第32話 弁護士 その七
北海道に行ってお土産を買わないのは不自然だろうと思っていたのだけれど、飛行機の時間を考えるとお店を見ている時間もそれほど無いのだった。
事務所用に買えばいいと思っているのだけれど、これだけ土産物屋が多いと店を選ぶだけでも一苦労なのだが、それを察していたのか陽三さんはあらかじめ買っておいた北海道土産を私にくれたのだった。
「これから大変になるかもしれませんがよろしくお願いします。私に出来ることがありましたらなんでもおっしゃってくださいね」
「こちらも全力を尽くして取り組みたいと思っていますのでよろしくお願いします。次はゆっくりとこちらで過ごせることを願っています」
私は半日にも満たない滞在時間で北海道を去ったのだが、もう少しゆっくりしていても問題は無かったのではないかと考えてしまっていた。
でも、そうしてしまっていると時間が足りなくなってしまうんじゃないかとも思っている。
今日は残っている事務員さんも定時で上がっていると思うし、私が事務所に着いてから出来ることは花咲百合に関する資料とこれからの予定が書かれているシナリオを熟読することだけだ。
明日の朝一番に花咲百合に面会して今後の弁護方針を説明しなくてはいけないのだけれど、それが可能なのか確認してもらっているのだが、その返事がまだ来ていないらしい。
私は焦りつつも自分では何もすることが出来ない現状にイラついていたのだけれど、それでもサービスのコーヒーを飲んでいる瞬間だけは心が落ち着いているような気がしていた。
普段よりも空港から事務所に戻れたのはタクシーではなく電車を使ったからだった。
電車の方がタクシーよりも安くて早く着くのは何となく腑に落ちないのだが、この地域は夜中や早朝でもない限りどこかで渋滞が起こっているのだから仕方ない事だ。
渋滞の中で進まないタクシーの中で今後の展望を想像する時間は私にとって大切なものなのだけれど、今回はそれを行うよりも何もない状態にある私に資料を読む時間を与える方が先決だと思ったのだ。
それにしても、駅から数分程度の距離に構えている事務所の存在がこれほどありがたいものだと思わなかった。
次に移転することがあったとしても、なるべく駅から近い物件を探すことにしよう。
私は誰もいない事務所の鍵を開けて防犯システムを解除した。
誰もいない事務所は静かなもので、時折聞こえる外の喧騒が無ければこの世界にたった一人取り残されてしまったのではないかと錯覚するほどだった。
荷物を整理するためでもあるのだが、陽三さんから渡されていたお土産を各自のデスクに置いてから袋の中にしまっておいた資料類を応接用のテーブルの上に広げてみる。
結構量があるなと思っていたものの、この資料は誰にも見せるわけにはいかないので誰もいないことはとても都合がよかった。
資料を読み終えて大体の流れを把握したところで時計を見ると、午後十時を少し回っているところだった。
私の携帯には事務員さんから連絡が来ていたようで、それを確認すると明日の午前十一時過ぎに花咲百合と面会できる手筈になっていた。
資料をカバンにしまい、事務所の戸締りをしている時にふと、お昼に食べたお寿司が美味しかったなと思っていた。
そのまま近所のお寿司屋さんに向かってから家に帰ることにしたのだけれど、ここで食べるお寿司も美味しいのだけれど、なんだか少しだけ物足りないような気がしていた。
翌日、いつもの時間に目覚めて資料を再確認し、一度事務所に顔を出してから花咲百合のもとへと向かうのだった。
陽三さんのくれたお土産は事務員さんたちに大変好評で、普段は行列が出来てなかなか買えないものだったらしい。
私の分もあったのだけれど、それは今日のお茶うけにでもして欲しいと伝えると、事務員さんたちは本当に嬉しそうにしているのが印象的だった。
私はこの人たちの分もしっかりと働かなくてはいけないと心に誓ったのだった。
面会の時間に少し遅れて花咲百合がやってきたのだけれど、私が想像していたよりも普通の女性だった。
ちゃんと食事もとっているようで肌艶もよく髪の毛もきちんと手入れされているように見えた。
殺人事件の容疑者とは言え、その辺に人権がちゃんと与えられているのか、犯人として動かしがたい証拠があるからなのかはわからないが、今の時点で花咲百合は正当に人として扱われているようだった。
「あの、弁護士さんが変わると窺ったのですが、あなたが新しい弁護士さんなのでしょうか?」
「はい、申し遅れましたが、私は花車雪と申します。本日から花咲百合さんの担当をさせていただく事になりました」
「私は昨日までの方でも問題なかったのですが、どうして急に変わることになったのでしょうか?」
「それにつきましても簡単に説明させていただきます。百合さんの親戚の方で北海道にお住いの陽三さんと言う方がいるのですが、百合さんはその方と面識がおありでしょうか?」
「陽三さんですか。北海道に親戚がいるということは聞いていましたが、詳しくは知らないです。私の家はそれほど親戚付き合いが多い方ではなかったですし、家族以外の人とは菖蒲ちゃんくらいしか付き合いも無いんですよね」
「菖蒲さん。木戸菖蒲さんですね。彼女は面会に来たことがありますか?」
「今のところないですけど、それがどうかしたんですか?」
「いえ、ただの確認なので気にしないでください。さっそくなんですが、今後の方針を説明したいと思うのですが、よろしいでしょうか?」
「今後の方針とおっしゃいましても、私はあんなことをやってしまった後ですし、罪を認める以外に何があるのですか?」
「私はこのままだと百合さんが死刑になってしまうと思っています。あの事件を知っている大半の人は私と同じ考えだと思います。もしかして、今の百合さんもそんなお考えなのではないかと思うのですが、それはいかがですか?」
「はい、私は自分でも死刑になっておかしくないとは思っています。でも、それでいいとさえ思っているんですよ。私がしたことは当然のことだと思っているし、それに対する罰を受けるのも当然のことだと思っています。それだけの話ですよ」
「ですが、私は依頼を受けて百合さんの受ける罰を出来るだけ軽いものにしたいと思っています。そのために出来ることはなんだってするつもりです。それが難しい事だとは百合さん自身が一番わかっていることだとは思うのですが、私は百合さんのために働くからには最善の結果が欲しいと思っています。そのためにも、百合さんには私の計画に協力していただきたいのです」
「計画、ですか。それが仮にうまく行ったとして私が死刑にならないとでもいうのですか?」
「全ての物事が一番うまく行ったと仮定して、そのまま裁判が結審すると。予想では死刑ではなく無罪判決を勝ち取れると思っています」
「そうですか。あれだけの事をした私が無罪になる可能性があるのですね」
百合さんは初めて会った時からニコニコとした表情を浮かべていたのだけれど、その言葉を言った時だけ別人のような表情になっていた。
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