アダムのいない世界で(前編)

 ショッピングモールの中は伽藍堂だった。

 館内の照明は全て落ちていたが、何かが衝突したのか天井に大きな穴が空いていて、太陽の光が館内を照らしていた。光の中を小さな埃が舞っていた。

 歩く度にジャリジャリと音がした。石膏ボードの破片のような物やガラス片のような物が床に散乱していたからだ。

 フロア内の柱や壁にはマジックで書かれた貼り紙が貼ってあった。

「音を出すとゾンビが来ます! 子どもを一階に連れてこないで!」

「ここでのサッカーやバドミントンは禁止」

 赤いマジックで書かれているせいか、妙に攻撃的な印象を受けた。

 私はお菓子屋さんのショーケースの中を覗いた。中はすっからかん。

「良かった。お茶が残ってた」

 久代はお茶屋さんのショーケースの中から、紅茶を手に入れていた。

 こういうとき、食べ物や飲み物をすぐに見つけられるのは私より久代なのだ。

 私は別のお菓子屋さんのショーケースの中を覗いた。ここも空。

 そうかと思えば、よく見るとお菓子の入った袋が一つ残っていた。

 ショーケースの中に手を入れて取り出すと、からす麦のアーモンドクッキーだった。袋の中で、クッキーは粉々に砕けていた。

 私のお腹が鳴った。朝ごはんもお昼ごはんも食べてない。

「ねぇ、久代」

 呼ばれて、久代もやってきた。

「二人で食べよ」

 私は中身がこぼれないようそっと袋を開けた。袋を薬包紙のように折り曲げ、口の中にクッキーの粉を半分流し込んだ。口から粉が落ちないよう手で押さえて、奥歯でクッキーの粉を噛みしめた。

 久代も残りの半分を口に入れて顎と頬を動かしていた。

 よき。

 賞味期限なんて気にしない。クッキーの粉の中にアーモンドのつぶつぶが混じって食感が気持ちいい。

 私も久代も唇にクッキーの粉をつけて無言で見つめ合いながら齧った。

 口に出して「おいしい」なんて表現してしまうと、惨めな気持ちになりそうだったから。今の私達の気持ちは惨めなんかじゃない。幸せなんだ。クッキーの粉を食べれる。ここには他にも食べ物がありそうな気がする。それが幸せだった。

 私達は廃墟と化したショッピングモールの中を歩いた。お腹は満たされなかったが、糖分のおかげで頭は満たされた。

 歩いていると、鼻の中がむずむずした。埃のせいだ。とてもショッピングモールの中を歩いている気分にはなれない。まるで遺跡の中を調査している気分だ。

 つま先になにか硬いものがあたった。床に落ちていたスマートフォンだった。スマホにはソーラーパネルのついたモバイルバッテリーが差し込んだままだった。

 私はスマホを拾ってホームボタンを押してみた。

 ついた。

 ホーム画面が表示された。

 私は何気なく、写真フォルダをタッチしてみた。

「ちょっと、プライバシー」

 久代が止めてきたが、私にはピンとこなかった。人がいなくなった今、誰がプライバシーを気にするんだ。

 フォルダには持ち主らしき人が誰かと写っている写真やネットから保存した画像が入っていた。ゾンビが映っている動画を見つけた私は、それをタップした。

 動画が再生された。

 この動画は、ここのショッピングモールで撮影されたものだった。ショッピングモールの窓から外の駐車場を映している。

「おーい、見てみろや!」

 撮影者の声が聞こえた。撮影者の周りに集まってくる人影。

「おい、あれ見ろって!」

「ヤッバ!」

「あっははははは!」

 カメラはズームになって駐車場を歩いているゾンビの姿をアップにした。ゾンビは裸だった。裸の男性のゾンビと裸の女性のゾンビがショッピングモールに近づいてきていた。

「おーい、あれ、セックスの最中にゾンビになったんじゃねぇ!」

「かわいそー」

「あーはなりたくねぇ」

 撮影者たちの笑い声が聞こえて、動画は止まった。

 久代が鼻で笑った。

 私はモバイルバッテリーだけ拝借して、スマホは床に投げ捨てた。

 このとき笑っていたやつらは、結局どうなったんだ。きっと今頃ゾンビとして徘徊しているんだろう。服を着ているか着ていないかの違いだ。

 私達は再び探索を始めた。

 一階フロアの真ん中に海上自衛隊のヘリコプターCH-101の残骸が落ちていた。状況中に操縦不能になった機体がモールの屋根に墜落して吹抜けの間を落下してきたようだ。

 ヘリコプターの周りは日光が差し込んでいて、雨が降り込んだせいか苔が生えていた。

 ヘリコプターに一歩一歩近づくと、足の裏でガリッと音がした。薬莢が落ちていた。つま先で薬莢を軽く蹴飛ばした。

 私はタクティカルライトで機内を照らしてみた。機内には誰もいなかった。操縦席の窓は割れて、計器には血痕が飛び散っていた。

 ライトの光をなぞるように動かしていると、光の端に拳銃のグリップのようなものが映ったので、私はライトを戻してしゃがんでみた。

「それ、銃?」

 久代が聞いてきたので、私は「ううん違う。でも使えそう」と答えた。

 拳銃だと思ったそれは、55式信号拳銃だった。銃の中には信号弾が一発装填されていて、もう一発予備の信号弾が落ちていた。

「空に向けて撃つと照明弾が灯って明るくなるの。ゾンビに向けて発射すると、ゾンビを燃やせるかも」

 私は信号拳銃のグリップを久代に向けて、渡そうとしたが、久代は首を横に振った。仕方なく信号拳銃をリュックの中に入れた。

 久代は踵を返して、機内から降りて、墜落した衝撃で曲がったプロペラを触ったりぶら下がってみたりして遊んでいた。

 ほっぺたを膨らませてプロペラにぶら下がっている久代の姿が可愛くて、私は微笑んでしまった。

 久代が遊んでいる間私はもうしばらく機内を物色した。

 機内には他に目ぼしい物はなかった。機内のスペースに余裕があるのは、何かを乗せる予定だったからだろうか。

 私もヘリコプターから降りた。苔の上に足を下ろすと、足裏にふかふかの苔の感触が伝わった。

 私と久代はエスカレーターの方に向かって歩いた。

 館内の案内図を見ようと、タッチパネル式の案内板を触ってみた。指で触れても、モニターは真っ黒のままだった。

「もう随分電気を入れてないみたいだね」

 エスカレーターも停止して、ただの階段になっている。

「これじゃあ冷蔵庫も怪しいかも」

「あー、そうか。冷蔵庫がダメなら肉や魚もダメか」

 モニターの側に置いてある紙のパンフレットを手にとって、館内図を指でなぞって食品館の場所を確認した。

 食品館は墜落したヘリの向こう側にあった。

 私と久代は食品館に向かって歩いた。

 頭上から、太鼓のような音が聞こえた。

 私達は立ち止まって見上げた。

「雷?」

「まさか、晴れてるのに」

 崩落した天井から見える空は青いし、きれいな白い雲が見える。

「気のせいでしょ」

 私達は気にせず食品館に向かった。

 コーヒー豆のお店の前を通ると、コーヒー豆独特の土や煙のような匂いがした。ミックスジュース屋さんはカウンターはもちろんすっからかんで、果物の写真だけが虚しく貼られていた。

 前を歩いていた久代が立ち止まった。私も立ち止まった。

 目の前に壁があった。

 ライトで壁を照らすと、それは見上げるほどの巨大なシャッターだった。

 案内図ではこのシャッターの向こうが食品館になっている。

「マジか」

 思わずそうつぶやいてしまった。

 二人でシャッターを小突いてみたり、蹴ってみたりした。シャッターは金属音を立てながら波打った。

 手で開けるには重すぎる。たぶん電動で開けるのだろうが、今館内に電気は通っていない。手で触った感じ頑丈なシャッターではないが、これを小銃で壊すのは無理がある。

「なんか余計にお腹空いた」

 久代が呟いた。

 私も同感。

 私達はパンフレットを広げた。

 二階にはベーカリー屋さんやパスタ屋さんがある。三階にはフードコートもあった。

 店舗が営業してるわけなんてないが、業務用の倉庫には食べ物が残っているかもしれない。

 私と久代は回れ右をして、停止しているエスカレーターに向かった。時計を見ると、もう昼を過ぎている。はやく帰らないと日が暮れる。

 エスカレーターを上っていると、ステップの軋む音が聞こえた。

 風雨にさらされて、劣化しているのかもしれない。

 エスカレーターを上りきって二階にたどり着いた。全く音がしなかった。無音過ぎて、耳鳴りがするくらいだ。

 ライトの光でフロアの中を照らした。ゾンビの姿形も見えない。唯一見える人型の物は服を売っているお店のマネキンくらい。

 吹き抜けの手すりには鳥の糞がくっついていた。

 崩壊した天井から鳥が入り込んで、住み着いているのかもしれない。

 私達は、飲食店に向かって歩いた。

 通路には所々寝袋や布団が落ちていた。

 私は気にせずお店に向かった。

 タクティカルライトでベーカリー屋さんの中を照らした。

 ガラスの仕切板にライトの光が反射した。目を細めて中を覗いたがパンは一つもなかった。

 お店の中に少しだけ入ってみた。パンを乗せるトレーとトングが律儀に並べてある。

 奥の厨房をライトで照らしたが、食べ物は全くなかった。

 作業台の上にパン粉の入った袋がいくつも積み重なっていた。

「あれでパン作れるかな」

「粉物は虫が湧くっていうよ」

「じゃあ嫌だ。虫入りのパンなんて食べたくない」

 私達はお店を出て、隣のパスタ屋さんに向かった。

 ショーケースに並んだメニューの見本が食欲をそそる。もうこんな豪華な物、どれくらい食べてないだろう。

 店内のテーブルの上には椅子が上げてあった。

 お店の奥に足を踏み入れると、突然奥の厨房から黒い何かが飛び出してきた。

「ぶぇぇええ〜〜」

 悪魔が叫ぶような声でそれは近づいてきた。私は銃口をそれに向けて引き金を引いた。銃声がうるさいかもと思って咄嗟に目を瞑った。

 弾が出なかった。

 黒い何かは私達の横を通り過ぎていった。

「あれ! イノシシだよ!!」

 久代が興奮気味に叫んだ。

 私はお店の外に出て、黒いそいつに向かってライトの光を向けた。

 一瞬だったが、確認した。

 久代の言うとおりイノシシだった。まだ小さいからウリボーだ。

「びっくりしたね」

 久代が私の横顔を見てきた

「ゾンビじゃなくて良かったね」

 私は手元の銃に目をやった。

 さっき引き金を引いた時安全装置がかかったままだった。

 イノシシだったから命拾いしたものの、あれがゾンビだったら私も久代も危なかった。世界がこんなになっていると言うのに、私はまだ抜けているようだ。

 私はコッキングレバーを引いた。金属のガシャっという音が、辺りに響き渡った。

 銃を構えて再び店内に入った。厨房はイノシシに荒らされていた。冷蔵庫のドアも開けっぱなしだった。

 動物も人間も考えることは同じなようだ。いや、社会が崩壊して、私達の方が動物と同じ考えしかできなくなったのかもしれない。

 私達はお店を出た。

 通路の先に日光が降り注ぐ所があった。ちょうどヘリ墜落現場の真上になる場所だ。

 床に89式小銃が落ちていたので、拾った。海上自衛隊特別警備隊の物だ。私は弾倉を取り外して、リュックのサイドポケットに入れた。

「ねえ、柑菜」

 久代が私の方を突いて、前を指差した。

 吹き抜けのガラス腰壁により掛かる人影があった。

 私は銃を構えて安全装置を外した。銃口を人影に向けてゆっくり、一歩一歩近づいた。

 人影は特別警備隊の隊員の死体だった。ヘルメットの頭頂部に穴が空いていた。隊員の右手にショットガンが握られているから、自殺したんだろう。

 私は銃を下ろして、死体からショットガンをもぎ取った。

 ショットガンはレミントンM870の銃床を外してピストルグリップを採用したドアブリーチ用の物だった。

 隊員のポケットの中に緑色のブリーチ用シェルが二発入っていたので、装填した。

 他にも閃光手榴弾を二つ持っていたので、拝借した。

「もうランボーだね。シュワルツェネッガー」

「褒めてんの。からかってんの」

「両方」

 隊員の死体に手を合わせて立ち去ろうとしたが、もう一つ気になるものがあったので手に取った。

 それはレポートだった。タイトルは『ゾンビの行動記録』。


 ―ゾンビの習性に関する考察

 広島総合病院を拠点とした民間医療チームによって数ヶ月ゾンビの習性を研究してきた。ゾンビは人を襲うが、食べるために襲っているわけではない。ゾンビは噛み付くことで"感染"させることに成功すると、別の獲物を探し始める。つまり、ゾンビにとって噛み付く行為は食べるための行動ではなく、同じ種族の物を増やす行為であるといえる。無性生殖に近いものだろうかとも思ったが、噛み付いた相手を"ゾンビ"に変異させる行為は、生殖というより同化に近い。さらに、ゾンビが外部の刺激に敏感すぎるということがわかった。ゾンビは音や光に対して過敏に反応する。だから、ゾンビは明るいところではあえて外部の刺激に対して鈍くなることで、過剰に反応することを抑制している。一方、暗闇では外部の刺激に対して集中できるため、動きが俊敏になるのだと思われる。暗闇などで、ゾンビに対して突然強い光などを当てるとゾンビは刺激に対して過剰反応してしまい、数分間体のコントロールがうまくできなくなる。

 ゾンビになる原因は、コロナウイルス科コロナウイルス属の唾液腺涙腺炎ウイルスの一種だと考えられる。活動を停止したばかりの細胞程度であればウイルスによって細胞が再構築され、再び活動が再開されるため死体でもゾンビとして蘇る。感染者(ゾンビ)は唾液を非感染者に触れさせることで感染を拡大させようとする。つまり、これが”噛む”行為である。

 土葬された死体とネズミが接触することで唾液腺涙腺炎ウイルスが突然変異したと考えられるが、WHOの調査団が調査中に消息不明となったため現在では原因を探ることはできない。

 今後はゾンビ撃退だけでなく、治療薬開発のため研究拠点を広島総合病院から東京の拠点に移す予定。


 私と久代はそっとレポートを閉じた。

 私達が平凡に暮らしている間に、世の中ではいったい何があったんだろう。多くの名もなき人達がゾンビ禍の社会を打開しようとして、亡くなったんだろうか。

 私達は二階で食料を探すことを諦め、三階に行くことにした。あそこはフードコートがあるからもう少しマシなものがあるだろう。

 急ぎ足の私の後ろで、久代は立ち止まって横を向いていた。

 私が小声で「久代」と呼んだが、久代の耳には全く届いてない。

 私が近づいて肩を叩いて、久代は初めて自分が呼ばれていることに気づいた。

「あ、ごめん」

「どうしたの?」

「ううん。なんでもない」

 私は久代が見ていた場所に視線を移した。

 そこにはスニーカーショップがあった。

 意外だ。

「靴が欲しいの?」

「あ、うん。そのぅ」

 私は久代の足元を見た。

 ボロボロのスニーカー。

 しかも久代は律儀に学校指定の白いスニーカーを履いている。一年生ならともかく二年生にもなると学校指定の白のスニーカーじゃなく自分の好きなブランドの靴を履く人がほとんどなのに。

 そういえば、昔、学校のない日に一緒に出掛けた時も久代はこの白いスニーカーを履いていた。

「見ていく?」

 私が促すと、久代は照れ臭そうに頷いた。

 スニーカーショップの中は荒らされていた。

 パンデミックのどさくさの中、万引きをしにきた人がいるんだろう。

(私も他人のことは言えないが)

 私は久代に似合いそうな靴を探した。久代は背が高いし脚が長いからナイキやアディダスのぽってりしたシルエットのスニーカーが似合うと思う。ほんとはブーツも似合うと思うけど、まだ暑いからやめた方がいいかもしれない。

 私はナイキのスニーカーを手に取って久代の方を振り返った。

「これ、似合うかもよ」

 久代は棚の陰から顔を出した。久代は久代で靴を探していたようだ。

 久代はコンバースのスニーカーを持っていた。紺色のキャンバス地のやつ。

 悪くはないと思うけど、久代にはシルエットが細すぎて似合わない気もする。

「そこに座ってみて」

 私は椅子に久代を座らせてみた。久代の足首をそっと掴んで、靴を脱がせた。

 久代は手で口元を隠した。

「汚いよ」

「よきよき」

 私は久代の足に新しい靴を履かせた。サイズはぴったりだ。アディダスと迷ったが、久代の足の甲ならナイキの方がしっくりくると思った。私は久代の足を包み込むように靴紐を結んだ。

「どう?」

 私が見上げると、久代は照れ笑いをしながら立ち上がって鏡の前に立った。

 私はライトで久代の足元を照らした。

「すごい」

 控えめに言って、久代は感動していた。まさかここまで久代が喜ぶとは思わなかった。

「よく私の足のサイズ知ってたね」

「そりゃー、伴侶の足のサイズくらい知ってるよ」

「私、柑菜の知らないよ」

「久代より一つ小さいかな」

「ね、ああいうの履いたことある?」

 久代はスニーカーとは別の棚を指差した。

「サンダルのこと? あるよ」

 私は久代が指差した棚に行って、白いリボン付きのサンダルを手にした。少し厚底になっていて背が高く見えるやつだ。ネイルをしてこれを履いて、黄色いスカートとか履いたらいいかもしれない。

 目頭が熱くなった。

 なんで。

 あー、そうか。そうやってお洒落しても出かけるところがない。

 今の世の中いっつも危険と隣り合わせ。

 普通に道を歩いているだけなのに背後からゾンビが近づいてないか気を配らないといけない。

 私は自分の足元を見た。

 久代の靴を選んでいる場合ではなかった。私のvansのスニーカーもボロボロだ。

 私は涙を拭いて振り向いた。

 久代はリュックの中にスニーカーを入れていた。

「履かずに持って帰るの?」

「うん。帰り道汚したら嫌じゃん」

「ねぇ、今度もっと大きなリュック持ってこようか? お洒落な物、いっぱい持って帰らないと」

「そうだよねー。私たちピチピチの十代なのに、毎日ダラダラ過ごしてるもん」

「ダラダラじゃないよ。洗濯したりご飯の用意してるじゃん」

「もう主婦じゃん、それ」

「主婦JKか」

「とたんにおばさん臭い響きになるね」

 天井の穴から入り込む光が薄くなった。

 空が曇ってきたのか?

 暗くなるとゾンビの動きが活発になる。

「少し急ごうか」

 私は久代を連れてエスカレーターを上った。エスカレーターのステップが軋んだ。

 三階に上がって、私達はフードコートに向かった。

 フードコートに向かう途中、小さなすべり台が置いてあるキッズスペースが目に入った。普通は子どもしか利用しない場所のはずなのに、成人用のシュラフが並んでいた。

 天井から差し込む光がさらに弱くなった。

 私はタクティカルライトをつけた。

 廊下にはファミリー用やソロキャンプ用のテントが並んでいた。スポーツショップの在庫を勝手に使ったのだろう。テントの中には誰もいないが、なんだか不気味だった。

 キャンプ場というよりドヤ街の雰囲気に近い。

 久代が私のリュックを掴んできた。ビクッとして振り向くと怯えている久代の顔があった。

 久代も私同様異様な雰囲気を感じ取っているのだ。

 足元にはスナック菓子やインスタント食品の袋が捨ててあった。誰かが食べ散らかした跡だ。

 ここには人がいたんだ。

 しかも複数人が共同生活をしていたんだ。

 私は足を止めた。

 テントの中に日記帳のようなノートがあった。

 私はしゃがんで、ノートをめくった。


 ―12月3日

 今日皆の話し合いで新たな避難者の受入を中止した。これ以上人を入れるとこっちの生活が危うくなる。


 ー12月23日

 入り口に避難を求める人がやってきた。二人の子供と奥さんを連れた家族だった。ドアを叩いてたが、ルール通り中に入れなかった。


 ー12月24日

 今日新しいポストを与えられた。お前はよく気がつくからパトロール係に向いてるなだってさ。おかげで夜も見回りしないといけないが、人の役に立つのは嬉しいもんだ。


 ー2月15日

 飯を食ってるときに隣のやつらが面白いことを言っていた。実はこのゾンビ禍の原因は政府の陰謀なんじゃないかとのこと。国民全員の社会保障ができなくなった政府が生物兵器をばらまいたんじゃないかって噂が広まってるらしい。世の中には面白いことを考えるやつがいるもんだ。


 ―3月2日

 天井を突き破って自衛隊のヘリが墜落してきやがった。ゾンビが侵入してきて一階と二階を破棄することになった。防火扉を閉めるときに仲間も何人かやられた。


 ―3月3日

 さっき生き残ったやつらでゾンビを撃退してきた。撃退なんて生易しいもんじゃねぇ。バットやラケットでゾンビを殴った。ちくしょう。血や脳みそが飛び出すのを間近で見た。くそめっ!


 ー3月9日

 三階の居住スペースの件で揉め事が起きた。元々三階に住んでた子連れの世帯が、狭くなるから俺らを受け入れたくないそうだ。冗談じゃねぇ。俺らだって騒がしい子どもと一緒にいるのなんてごめんだ。でも、ゾンビを殴って殺して皆を守ったのは俺らパトロール係だろ。


 ー3月16日

 一向に改善されねぇ。俺らは端っこの方で生活して、食べ物も少ない。


 ―3月20日

 俺は真実を知ってしまった。一部の人間は女子供を集めて東京に逃げるつもりらしい。東京は要塞都市化して、政府が人類再建のために女子供を優先して受け入れているらしい。俺達はこのままここに見捨てられて、一部の人間だけ東京に亡命するようだ。


 ー3月22日

 昨日隣のやつと相談したことを決行しようと思う。やっぱりゾンビと戦った俺らがいつまでもこんな扱いを受けるのはおかしい。明日、決行しよう。


 日記はここで終わっていた。

 私も久代も辺りを見回した。大量のテントや布団。人が生活していた痕跡。こんなにたくさん人がいたのに、穏やかな雰囲気は一切ない。

 このフロアの空気がどこかピリピリしている原因がわかった。

 ここは、人間同士で殺し合った場所なんだ。

 私と久代はさっきより早足でフードコートに向かった。

 こんなところにはいたくない。だけど、ただ引き返すわけにはいかない。さっさと食べ物を探して、退却しよう。

 フードコートに到着寸前、私は目の端に映った物に反応して、瞬時に身を隠した。「なに!!?」と小声で聞いてくる久代の口を人差し指で制した。

 私はタクティカルライトの先を地面につけて光が周囲に漏れないようにした。

 目が暗闇に慣れるまでしばらく待った。

 息を殺していると、足裏から振動が伝わってきた。

 地震? 地響き? どこかで雷が鳴っている? 

 いやー。

 目が闇に慣れてくると、フードコート内に大量にいる人影が浮かび上がってきた。人影はゼンマイ式の玩具のように左右に不器用に揺れながら歩いていた。

 意思疎通が取れていないのか、お互いに肩がぶつかり合っては怒鳴り合うような叫び声をあげた。

 ゾンビだった。

 足の裏から伝わってくる微動は大量のゾンビが歩いて発生させた振動だった。

 こんなに大量のゾンビを目撃するのは、私が避難所に避難する時以来だ。

 ゾンビ達はフードコート内のテーブルや椅子に体当たりしながら同じところを歩き回って、飲食店のカウンターをヤスデのようにうねうね這って乗り越えていた。

 あまりも気色悪い光景に吐き気がした。

 こんなところで、食材なんて探せない。なによりはやく逃げ出したい。

 私は踵を返して引き返そうとした。

 すると久代が私を呼び止めた。

 久代はゾンビの群れを指差した。

 私は目を細めて久代の指の先を見つめた。暗闇の中こちらを見つめているオールインワンを着たゾンビがいた。長い髪を少し茶色に染め、ピアスをつけたゾンビ。小さめの目を大きく見せるためのメイクが、経年劣化で崩れて墨汁で落書きされたみたいになっていた。

 私はそのゾンビの正体に気づいて息を呑んだ。

 美香だった。美香の身体中に噛まれた痕があった。

 美香だけじゃない。ゾンビの姿になったあんじーもいた。

 美香は私達に気づいたのか、まるで迷子になってた子どもが保護者を見つけた時のように両手を前に突き出して近づいてきた。

 美香の走り方にかつてのような運動神経の良さは感じられなかった。古い映画のストップモーションのような不格好な動きで(だけどそれがかえって怖くて)向かってきた。

 私と久代は早足で後退りした。私は人差し指で89式小銃の安全レバーを回した。カチカチっという音がすると、その音に反応して何体かのゾンビがこっちを向いた。

 後ろ向きに進む私のお尻に何かが当たった。気のせいかと思ったが、当たってきた"何か"はお尻の輪郭をなぞるように撫でてきたので、私は恐怖で体が硬った。

 刹那、怖がっている暇はないと自分に言い聞かせ、瞬時に小銃を構えて振り向いた。

 振り向くと、ゾンビがいた。水色のカッターシャツを着たおっさんのゾンビは(別のゾンビに食べられたのか)両眼をくり抜かれていた。おっさんのゾンビは口を欠伸をする時のように広げて、私達に覆いかぶさろうとしてきた。

 私は小銃の銃口でゾンビの喉仏を突いた。おっさんのゾンビは怯んで後退りした。

 私は銃床を肩に当て、顎を銃床の上に乗せた。タクティカルライトでゾンビを照らし、照準器で狙いをつけた。

 人差し指で引き金を引いた。

 ドドドンっという銃声がして、銃が跳ね上がった。まるで水を出しすぎてコントロールできなくなったホースのように銃が暴れた。私は銃の安全レバーを確認した。レバーはトリプルバーストの「3」を指していた。設定をミスった。私は単発の「タ」に合わせたかったのだ。トリプルバーストでは弾を消費するし、さっきみたいに銃が暴れてコントロールしにくい。だけど、私の指が短くて、レバーを適切な位置に合わせられなかった。

 銃弾はおっさんの喉、鼻の下、頭頂部に当たり、スイカ割りのスイカのように顔面が縦に割れた。

 銃声が館内に響き渡った。おっさんのゾンビは床に膝をついた。水色のカッターシャツが血で赤く染まっていく。

 両耳を手で塞いで目を瞑っていた久代が、ゆっくりまぶたを開けた。

 館内に残響していた銃声が消えてきた。

 私と久代はフードコートに向き直った。

 統率の取れてなかった大量のゾンビが、全員私達の方を向いていた。

 太陽が何かで隠されたのか、天井の穴から差し込む光が完全に途絶えた。

 館内は真っ暗になった。

 私はタクティカルライトでゾンビを照らした。

 ゾンビ達は私達を見つめ続け、そしてー。

「おおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおおお!!!!!!!!」

 たがが外れたように一体のゾンビが叫び始めると、フードコート内にいた全てのゾンビが陸上選手のように全力疾走で追いかけてきた。

「逃げるよ!!」

 私と久代は全速力で廊下を走った。

 私達の前方のゲームセンターからもゾンビがわらわらと溢れてきた。

 挟み撃ちにされると思った私は久代の腕を掴んで即座に方向転換をして、ゾンビのいないエスカレーターに向かった。

 エスカレーターを降りて、階下に向かう途中、バキィという硬い板が割れる音が聞こえ、私の片足が下に引っ張られた。

 劣化したエスカレーターのステップを踏み抜いてしまった。私の足首に激しい痛みが走った。

 ゾンビ達が全速力で私達のいるエスカレーターに向かってきた。

 私は脚を引き抜いて、エスカレーターを全速力で下りた。

 でも私の右足首は内出血をしていて、痛みでうまく走れなかった。

 一階まで降りようとしたが、上階からゾンビが落下してきた。

 飛び降りてきたゾンビは起き上がり、エスカレーターを上ってきた。

 久代が私の腕を引っ張った。

 廊下の隅にある職員専用のドア。久代は私を連れてそこに向かって走った。

 背後からゾンビの叫び声が迫ってきた。

 まるで悪夢だった。私も久代も恐怖で泣き出したいのを我慢しながら走った。

 久代が扉を開けて、私達は中に飛び込んだ。

 扉を閉めようとすると、若い男のゾンビが体当たりしてきて、無理やりこじ開けてきた。

 若い男のゾンビの頭には防災用斧が突き刺さっていた。斧の柄が邪魔をして扉が閉まらない。

 久代が斧の柄を掴んで引っ張った。私は閃光手榴弾をゾンビの口に突っ込んでピンを抜いた。

 斧が抜けるとゾンビが後ろに倒れ込んで扉が閉まった。扉が閉まると同時に向こう側で閃光手榴弾の爆発音が聞こえて、扉の窓に赤い血が飛び散った。

 久代は斧を閂にして、扉を封鎖した。

 ゾンビが向こうから突進してきて、扉が揺れた。

 一応防火戸だから、頑丈に作られているはずだ。

 私と久代はライトの光を頼りに、真っ暗な廊下を進んだ。

 引き返せないから、別の出口を探さないといけない。

(...続く)

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