さよなら風たちの日々 第5章ー4 (連載13)
狩野晃翔《かのうこうしょう》
さよなら風たちの日々 第5章―4 (連載13)
【9】
今、ヒロミに対して、どんな言葉が必要なんだろう。彼女はいったい、どんな答えを望んでいるんだろう。
分かってはいるのだ。答えは知ってはいるのだ。けれど今、それを彼女に伝えることはできない。
「さっきも言ったけど、今、おれ、女に興味ないんだ」
その言葉を訊いてをヒロミは目をうるませ、あふれそうになる涙をこらえながら、嘘です、とでも言うかのように首を左右に振った。ヒロミの長い髪が揺れる。それが顔を覆い、ヒロミはそれを無造作にかき上げる。
やがてヒロミはポツリと、
「きっと先輩も、わたしを思ってくれてると思った」とうつむいたきり、黙った。
たとえば恋人同士の沈黙ならば、それは言葉のいらない幸せなひとときということができるだろう。しかしそのとき、ぼくとヒロミのあいだに流れる沈黙はたとえば氷に閉ざされた大地のように、ただ時間が止まった空間でしかなかった。何も始まらず、何も終わらない、氷に閉ざされた永久凍土の大地。
いや、それは、ぼくの思い込みに過ぎないのかもしれない。この沈黙の中でヒロミは、明らかに何かを探し求めていた。それは言葉かもしれないし、解決策の糸口かもしれない。それによってヒロミは、一所懸命ぼくの心を、自分に向けようとしていたのだ。
「先輩。わたしが嫌いですか」
唐突に、そして何かを振り払うようにして訊ねるヒロミにぼくは、とんでもない、というように手を左右に振って、それを否定した。
するとヒロミは、訴えかけるような目で、ぼくを見つめ、
「ならば、わたしと付き合ってくれませんか」と、迫った。
ぼくは、ふうっとため息をつき、壁にもたれかかる。
女に興味がない、というのは嘘だ。ぼくにだって女に興味はある。しかしそれがヒロミではだめだということを、どう伝えればいいのだろう。
いろいろ考えてからぼくは、この場から逃れる理由を口にした。
「信二がね、先にきみを好きになったんだ」
「だからおれもって、わけには、いかないんだよ」
信二には姉が二人いた。三歳年上の姉はおっとりしたきれいな人だった。一歳年上の姉はいつも明るくて、優しかった。そんな二人の姉のことを、以前ぼくは信二に
訊いたことがある。姉を女として見たことはあるるのかと。
「ばか言え。小っちゃいときから一緒なんだぜ。そんな気になるわけないじゃん」
信二はこう言って言下にそれを否定した。それは事実だろう。でも誤解を恐れず言わせてもらえるのなら、男子は兄弟姉妹に対してそんな感情を持ってはいけないという刷り込みを、小さなときから受けていたからではないだろうか。潜在意識で、そういう感情を抹殺していたからではないだろうか。当たり前だ。それが道徳であり、倫理だからだ。
だからぼくは、信二が先に好きになった女の子を、絶対好きになっってはいけなかったのだ。
【10】
ヒロミが突然、話題を変えた。
「先輩。誰か好きな人、いるんですか」
「いないよ。そんなもの」
ぼくがぶっきらぼうに言うとヒロミは、それならなおさら、と、くやしそうに言ったきり黙った。
そうしてヒロミは遠くを見つめたまま、やっぱり先輩は残酷です、とひとりごとのように話を続けるのだった。
「先輩。それやっぱり残酷です。友だちのために心を閉ざすなんて、やっぱり残酷です。そうすればわたしが、その友だちの方を向くとでも思っているんですか。それじゃあわたしの気持ちはどうなるんですか。無視ですか」
「違う。そんなんじゃない」
「じゃあ、何なんですか」
またホームに電車が滑り込んできた。人々はあわただしくホームを行きかっている。繁華街の喧騒が、そのまま引っ越してきたような駅の構内。電車の轟音。スピーカーからの大音量アナウンス。けれどぼくのまわりのそこだけは、研ぎ澄まされたナイフのような空間があるだけだった。
言い訳ばかりしている。逃げている。
分かってはいる。けれどぼくには今、それしか術がなかった。
「今、受験を控えている大事なときなんだ」
「それに今、とってもやりたいことがあるんだ」
それはとっさについた嘘だった。
実はぼくには特技があるのだ。それはその場逃れについた嘘が、真実になってしまうことだ。嘘の大半はどこか矛盾してたり、辻褄が合わなかったりしてやがてバレてしまうが、ぼくがとっさに思いつく嘘はなぜか破綻することがなく、理路整然としていて、やがてそれが真実になってしまうから面白い。
ぼくはこの特技で、何度校則違反を糊塗してきただろう。
やりたいことって何ですかと、今度はヒロミはその言葉に訊き返した。
ぼくは言葉をにごし、今度会ったときに話してやるよ、とだけ答えた。
するとヒロミは急に明るい声で、
「ほんとうですか。ほんとうに今度、会ってもらえるんですか」。
ぼくがぶっきらぼうに、ああ、とだけ返事するとヒロミは、下を向いて満面の笑みを浮かべた。そうしてヒロミはぼくに合掌するようなポーズを取り、その指先を小さく口元でぱちぱち動かすのだった。ヒロミはそのとき心の中で「やったね」とでも思っているに違いなかった。
「いつ、それはいつになりますか」
ヒロミは目をきらきらさせて、ぼくに訊ねる。
「十月、十一月は文化祭と修学旅行があるだろ。だからそれが終わってからだな」
ヒロミは目を輝かせ、
「わたし、待ってます。その日を楽しみに、ずうっと待ってますからね」とようやく安心したように微笑んだ。
ぼくは肩の荷が降りたような安ど感を覚えた。
もう蛍光灯の出すノイズなんて、気にならなかった。それはホームの屋根に切り取られた夜空に、星が良かったね、とでも言ってるかのようにまたたいて見えたからだ。
【11】
「ヒロミ・・・」と、本人の前でそう呼び、ぼくはしまったと思った。
信二とヒロミの話をするときはそう呼んでいたのだが、本人の前ではその名前を口にしたことはなかったからだ。
するとヒロミの顔がはじけた。満面の笑みだった。そうして、
「先輩。それ、わたしの方からそう呼んでくださいってお願いしようかと思ってたんですよ」と答えた。
もしそこが駅のホームでなかったら、ヒロミはそこで少女アニメの主人公のように、ぴよんぴよん飛び跳ねたり、くるくる回って踊り出しかねない勢いだった。
ぼくは照れくさくなって、小さく笑い、頭をごしごし掻いた。
時計を見ると、まもなく午後八時。あ、もうこんな時間、とヒロミが驚く。
ヒロミに呼び止められたのが、午後五時十五分くらいだったから、ぼくたちはかれこれ三時間近くもここで立ち話をしていたことになる。さすが少し疲れたかもしれな。
「家、どこだよ。送ってやるよ」
ぼくが訊ねると、ヒロミが答えた。
「京成お花茶屋です」
驚いた。京成お花茶屋はぼくが降りる京成堀切菖蒲園の隣の駅だったからだ。へええ、今までよく電車で会わなかったね、と訊くぼくに、ヒロミはいたずらっ子のような目をして微笑んだ。あとで分かったことだが、放課後はたいていヒロミは屋上にいて、ぼくに手を振っていたりする。朝は始業時間の三十分以上前に登校していて、自分の教室から、時間ぎりぎりで駆け込んでくるぼくを見ていたらしい。だから電車で会うことはほとんどなかったようなのだ。
一緒に帰る山手線の電車の中。つり革につかまりながらぼくは、ヒロミの顔をそっと盗み見た。その視線に気づいてヒロミは、はにかむように微笑み返す。
電車が揺れるたび、ヒロミの肩が、髪がぼくに触れるた。ぼくは密かにその感触を楽しんだ。
電車の窓ガラスの外に、夜の街が流れている。その窓ガラスには、ぼくとヒロミの姿も映っているた。電車の窓ガラスは夜の街とぼくたちの姿を、何の違和感もなくそこに溶け込ませているのだ。
見ると窓ガラスに映るヒロミの顔は、ぼくに微笑みかけている。ぼくはその微笑みに、笑顔で応えた。この沈黙は先ほどのとは違い、満ち足りた沈黙に違いなかった。
お花茶屋の駅に着くと帰りの電車が来るまで、ぼくたちはしばしホームでおしゃべりをした。やがて電車が来ると、ぼくはそれに乗り込む。
ドアが閉まり、電車が静かに動き出す。
ぼくは電車のドア越しで軽く手を上げ、ヒロミにさよならをした。
するとヒロミはどうしたことなのだろう。直立不動の姿勢で、ぼくに軍隊の兵士のような敬礼をしたのだ。電車がホームを離れ、やがて小さくなって姿が見えなくなるまで、ヒロミはそうしてぼくに直立不動の敬礼をし続たのだった。
堀切菖蒲園の駅を出て、商店街を歩いた。やがて辺りは住宅だらけとなる。戸建て住宅の屋根に切り取られた夜空に、わずかばかりの星がまたたいている。
ぼくはそのときふと、アインシュタインの特殊相対性理論を思った。
時間は常に一定の速さで流れている。ところが時間の速さは実は一定ではなく、伸びたり縮んだりするというのだ。そして絶対不変なものは光、というのが特殊相対性理論だ。
ヒロミと立ち話をしていた秋葉原の時間。ほんの一時間だと思っていたものが、実は三時間近くも経っていたなんて、これが特殊相対性理論ではなくて何なんだろう。
そして絶対不変なものは光。その光とはぼくにとって何だろう。その正体とは。
ぼくの脳裏にヒロミの顔がよぎった。ぼくはあわてて、その顔を打ち消した。
ぼくの家はその角を曲がると、すぐだった。
《この物語 続きます》
さよなら風たちの日々 第5章ー4 (連載13) 狩野晃翔《かのうこうしょう》 @akeey7
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