第2話 渡し(ムーヴ)の確執

いかにもなぐり書かれたような文面は、至極簡易的な「裁判」でヒューが敗訴したことが記されている。

別に彼が自ら訴えを起こしたわけでないので本来なら敗訴と言うのもおかしな話だが、流れでごまかされてしまった。

それがますます話をややこしくしていた。


「──っつ!」

「男ならこれくらいで悲鳴上げない!」


ばし。

どこが似ているのかというほど気の強そうな女将はリメルの母親らしい。

傷の痛みより治療の荒さにうめいたヒューは弁解のまもなく気合の一撃をお見舞いされ、沈黙した。


「ヒューさん、スピナッチのメンバーにいっぱいくわされたんだって?」


ドアの向こうから顔を覗かせたのは細面なアクアウッドの旦那だ。

病気がちで、今は店は妻に任せて静養中ということだった。


「大方、宿で法外な金を取られそうになったんだろ。それでもめてたら役人に諌められて理法所行き。違う?」

「ここの管轄区は腐ってるな。最悪だ」


女将の言葉は否定しようもない。

それどころか大正解と言っても良い。


はじめに船着場でトラブルを起こす。

そして口八丁で和解して自分の宿に泊まらせて──どうやらそれがスピナッチのやり方らしかった。


そこまではいいが問題はその後。

明らかに仲裁に来たはずの役人が、いざ理法所へたどり着くとスピナッチの側についたのだ。

まんまといっぱい食わされて痛い目にあってしまったというわけである。


「しかしその怪我は? まさかスピナッチの奴らにやられたわけではないんだろう」

「先に手を出したら後で不利だからな」

「全く不条理な話だね」


旦那が目を丸くする横で女将が呆れる。

なぜヒューが怪我をしているか察している女将に対して、旦那の方は全く世間知らずと言った風体だった。

その時、ふいにがたがたと慌しい音がして文字通り店番が転がり込んできた。

青緑の帽子が床に落ちたのを慌てて拾って頭に乗せる。

それより早く口は開いていた。


「二十三番地区の船着場でテッドがいちゃもんつけられて暴行受けたらしいです!」

「それは大変だ。怪我はどうなんだい?」


眉間にしわを寄せて目一杯の渋面をするも旦那の口調はどうにもおっとりだ。

女将はけが人の多い日だね、と妙な顔で呟いた。


「通りすがりの若旦那が親切にここまで運んできてくれたんですけど」

「そういうことは早くお言い。ちゃんとひきとめているのかい」

「はい、それは」


店番の話を最後まで聞かずにとっとと部屋を出て行く女将。


「随分温情に厚いんだな」


呆れたように息をついたヒューが我が耳を疑ったのはその時だった。


「ちょうど宿を探してたところだったんだから気にしないでくれないか」


カインだ。


「あいつ、またおせっかいしてるのか」


近づいてくるその声に、今度は呆れると言うより迷惑そうな顔ですかさず上着を身にまとう。

怪我をしていること、むしろ「させられた」ことは伏せておきたい。


「って、ヒュー、こんなところにいたのか」

「本音を言うと、さっさと裏口から出て行ってしまおうかと思ったところだ」


裏口から入ってきたんだよーん、とカインは勝ち誇った。


「ん? 薬のにおいがするな」

「……」


カインは鼻を利かせると、今、羽織ったばかりのヒューの上着をスカートめくりの要領ではらいあげる。

あっさりばれてしまった。

その代償に一発ヒューに殴られつつ。


「やっぱりあの川坊主と何かあったのか」

「違う。これはここの理法官にやられたようなものだ」

「顔をやられなかったのはせめてもの救いだな」


銀の髪の合間から鋭く見据えるヒューを困ったように見下ろす。

その意味は何なのか。


「理法官? 理法官が暴力なんかふっていいのか?」

「要するにあれだな。言葉の暴力」


ローズの問いに、ひとりで答えて納得するカイン。

とは言え、通常用いられる意味とは少し違う。


理法官とは人の罪を審議する者。

本来公平でなければならないはずの彼らが私情でものを言えば、正に罪もない人間を傷つけることができるのだ。

物理的、精神的に。

実のところ、白黒はっきり着くことなどそうはないのだけれど。


「全く、街は由々しき事態だな」


カインの、ともすれば首を突っ込みそうな物言いにヒューはじと目になって、それから丁寧に嘆息して無言で食堂へと向かった。

宿の一階が食堂兼玄関口になっている。

丁度昼時で込み合う奥のカウンターはがら空きだった。

宿泊客用のカウンターだ。

ヒューは正式にチェックインして、外へ出る。


嫌な顔ぶれにぶつかった。


「おやぁ、さっきの兄ちゃんじゃないですかぁ? こーんな安宿へお泊りかい? それとも俺たちへの当て付け?」


スピナッチのごろつきだ。

一瞥してふいとヒューが男二人の脇をすり抜けると無骨な手が引き止めた。


「待てよ。そんな態度でいいのか?まだ貸しが残ってるぜ」

「慌てなくても倍にして返してやるよ。それよりその手をどけろ」


命令口調に男の手が上がる。ヒューはそれを視線で射すくめて間髪入れずに制止した。


「いいのか? アクアウッドの目の前だぞ。今度は証言者もたくさんいるよなぁ。あの鳥頭の理法官も人気があるとは思えんし」


ストレートな発言。何気に注目していた住民から声がかかった。


「そうだ! 用がないならとっとと帰っちまえ!」

「何だと!?」


しーん。

罵倒者不明。


代わりに現れたのはアクアウッドの元気な女将だった。


「店の前でなんだい!? 用があるならさっさとお入り!」


肝っ玉の大きい一言でしぶしぶスピナッチのメンバーは背を向けた。

ヒューが触れられた肩を払う仕草をすると、そこに女将が手を乗せてくる。


「あんたも言うねぇ、気に入ったよ。でかけるなら十八番地区には行かないほうがいい。夕食は八時だからそれまでに帰っておいで」


にこにこと何が楽しいのか。

しかしなるほど。商売にはこの上なく向いているのだろう。

また一人、旅客がこちらを見ながら宿の扉をくぐっていった。



* * *



街の中心から少し外れると、河川敷は静けさを取り戻す。

歩道から緑鮮やかな林へ続くわき道を何気に足を止めてみているとヒューを呼び止める者がいた。


「ちょっと……そっちには行かないほうがいいよ」


振り返ると人のよさそうな壮年の女が気味の悪いものでも見るように、眉をひそめていた。林の奥へ続く小道とヒューとの間を視線を往復させながら言う。


「そこでついこの間、人死にがあったんだよ。公邸までは近道なんだけどねぇ……今はやめといたほうがいいよ」

「人死に?」

「行きずりの旅人よ。死んだ子の幽霊が出るっていうし。犯人はアクアウッドの……」


言いかけていかにも話好きな口を女はばつが悪そうにつぐむ。

ヒューが敢えてひっかけて聞き返すとあっさり続きを教えてくれた。


「アクアウッド? 『あの』?」

「犯人って言うか容疑者ね。まだ調査中らしいからはっきりしてないけど、ほんとにまさかよねぇ」


それこそ本音かと思いつつありがちな反応を聞き流してヒューは迷わず林の中を突っ切ることにした。

別に現場がどうのと言うわけではない。

公邸に用があるだけのことである。

近道なら行かない手はないだろう。

幽霊とやらに呪い殺されるわけではあるまいし。


カサカサ……茂みが揺れている。

揺れる柳も幽霊に見える、なんて法則はヒューには通用しない。が。


カサカサガサガサ


──。

何かがいるのは確かなようだ。

ぴたり。

ヒューが止まると音も止む。何かがじっと息を潜める気配がある。


「おい」

「きゃあ!」


ガサリ、と予告もなく茂みに踏み入ると甲高い声をあげ若い女が腰を落としていた。

見上げる瞳は薄鳶色。どこにでもいそうな普通の少女だ。


「お前が『幽霊』か?」


面倒なものを見つけてしまった。ヒューの見下ろす淡い色の瞳に木漏れ日が薄く射し入った。


「何のことよ。大体、あなたこそ何者なの?ここで何してるのよ」


別に「ここ」に用があるわけではない。

ヒューはそのまま同じ事を言ってやろうとも思ったが黙って踵を返した。公邸に行かなくては。


「ま、待って待って!ねぇあなたここで何か見なかった?」

「はぁ?」


少女は背を向けるヒューの上着をはっしとつかんで離そうとしない。

怪訝な顔を精一杯言葉で表してヒューは大きく首を回した。


「何かって……例えばここで起きた殺人事件とかか」

「知ってるの!?」

「残念ながら何も。第一、何だってお前そんなこと聞くんだ」


少女は途端に沈黙してしまう。ヒューは靴の先に引っかかった泥まみれのコインを拾い上げて首をかしげた。

長い前髪の奥で淡い瞳が不敵に笑う。


「試してみるか? 力になれるかもしれないな」


雨が降らないせいでコケは赤黒くくすんだまま。気味の良い話ではないが紛れもなくそこが話題の現場であった。

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