒロマくんは言う。そして、できます、と繰り返す。
「やってください。もう、逃げません」
結論から言うと、二回目はうまくできた。ヒロマくんはもう怖いと言わず、何もかもを僕に任せるようになった。僕も、彼の覚悟ができているうちに、と事前に打ち合わせをしたプレイをひと通りしてあげられた。天井から吊したし、背中に赤いろうそくを垂らしたし、コミックの描写通り体に電気も流した。本気で痛がったらやめようとは思っていたけど、やめないでください、とか、もっとして、と懇願され、杞憂に終わった。事前に練習した台詞も、噛むことなく言うことができたので安心した。
プレイを終えた後、脚立に登って彼を空中から下ろしてあげる。ヒロマくんは立ち上がることができなくなっていたので、床にぐったり寝転がる彼を抱え、縄を解く。彼は今にも眠り込みそうなほど憔悴していたが、どこかすっきりとした表情をしていた。まるでフルマラソンを走り終えたランナーみたいに見えた。
四肢にはくっきりと縄の痕がついていた。数日経てば消えるとはいえ、体中に刻まれた赤紫色の痕はまがまがしい何かを感じさせる。
脱力しきったヒロマくんをなんとか体育座りの姿勢にさせ、背中に垂らした蝋燭を爪に引っかけて剥がしていく。血液に似た赤色が背中じゅうに広がっていて、このままではシャワーを浴びることもできないからだ。猿の毛繕いのような格好で背中をつついていると、かすれた声でヒロマくんが言った。
「……すごく、よかったです」
「そう? それならよかった」
「ハイ」
それから少し間を置いて、再び感想を呟き始める。
「やっぱり、縛られて吊されるっていうのは怖かったです。マンガと同じように喘ぐことは全然できませんでした。先生だから絶対大丈夫だと頭で分かってても、次の瞬間なにされるかわからない、って不安になったんです。その後の蝋燭は別に熱くなかったけど、電気流されたときがけっこうキツかった。正直言って、痛かったです」
「うん」
僕はもくもくと蝋燭を剥がしていく。肩甲骨周辺を探し終え、背骨をたどり、腰骨のくぼみのあたりを爪でひっかくと腰が跳ねたので、ごめん、と声をかける。
「でもだんだん、暴れてもムダなんだから、先生に任せようと思ったんです。そしたらフッと体の力が抜けて、頭がふわふわしたんです。そうなると、電気流されても、乳首つねられても、全然痛くなくて。痛いとかっていうより、刺激を刺激として感じなくなったっていうか、マッサージされてるみたいな感じ? 温泉に入って、ずっと気持ちいいのが続いている、みたいな……」
だいたいの蝋燭を剥がし終えたので、僕はタオルを手に取り、細かな屑や粉を取るために背中を拭いた。皮膚を傷つけないように、鏡面を拭う気持ちで、力を込めずに慎重に表面を撫でる。
「すごく、すごくよかったです。オレ、ずっとこういうのやりたかったんです」
蝋燭を剥がし終えた後の背中は、世界地図のような模様を残して薄赤くなっている。これも時間が経てば治るだろうけど、やっぱり目にすると痛々しい。僕は肩甲骨と腰骨の間にひろがった、オーストラリア大陸に似た痕に自分の右手の平を重ねた。
ヒロマくんが首をねじって、僕を振り返る。
「先生、ありがとうございました」
「どういたしまして」
シャワーを浴びておいで、と声をかけ、僕はヒロマくんの背中にバスローブを掛けた。
「染みると思うから、ぬるめのお湯をやさしくかけてね。特に背中。僕は片付けしてるから、ゆっくり浴びておいで」
はい、とヒロマくんはしおらしく返事をして、バスルームに消えていく。僕はその背中を見送ると、床に落とした縄をひろって環状にまとめていく。しばらくすると、バスルームから控えめなシャワーの音が聞こえてきた。
ふと、胃の壁が溶けていくんじゃないか、と思うくらいに自分が空腹であることに気づく。自分でも気がつかないうちに、精神を消耗していたんだろう。そして緊張が解けて、いまさら空腹感に気づいたのだ。
このホテルを出てヒロマくんを見送ったら、なにか食べようかな、と思う。温かく暈があるものを胃に詰め込みたいのだ。ACアダプタやテープをまとめながら、僕はスマートフォンで中華料理店の営業時間を調べる。なんだか無性に、餃子定食が食べたい気がする。
そして、もしよかったら、ヒロマくんも誘ってみようかと思った。きっと彼は、僕よりもお腹がすいているだろうから。
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