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「子ども」だな~。
初めて依頼人と会ったとき、僕はそんな印象を受けた。ユニクロのシャツと青いジーンズ。それにアディダスのロゴが入ったスポーツバッグを肩から下げ、足元は白いスニーカーを履いている。その服装がいかにも「子ども」だった。身体は大きくなっても、社会的には未だ保護者の庇護下にある。たぶん高校を卒業したばかりだろう。この年代特有の無邪気さを色濃く残していた。
その子どもは僕を目の前にして、すごく緊張しているようだった。お客さんは君で、僕は依頼される側でしかないのに。きっとこの子どもは、こんな風に大人と関わるのが初めてなんだろう。肩がすごく狭くなっていて、呼吸が浅くなっている。まるで採用面接に臨む就活生のようだ。
僕は彼と待ち合わせをする場所に、駅近くのルノアールを指定した。ここは価格帯が高い喫茶店だから、学生や子ども連れの家族はおらず、静かに話すことができる。僕はスタバやマクドナルドでも別に構わないけど、僕のところにやってくるのは秘密の話をしたがる人たちばかりだ。そうなると、自然とここを選ぶことになる。
店員が僕たちのところに、ブレンドコーヒーをふたつ持ってくる。僕はそれに口をつけながら、目の前の少年が話し出すのを待った。彼は握りこぶしを膝の上に置いて、顔を青くして、何事かを僕に伝えようとしていた。
「すごく、言いづらいんですけど、依頼を聞いてほしいんです」
「うん……何だろう」
僕たちの右隣は空席で、そのまた右隣はビジネスマン二人がカラープリントされたグラフにペンで数字を書き込み、ときにはノートパソコンを広げて資料を示し、商談をしていた。彼らの熱心な話し声が、僕と少年の間に広がる無辺の沈黙を和らげていた。
少年は、ヒロマと名乗った。人から話を聞き、頼み込んで僕を紹介してもらったそうだ。固く口止めされているため、紹介者の名前は絶対に明かせないと言う。
それはさておき、僕は依頼内容を言いあぐねる少年を見守った。よほど言いにくい内容らしく、緊張しすぎて顔色が青くなり始めている。それでも辛抱強く待っていると、やがてスポーツバッグから蔦屋書店のロゴが印刷されたビニール袋を取り出し、僕に渡してきた。
僕はその袋に手を突っ込み、慎重に中身を取り出す。それはB6判のコミック冊子だった。僕は本の表紙を見て、依頼内容を察する。
――たしかに、これは言いづらいわけだ。
表紙には「アイの即興曲」と記され、全裸の若い男がこちらに背を向けて立っている。画面内にはもう一人、グレースーツを着た男が描かれていて、全裸男の尻を皺が寄るくらいに強く掴んでいた。背景は暗いクリムゾンレッドに染まっていて、何かを暗示するように鎖が数本垂れ下がっている。
けなげな就活生みたいに、少年は僕の目をまっすぐ見つめて言う。
「このマンガと同じ事を、オレにしてください」
「……なるほど」
僕は動揺を鎮めるためにいちど冷水を飲み下し、氷を口に含んでごりごり噛み砕いた。それから卓上に置いたコミックを手に取り、オモテ表紙とウラ表紙をもう一度見た後、内容に目を通しても良いか尋ねる。
「お願いします」
ヒロマくんは重々しくうなずき、僕はページをめくりだす。
表紙から察せられるとおり、彼が再現を依頼した書籍は、女性向けのボーイズラブコミックだった。
ある日の夜、主人公は何者かに突然襲われ、連れ去られる。目を覚ますと、服を全て剥かれた状態でベッドに繋がれていた。そこへひとりの男が現れ、顎を持ち上げてこう告げる。「今からアンタは、俺のモノだ――その躯(カラダ)に、教え込んでやるよ」。そこから始まる、めくるめく監禁と調教、倒錯の世界。
僕はヒロマくんの視線を感じながら、コミックに目を通す。彼がやってみたい、と言うプレイがどのようなものか、確かめるために。ページをめくりながら、僕はヒロマくんに尋ねる。
「『同じ事』って言ってたけど、君は主人公と誘拐した男の、どちらをやりたいの?」
「主人公です。髪が黒い、ショートカットの男です」
つまり、薄幸そうな黒髪の男がヒロマくんで、饒舌に責め立てている金髪の男が、僕というわけか。そのことを頭に入れ、再び読み進める。
悲惨な夜をいくつも越え、やがて主人公は、相手の男が抱える心の病に触れ、いつしか二人は心から惹かれあうようになる――
おおかた目を通した印象では、求められているプレイが相当難しいな、と感じた。前半では主人公を椅子に縛り付けたり、背中に蝋燭を垂らしたりしている。これらは素人のごっこ遊びに等しく、簡単に実現できる。しかし後半になるにつれ、求められることが多くなっていく。一番難しいと思ったのは、縛って天井から吊り下げた後で、電気を流す場面だ。これはもう児戯ではない。事故の可能性を大いに孕んだ、ハードなプレイになってしまう。
ある程度読み進めた後で、顔を上げてヒロマくんに尋ねる。
「仮に、プレイはこの通り行うとして、キャラクターの台詞もまねした方が良い?」
「はい」
ヒロマくんは固くうなずく。
「台詞も、全部同じにしてほしいです」
「う~ん……」
僕は再度先頭からコミックを読み返す。基本的に主人公はスーツ男のされるがままで、『やめろ』とか、『もういやだ』のどちらかだ。あるいは、『何するんだよ』とか。後は意味のない嬌声。
いっぽうで、僕に任された役は台詞がバラエティに富んでいる。
『腰、すごく動いてる』
『もともと淫乱の才能があったんだろ?』
『挿れただけなのに、もう気持ちよくなってるじゃん』
いずれも空虚な台詞ばかりだ。口にした途端、場の空気が冷え切ってしまうことが予想される。演者側の力が試される、難しい役回りだった。
困惑する表情を隠さない僕に、ヒロマくんは先ほどまでの緊張はなくなり、どこか吹っ切れた顔で「アイの即興曲」への思い入れを語る。
「オレ、このマンガを読んだとき世界観が変わったんです。男向けのエロマンガって、男が女とヤるんですよ。でもこれは違う。男と男がヤってて、その女側がすごく気持ちよさそうなんです。オレもこういうことされてみたいって、コレ読んだときからずっと思っていて、もうずっと、このことばかり考えてるんです」
僕の手のひらの中で、見開き二ページを使って男が体を弓なりに反らせ、派手に絶頂を迎えていた。精液が放物線を描いて飛んでいる。
「ここに来るまで自分でもいろいろ試してみました。でもどうしてもできないんです。自分を自分でこんな風に縛れないし、だからといって知り合いや友達にも頼れない。あと、先生じゃなくても、たとえばツイッターの裏アカで募集したり、得意な人に頼んだりすればやってくれると思うんです」
男が主人公の肋骨を撫で、その指先が乳首にたどりつくと、強めにつねり上げた。主人公は涙を零して責めに耐えている。男の手は長く、優美でしなやかな線で描かれていた。
「でもそれじゃダメなんです。信頼できない相手だと、どうしても希望を伝えきることが出来ない。そういうとき、先生の話を聞いたんです。『どんな事でも、叶えてくれる』って。先生なら、先生であれば、このマンガの再現ができるって、そう思ったんです。お願いします」
そう言って、ヒロマくんは深く頭を下げる。僕はそこで一度コミックを閉じた。
「えっとね、ヒロマくん」
長年の思いを語るヒロマくんを前に、僕はこの依頼を断る口上ばかり考えていた。だってどうしても気が進まない。百歩譲って、せめて相手が同年代だったらいい。でもヒロマくんなのだ。どう見たって若く無知で、無鉄砲で、果実のように傷つきやすそうに見えた。衝動に任せた行動が心的外傷になり、彼の未来に影響を及ぼすかもしれない。僕とのプレイをきっかけにインポテンツでも発症したら、僕は責任を取れない。
「せっかく来てもらって悪いんだけど、僕はこれを引き受けられないよ」
僕はテーブルについた輪っか状の水滴をおしぼりで拭き取り、その上に「アイの即興曲」を裏返して置いた。
「君は僕から見たら、どうしても子どもに見える。あえて年齢は聞かないけど、多分学校を卒業したばっかりだよね? その頃の年齢って、こういうアダルトコンテンツに刺激されて、性的な妄執に駆られることはよくあるよ。僕だって身に覚えがある。でも現実はね、このコミックみたいに気持ちいいことなんてないよ。縛られて吊されても、体に電気を流されても、痛くて苦しいだけだ。それに猛烈な虚しさが残るだろう。君がたとえこういうリビドーを抱いていたとしても、それを実行しようとするのは、まだ早いんじゃないかな」
僕の説得を、ヒロマくんはうつむいたまま聞いている。きっと僕に失望しているんだろう。知らない大人に連絡を取り、こうやって会うこと自体、すごく勇気がいることだったはずだ。それらを乗り越えてここへやってきたのに、僕に拒否されることに無力感を覚えている。でも僕はそんな彼に同情せず、はっきり断らないといけない。それが何よりも、彼のためになるのだと信じて。
僕らの右隣にいたビジネスマンたちは、少し前に席を立っていた。今は半径五メートルの空間には誰もいない。僕は誰にも見られていないことを良いことに、少年に向けて、熱量をあげて説得を続ける。
「君がここにくるまでに払った労力を、僕は評価するよ。僕のことを知っている人間はそこまでいないし、みんな変人だけどそれなりに社会的な地位を持っている人が多い。そういう大人から僕のことを聞き出したんだから、君の熱意は人を動かすものだったにちがいない。でもそういう努力の方向性は間違っている。繰り返しになってしまうけど、つまり君は早すぎたんだよ。あと十年待ってみて。それでもまだ、『このBLコミックと同じ事をされてみたい』と思えるなら、誰かにやってもらえばいい。君みたいな年齢だと僕は断るし、たとえ僕以外の人間に頼んでやってもらったところで、良い経験は得られない。君が傷つくだけだ。と、僕は思う」
長い弁明だったが、ヒロマくんは反論を挟まず最後まで聞いていた。僕がひととおり話し終えた後でひと息つくと、彼はやっと顔を上げた。泣き出していないといいな、と僕は思ったのだが、彼の顔を見て、僕は背中におかしな寒気が走った。瞳に奇妙な光がちらついたように見えたのだ。
(あれ?)
僕が描いたシナリオでは、僕の愛がこもったお説教を聞いて、ヒロマくんは「分かりました」と渋々引き下がるはずだったのだ。そして僕はスマートにコーヒー二杯分のお代を払ってこの場を立ち去り、こんなことがあって困ったんだ~、と人に話そうと思っていた。
でも予想はなんだか外れたようで、ヒロマくんの目は最初見たときよりも力強くなり、おかしな輝きを増したように見えた。
まずいかも、と僕は思う。
「これ見てください」
僕が抱いた予感をよそに、ヒロマくんは鞄から黒い財布(白抜きでPUMAのロゴが描かれた、親しみが持てるデザインだ)を取り出し、そしてその財布から板状の何かを取り出し、ペチン! と弾いて机の上に置いた。それはうすピンク色のマイナンバーカードだ。青い背景をバックに、ヒロマくんがこちらをまっすぐ見つめた顔写真がついている。続いてヒロマくんは顔写真の横に印字された生年月日を指さした。平成XX年、X月X日生まれ。僕はそれを目にして、すぐさま引き算をして年齢を計算しようとする。しかし、すぐに答えが出なかった。
「……んん?」
僕の戸惑いを見透かしたように、ヒロマくんが言った。
「オレ、昨日二十歳の誕生日だったんです。成人してるから、年齢は問題ありません。そうですよね?」
僕はその言葉に、ヒロマくんの顔を見上げる。その顔に、最初浮かべていた戸惑いの色がなくなっていた。彼は固い意志を感じさせる声で言葉を続ける。
「本当は誕生日、二十歳になったその日、フーチ先生に会いたかった。でも友達が誕生日パーティーするって言って、どうしても断れなかったんです」
僕は念のためスマートフォンを出して電卓を叩く。でも確かに、ヒロマくんが言うとおり、目の前の彼は昨日二十歳になっていた。正確に言えば、二十歳と一日。
「きのう、夕方にオレの誕生日パーティーがありました。地元の友達や仕事の先輩と集まって騒いだんです。みんながいろんな誕生日プレゼントをくれました。オレがずっとほしいってインスタで騒いでたスニーカーとか、イヤフォンとか。あと女の子から香水もらったり、後輩から小さな寄せ書きも貰ったんです。それで家に帰ったら、妹が手作りのケーキを焼いてくれていました。父からは今度一緒に呑もうな、って言って、徳利とおちょこのセットを貰いました。母からは値の張るジャケットを貰いました。いろんな人にありがとうって言い続けた一日だったんです」
彼は淡々と自分の話を続ける。僕はそれに聞き入りながら、自分の背中に汗が滲んでいくのを感じた。これは本当にまずいかもしれない。ヒロマくんは息継ぎもせず、話を続ける。
「でもオレ、おかしいんですよ。昨日ずっと、誕生日パーティの最中、先生に会うことばかり考えてたんです。明日になればフーチ先生に会えるって。会って話を聞いてもらって、オレがずっとしてみたかったことしてくれるって、そればっかり考えてたんです。みんなから誕生日おめでとうって言われて、生まれてきてくれてありがとうって言われて、たくさんプレゼントもらっておきながら、オレの頭の中は「アイの即興曲」でいっぱいなんです。オレが先生にぎちぎちに縛られて、淫乱だねってささやかれて、アヘアヘ喘いで射精することばっかり考えているんです。友達と騒いでいる間も、後輩に先輩のこと尊敬してますって言われても、親にヒロマ愛してるよって言われても、オレの頭はそういう映像でいっぱいになってる。この本を読んでから、オレおかしいんです」
そう言って彼は、鞄からもう一冊本を取り出した。それは先ほど彼が僕に見せた、同じ「アイの即興曲」だった。しかし本のカバーは取り外されて、ページが折れて汚れて、付箋が何枚も貼ってある。まるで受験生が使った参考書のように見えて、迫力があった。きっと何度も読み返したんだろう、表紙は癖がついて丸まっていた。
「このマンガで描かれていることが現実にあり得ないっていうなら、あり得ないって証明してほしい。オレの目を覚まさせてほしい。このマンガと同じ事をして、気持ちよくないってわかったら諦めがつくんです。やっとこの夢を見終わることが出来る。逆に言えば、オレはこの本を読んでからずっと夢の中にいるんです。現実の何もかもが手につかない」
先生、これ見てくださいよ。ヒロマくんは本に手を挟み、コミックのページを指で割り開いた。それは主人公の男が足を開き、スーツ男に促されて絶叫しながら射精をする場面だ。一ページを使って、オーガズムに至る様子が丹念に描写されている。
「だって主人公、こんなに気持ちよさそうな顔してるんです。こうなるわけないって、わかってるんです。エロマンガの過剰な演出だって分かる。でもオレだってこうなってみたい。でもひとりじゃ出来ない。女じゃだめだし、こんなこと友達に頼めない」
ヒロマくんが祈るように指を組み、顔を覆う。そして指と指の隙間から僕に助けを請う。絞り出したような細い声で、先生お願いです、と呟く。
「先生にしか、頼めないんです。オレを助けてくれませんか」
彼の怒濤の訴えに、僕はすっかり気圧されてしまう。彼の切なる願いに、僕はダメ押しとばかりに聞いた。
「あのね、事前に聞いてると思うけど、僕は現金一括で、前払いしか受け付けないよ。相手が誰でも絶対に一円もおまけしないけど、払えるの?」
僕が絞り出した問いかけを、ヒロマくんは快活な笑顔ではじき返す。
「今すぐ払えます!」
そう言って鞄をあさりだしたので、僕はそれを止める。虚勢を張っているわけではなさそうだ。
「あ~~……」
僕は頭を抱え出す。困ったことに、僕は熱心な変態にめっぽう弱い。もちろん彼の主張を「若さ故の妄執」と切り捨て、依頼を断ることもできた。しかし、目の前の彼は真剣に助けを求める目をしていた。僕はそれを傍観できるほど冷たい人間でもない。
それに、心のどこかで「うれしい」と思う気持ちもあった。誕生日を大勢の人間に祝われる、幸福でうらやまれる空間にいながらも、彼の頭の中は僕から性的に嬲られる妄想でいっぱいになっていたのだ。こんなに不健全で背徳的なことがあるだろうか?
「う~~ん……」
僕が返事に困っている様子を、ヒロマくんは何も言わずに見ているんだろう。そもそもこんな風に悩んでしまっている時点で、もう僕の負けは確定していた。うつむいてテーブルの木目を数えてみるが、その間にも頭頂部へ彼の視線が痛いほど刺さってくる。
「――君の熱意は、よくわかりました」
そう言うと同時に、本当にめんどくさいな、という重い気持ちがこみ上げて、ずっしりと全身にのしかかってくる。でも僕は彼の気迫に負けてしまった。場に出すべきカードはすべて出ていて、彼は僕よりも強い役を作り上げたのだ。もう両手を挙げて投了するしかない。
「依頼、引き受けます。全力を尽くすよ」
しぶしぶ返事をすると、ありがとうございます! とヒロマくんが深々と座礼をした。それはビジネスの場でも十分通用する、健全なお辞儀だった。これから僕たちがすることは、不健全極まりないものなのに。
こうして僕は、ヒロマくんの依頼を引き受けることになった。
【依頼内容:BLコミックのプレイを再現する】
「……とりあえず、何が必要かひととおり挙げてみるから」
そう言って、僕はもう一度「アイの即興曲」を手に取ってページをめくった。
一度「やる」と決めたら、僕は手を抜かない。僕は店員に頼んでボールペンを借り、紙ナプキンの裏へ必要な物を書き出していく。
どうしようかな、と額を押さえて言うと、ヒロマくんはここに来て初めてうれしそうに笑った。
「なにか僕のほうで用意するもの、ありますか?」
その笑顔は「これからUSJに行くんです」とはしゃぐ大学生と変わらないように見えた。溌剌としていて眩しい。
僕はちょっと待ってね、と彼を制し、ペンを走らせてアダルトグッズをつらつらと書いていく。
いったい何をしてるんだろう、という虚無に似た思いと、期待に応えてあげようじゃないか、という高揚感に挟まれ、体中に奇妙な脱力感が満ちていた。
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