水の都の物語
梓馬みやこ
第1話 水の都
ルーングロウという名の街がある。王都、西の一角。
水の区域を陣とする涼やかな街である。
久々に大都市へ赴いたヒューの足取りは緩やかだった。
歩いてまわるにはよい季節だ。
「兄ちゃん、ひとつどうだい?」
水路の入り口に立ち並ぶ露店から気さくな声が、紅く、食慾をそそる丸い果実を放ってよこす。
ヒューは素直にそれ一つだけ受け取って、河に向かって舗装された階段を下り始めた。
細い水路と、大きな運河を有するこの町を移動するにはいくつかの手段があった。
まずは船。
運河を行き来する商船と異なり、大抵は対岸の桟橋まで横断するもので「渡し(ムーヴ)」と呼ばれる。
もうひとつは馬。
いくつかのエリアに分かれる広大な街なので比較的利用度が高い。
大抵「渡し(ムーヴ)」の先々で借りることができる。
渡し(ムーヴ)」はこの街で最も一般的な職業といえるだろう。
ヒューの降りた先は小さな桟橋へ続く緩やかな勾配で、忙しく人々が行き交っていた。
それぞれの船着場でも「渡し(ムーヴ)」は一つとは限らない。人通りの多い道ほど客の取り合いも激しいのである。
企業競争が盛んなのは良いことだ。
最も乗るほうにしてみれば、たかだか数十分の道のり、どこも同じようなものだが。
流れる人並みの向こうに新たな「渡し(ムーヴ)」の白い船体が垣間見える。
足を止め、青い空の下に広がる対岸の白い街並みを臨んだヒューの背に、ふいに鈍い衝撃があった。
街中の川の流れは緩やかだ。
少なくともほとんど揺れもなく、水面を滑る小船の二階後部の甲板から手すりにも垂れる客人たち。
日の光を受けると赤にも見える長い茶の髪を風に遊ばせ、女は隣で今来た方向を飽きなく見つめている青年を振り仰いだ。
「もう対岸だ。早いものだな」
「あぁ、でもたまには船もいいだろう? そっちの船着場で、馬でも借りて──ん?」
ようやく前を向いた青年は船を待つ人ごみの中に目を凝らす。
女もつられたようにそちらを向いた。
「あれはヒュー? 何やって……」
「ヒュー? ……って誰だ?」
「友達だよ。あぁ、どこにいても目立つやつだな」
そう言って早足に一階デッキ前方へ向かったのは、彼の友人が人ごみの中ではげ頭の大男と真っ向向かい合っていたからだ。
相手の大きさで物怖じしないヒューの文字通り見上げた態度からしてトラブルの真っ只中であるに違いない。
出入り口に集まっている気の早い乗船客をかき分けて、彼が前方デッキへたどり着くより先に船は桟橋へ滑り込んだ。
「カイン、降りたほうが早い」
「ローズ、先、行っててくれ」
結果的に出口を通り過ぎてしまったカインがタラップを踏んだとき、すでに大男(めじるし)の姿は消えてきた。
「おいおい──大丈夫なんだろうなぁ」
しきりに見渡して今度こそヒュー本人を探しても見つからない。彼はここから船に乗るつもりではなかったのだろうか。
「あいつ、ケンカは滅法弱いんだよ」
「お前よりもか?」
眉を寄せて、誰ともなしに呟くとローズが背中から声をかけてくる。
「さぁ、やりあったことないからな」
苦笑を漏らすカインの背に罵倒が飛んだのはその時だった。
「誰か、絡まれてる」
「行ってみよう」
その人垣は別の場所に出来ていた。
二人が気づかなかっただけで今に始まったことではないのか、人垣の中にはすでにもう一つ包囲網が出来上がってしまっている。
一発手痛いのを喰らってしまったのだろう。
中心で、青いジャケットを羽織った若者がうずくまっていた。
「スピナッチの奴ら、またやってるよ。誰か公安官呼んだのか?」
「スピナッチ?」
「あぁ、ここら一帯を取り仕切る渡し屋(リムーヴァー)さ。ちょっと前までまっとうにやってたのにアクアウッドと勢力争いが激しくなってからあんなのばっかで……用心棒のつもりかねぇ」
「おいおっさん、俺らは何もケンカしてる訳じゃないんだぜ? こいつが妙なイチャモンつけるから……なぁ? 先に手を出したのも俺たちじゃない。お集まりの皆さんだって初めから見てたでしょう。それともあんたは俺たちが一方的に悪いとでも?」
ひそめられた声を見事に聞きとめて、一番端で見ていたスピナッチのメンバーが哀れみを請うように大げさに顔をゆがめて見せた。
カインの前にいた男は滅相もないとでもいうように両手を上げて大きく首を振る。
後ずさった背中がカインの肩口にぶつかった。
「私は今来たばかりだが、そっちの人が悪いとは思えないな」
「何ぃ?」
ざわり。
視線の集う先には悪びれもしないローズの姿がある。
ケンカを売っているわけでも正論を押し付けているでもない。
彼女は至ってまじめに自分の意見を述べていた。
「第一、そんなふうにとりまいて……いじめているようにしかみえないぞ?
「姉ちゃん、それは事情を知らないからだよ。兄ちゃん連れだろ? なんとか言ってやれよ」
若者を取り巻いていた円が崩れてカインとローズの間に無粋な顔をした男が割り込んだ。
つい今まで周りに並んでいたはずの野次馬たちもいつの間にか離れてしまっている。
カインは、眉を寄せて「弱いものいじめ」を非難するローズを経由し、視線をひたと少し下方にある男の顔に据えた。
「多勢に無勢で卑怯者?」
きっぱり。
意外にも短気な返礼はない。
小柄な男は見た目どおり力任せにするつもりはないのか口の端だけ吊り上げ何か言おうと口を開く。
それをさえぎるように大きな影が更に間に割り込んだ。
「いい加減にしやがれ。よそ者が人様の問題に口突っ込んでくるんじゃねーよ!」
「! カインに何をする!」
「うるせぇ! 女は黙ってろ!」
──なんて使い古されたお言葉。
乱暴にカインの胸倉をつかんだ手をすかさず叩き返したローズ。
にらみ合う二人を横目に襟元を何気に正しながらカインは心の底で呆れた。
公安官が来る気配はない。
厄介ごとに自分が巻き込まれてどうする、と思いつつ。
「おい、兄ちゃん。女に庇われて恥ずかしくないのか」
「別に」
「カインを護るのが私の仕事だ」
「ジン、やめておけ」
よほどこのメンバーで格が高いのか小柄な男が言うと、ジンと呼ばれた筋肉の固まりはしぶしぶ引き下がった
「ローズと言ったか? そいつが哀れにでも見えるんだな。でもな、ホントに事情も知らねーでいうならそれは弱者に対する同情ってやつでしかないぜ」
「弱者なんだったら許してやればいいんじゃないか」
相手が弱者だとすればスピナッチのほうが強い、という韻を含めてカインが言うと男はしばらく探るような目で見ていたがやがて、肩をすくめた。
追い払うような手つきで散開を促す。
スピナッチの面々がいなくなると自然に人垣も崩れていく。
カインは足元に落ちている帽子を拾い上げた。
「AW」と白いロゴの入った帽子は、まだうずくまったままの青年のジャケットと同じ色合いだ。
対岸行きの「渡し(ムーヴ)」が出て行った船着場は本の一時静けさを取り戻した。
「大丈夫ですか? 怪我をなさっているのでは」
白獣の描かれた門の前。
見てみぬ不利をする流れ行く大衆の中でそういって一人の女が声をかけたのは大分経ってからのことだった。
「随分酷い目にお遭いになりましたね」
「全くだ。本当にここは理法所なのか?」
吐き捨てるように言うヒューの態度は横柄だ。反してなぜかと言うほど体中に酷い怪我を負っていた。最も見た目ではそうもわからないけれど。
「先ほど、あなたをここへ放り出したのはスピナッチの奴らではないですか?」
「あぁ、随分幅を利かせるようになったんだな。いつの間にか経営者も変わっているようだし」
女は少し驚いたように目をむいた。
それからヒューと一緒に門の前に無造作に置き捨てられている紙を見て、重い腰を上げかけたヒューの袖を引いた。
「うちへいらっしゃいませんか? とにかく怪我の手当てを……」
「いや、代わりにいい宿でも教えてくれないかな。それもとびっきりのね」
依然、機嫌を損ねた口調で飛び切りと言った意味が女にはわからないようだったが思い当たる節があったのだろう。間をおいて向けられた淡桃の瞳に笑みが浮かぶ。
「でしたらやはりうちですわ。アクアウッドの……私はリメルと申します」
一度は踏みにじりかけた朱印の押された紙片を拾い上げ、ヒューはリメルの妙に箱入りじみた容姿を流し見た。
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