編集者編

第44話 編集者 その一

 私が勤めている出版社は普通の雑誌も刊行しているのだけれど、今はweb媒体がメインになっている。

 様々な情報を取り扱う都合上で情報鮮度は大事になっているのだけれど、一番のメリットは印刷コストや在庫リスクを抱えなくて済むという点だろう。

 昔ながらの紙媒体が好きだという気持ちもわかるのだけれど、今の時代の主流はアナログではなくデジタルになっているのだ。

 私が担当している作家やライターは大体六人前後になっているのだけれど、極端に増えることもあれば一人だけになってしまうこともある。

 そんな私が今取り扱っている案件はその内容の秘匿性の高さから、私と編集長と一部の役員とライターの谷村さん一人という通常ではありえない構成で取り掛かっているのだ。

 他の編集者もこの案件の事が気になっているようだけれど、資料を閲覧することはもちろんの事、案件に関する質問をすることさえも禁止されている。

 それを破った者は懲戒処分になる恐れもあるというとんでもない事態になっているのだ。

 だからと言って、我が社がその案件の当事者ということではなく、役員の誰かに近しい人がその案件に深く関わっているらしいということだ。

 その役員が誰なのかは責任編集者である私も知らないことなのだが。

 では、その案件とはいったい何かというと、先日とある女性が起こした大量殺人事件である。

 そして、その事件の裁判が今まさに開廷しようとしているのだ。


 世間でも大きく話題になっているこの事件に関して、私が知っていることは世間の皆様が知っていることよりも多く、その内容もわりと詳細まで聞き及んでいる。

 担当しているライターの谷村さんが被告人の弁護士と共に会見をした縁もあって、谷村さんが被告人との面会に成功したことがあるからだ。

 私も面会を希望してみたのだけれど、当然面識のない私の申請は却下されてしまったのだが、谷村さんから聞いた情報があればそれで問題ない話だった。


 裁判の傍聴希望者は本来なら多くいてもおかしくないと思われていたのだけれど、珍しく雪が降ったせいで多少は少なくなっていたのだった。

 それでも、この裁判所の傍聴希望者数を過去の事件と比べてみるとけた違いに多いことは間違いなかった。

 私は運良くというか、数少ない記者席の抽選を突破したので良かったのだが、この事件を誰よりも熱心に深く調べていた谷村さんが抽選に外れていたのはここぞという時の運のなさを物語っているようだった。

 他社さんの記者の方が誰か譲ってくれるかと期待してみたものの、そのような奇特な方は最後まで現れることも無く、裁判所らしく公平な判断によって選ばれなかった谷村さんは一般傍聴券を求めて列に並んでいたのだった。

 当然の事であるが、谷村さんはそちらでも外れてしまっていたので、一番熱心に事件の事を調べていた谷村さんが傍聴できないのは何とも皮肉な結果であると言えるだろう。


 当初の予定よりも裁判は一時間ほど遅れて始まったのだが、傍聴券を求めて人が殺到したためではなく雪による障害によって暖房設備が止まってしまったためであった。

 雪が降っていたこともあって私は厚手のコートを着込んでいるのでそこまで寒くは感じなかったのだが、じっと座っているとさすがに手足が冷えて痛くなってきていた。

 過去に何度か一緒に仕事をしている顔見知りの作家先生も傍聴に来ていたようなのだが、あちらは北国育ちのため暖房が無くても平気なのかと思っていたのだけれど、今の寒さは芯から堪えてしまっているようで体が小刻みに震えていたのが見て取れた。


 検察はすでに席についているのだが、被告席にはまだ誰も来ていない。

 時間ギリギリにやってくるのかと思って待っていると、変更になった開廷時間の直前になって被告人と弁護士が入廷してきた。

 その時には暖房もきいていたのだけれど、まだ快適とまではいかない程度に暖まっていた。

 弁護士の先生がこちらを見た時に目が合ったので軽く会釈をすると、向こうも軽く会釈を返してくれていた。

 被告人が弁護士先生に耳打ちしているようだが、弁護士先生が被告人に何かを告げると被告人も私に向かって会釈をしてきたのだった。

 私はそれにも会釈を返したのだが、こうしてみると家族を皆殺しにしたような人物とはとても思えない風貌に思えた。

 それからほとんど時間をおかずに裁判官と陪審員が入廷すると、いよいよ裁判が開始されたのだった。


 裁判の争点は被告人が自らの意思で犯行を行ったか、それとも何らかの理由で自らの意思は無く犯行を行っていたのかという点だった。

 被告人は最初の質問で犯行を行ったという事実は認めたのだが、それ以降は何を聞かれても何も言葉を発することは無かった。

 弁護人の説明によると、今までの取り調べで受けた精神的苦痛を理由に検察官を前にすると言葉が出なくなるということだったのだが、それを理由にこれ以降の被告人質問は弁護人が代理で答えるということだった。

 検察側は当然それを不服として抗議したのだったが、裁判官は弁護側の主張を認めて被告人質問を弁護人が答えるということを認めたのだった。


 被告人が犯行を行ったことは紛れも無い事実であるのだが、それを行ったときには怨念なり霊的な力で犯行を行ってしまったという論調が強くなっている。

 弁護人は連日行われていた記者会見でその事を終始一貫して説いていたのだけれど、最終的には警察も検察もそれを否定出来なくなっていた。もちろん、それを肯定することは無かったのだけれど、否定をしていないということは肯定してしまっているということと同義に取られてもおかしくない状況ではあったのだ。

 裁判が始まっても両者の言い分はそのまま変わらず、傍目から見ても弁護人が有利に思えて仕方なかった。

 陪審員の様子を見ても、今のところは完全に弁護士の話に聞き入っているといった状態のように見えていた。

 検察も弁護人の主張を完全に覆すことは出来ず、当たり前の事を当たり前に言うだけで終始同じことを繰り返していた。

 お互いの主張を聞いていると、明らかに弁護人の主張はおかしなことだらけなのだが、事件現場で事件後に起こった様々な出来事が必要以上に説得力を持たせていたのだ。

 今日この場で判決が下るとしたのならば、被告人は大量殺人という罪を認めているにもかかわらず責任能力が無いと判断されて無罪判決になっても不思議ではないような空気に包まれていた。

 そんな空気の中、ずっと黙っていた被告人が突然発言の機会を求めて挙手したのだった。

 裁判も閉廷しようとしているタイミングで、被告人は発言の機会を求めたのだった。

 弁護人はそれを制止しようとしたのだったが、裁判官の判断により被告人は無事に発言の機会を得ることになって、そのまま証言台へと向かっていったのだった。

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