第51話 灰谷は混沌と死合う②

 間抜けな声を発して赤煉瓦倉庫の中二階から落下した彩藍と、その足首に触手を巻き付けた無言の這い寄る混沌ナイアルラトホテップ

 二つの躰はほぼ同時に、一階の床板へと叩きつけられようとしていた。

 

『ドゴッ……ズズゥン…………』


 鈍く重量物を木製の床板に叩き付ける音を生じさせて、這い寄る混沌ナイアルラトホテップがほんの僅かだけ先に、そして這い寄る混沌ナイアルラトホテップの巨体の上へと彩藍の体躯が落ちて行く。


「えぇいっ!

 この……クソダボがぁっ!」


 這い寄る混沌ナイアルラトホテップが自滅的に墜落するのに巻き込まれた彩藍は、腹立ち紛れの怒声を発して先行し床板の上に倒れる漆黒の肉体を睨め付ける。

 しかしながら彩藍はただ共倒れになろうとはせず、這い寄る混沌ナイアルラトホテップの胴体を目掛けて小烏丸の刃先を差し向けようと手を伸ばしていた。


「グゥエェェェ…………」


 落下の衝撃と自身の体重を存分に乗せた彩藍の突きは、這い寄る混沌ナイアルラトホテップの腹部………と思わしき部位に強くそして深く突き刺さる

 小烏丸がもたらす退魔の能力ちからは、這い寄る混沌ナイアルラトホテップの現身に確かな負傷ダメージを与えているようだ。

 根元まで深く刺さった小烏丸の柄からは、這い寄る混沌ナイアルラトホテップの体液と思しき液体と同時にシュウシュウと白い煙が異臭と共に立ち昇る。

 痛みに耐えかねたように弱々しい叫びを上げながら、頭部と四肢とに配された触手をのたくらせる漆黒の怪物。


「落ちてるモンはババでもひらえってな、これが銭儲けの秘訣やねんで。

 覚えて帰ったってなっ!」


 勝ち誇る彩藍だが、話す内容としては凡そ下品で褒められた物ではない。


「ゴォッグゥワァァァァッ!!!」


 自身を滅せようと作用する不快な小烏丸異物、その刃がもたらす猛烈な痛みに這い寄る混沌ナイアルラトホテップは、不快の根源たる彩藍の排除を決定したようだ。

 赤煉瓦倉庫の中二階より墜落した際に、自身と彩藍を紐付けた触手の巻き付けをきつく締め上げ、幼児が玩具を放り投げるような無造作な動きで………彩藍を振り回し触手の締め付けを緩めた。


「うわわっ!」


 突然の狼藉に驚愕した彩藍の声と共に、その全身は落下地点から遠心力の作用で吹っ飛んで行く。


『ベギッ!

 ズッゴォォォン!』


 ぶん投げられた彩藍は低空飛行で、落下地点から遠い壁に向かって頭から突っ込んで行く。

 道中で立ち尽くす深き者どもディープワンズの一群を巻き込みながら、高速の砲弾のような勢いで彩藍は赤煉瓦倉庫の壁へ打ち当たった。

 煉瓦が破損し濛々と立ち昇る赤茶けた土煙に向けて、這い寄る混沌ナイアルラトホテップは立ち上がり様に右手の触手の先鋭部を叩きつける。


『ブジュッ……ズビュウッ…………』


 湿った肉袋に何かが刺さったような音と共に、這い寄る混沌ナイアルラトホテップは触手を引き抜いた。

 触手に貫かれて痙攣している物体は、果たして深き者どもディープワンズの一体であった。

 彩藍を追撃したものであろう刺突が、標的に届いていなかったことに苛立った這い寄る混沌ナイアルラトホテップは、刺し貫いた深き者どもディープワンズの躰を放り投げると………更なる刺突を両腕の触手にて行う。


「おいコラ、オッさん……エグい攻撃しよるやんけ!」


 二本の触手が突き刺さった激突の跡地から、横っ飛びに転がり回りながら……彩藍の姿が現れ出でる。

 先程まで彩藍が居た場所から引き抜かれた触手には、またもや深き者どもディープワンズが串刺しとなった状態で全身を震わせている。


「ホンマにアンタ等のやり方っちゅうモンはエゲツないなぁ、見てみぃな………お魚君達もあんだけ頑張っとったのに、ピチピチ跳ねて死にかけてしもうとるやないかい!

 アンタ等の組織のあり方として、『人は宝』って観点はないんか?

 人的資源リソースの損失を無視するような会社には、発展する未来はあらへんねんで!」


 道中で自分が巻き添えにした深き者どもディープワンズに、何故か同情的な立場を見せ労働者の権利を謳う彩藍……その理由は言わずもがな利己的な見地からの発言ではあったのだが。


「灰谷さん………下らないご高説は結構ですよ。

 我々にとっては深き者どもディープワンズなど、幾らでも替えの効く再生可能資源リソースにしか過ぎないのですから。

 貴方の生命で贖えるならば、彼等の死すらも大した損失ではないです」


 彩藍の利己的な見地を知ってか知らずか、先程までの怒りを引っ込めた形の、何故か使用者側の見方でまともに返答する這い寄る混沌ナイアルラトホテップ

 その言葉を聞いた彩藍は、ペッと唾を吐きながら嫌悪感丸出しの顔で言い募る。


「何やねん、それが西洋社会の合理化ってやつかいな?

 あ〜あ………イヤやイヤや!

 この陽ノ本でそないな悪意のある不当行為がまかり通るなんて、他の誰が見過ごしても僕は見過ごさへんでぇ。

 ホンマ……お魚君達を扇動出来たら、アンタ等みたいな悪い親玉を打倒したるのになぁ」


 大正十四年に制定された『過激社会運動取締法案』の内容に反旗を翻すような彩藍の発言ではあったが、陽ノ本の国内法などに無関心な這い寄る混沌ナイアルラトホテップにはまるで通じていないようだった。


「ハッ!

 蘇維埃ソビエト連邦の、主義主張の真似事ですか?

 しかしながら……彼の国に敷かれた社会主義とやらも、我々の手の内にあるのですけどねぇ。

 よく考えてみて下さい灰谷さん、『大いなる意思の許、全体が一糸乱れず目的に向かって動かされる』などと云うお題目は………宇宙的意識に置き換えると、我々の在り様と完全に合致する内容とは思えないですか?」


 さらりと恐ろしい台詞を吐き出す這い寄る混沌ナイアルラトホテップ、その言葉に彩藍も一瞬口を開けて驚愕せざるを得なかった。


「え〜っと………

 アンタ等って亜米利加アメリカ国に住んどる、正気やない人のやって言っとったやんなぁ?

 それがまた何で、真逆の蘇維埃ソビエト国の内側にまで進出しとるんや?」


 頭の上に疑問符をバラ撒いたような顔で、彩藍は這い寄る混沌ナイアルラトホテップに質問する。


「我々はHの恐怖心から脳髄に刻み込まれた、の申し子だとお教えしましたよね?

 Hは常に正気と狂気のあわいで、怯え苦しみながら生きているのですよ。

 そう………Hは怯えています。

 宇宙の無慈悲な意思を、自身の血族より遺伝する狂気を、死すべき人の子の運命さだめを、誰からも認められない惨めな己の人生を、赤い旗を振る共産主義者を、同時に拝金根性の資本主義を、有色人種の侵蝕を、白人社会からの謂われなき迫害を、Hを取り巻く世界の全てを………恐れ慄いて絶望しているのです。

 Hが恐怖の感情を抱き、に転化させる現実の全てにおいて、我々は介入し……そして影響下に置くことが出来るのですよ」


 噛んで含めるような這い寄る混沌ナイアルラトホテップの説明に、彩藍は怖気を震ってしまう。


「いやいや………そんなん反則もエエとこやがな。

 アンタの理屈で云うたら、Hっちゅうのをビビらせ続けさえしとれば……旧き神々エルダーゴッズと愉快な仲間達は何でも出来るってこととちゃうの?」


 彩藍の問いに這い寄る混沌ナイアルラトホテップは、満足そうな声で返す。


「ここまで来て貴方と私の意見に、ようやく一致が見られましたね。

 その通りですよ灰谷さん、だからこそ我々はH暗示を仕掛け、Hを永劫の瞬間ときに至る牢獄へと、文字を媒体にして繋ぎ留めているのですよ」


 反則行為を反則として認めながらも、全く悪びれることもなく己が手段として主張して憚らぬ這い寄る混沌ナイアルラトホテップに、彩藍の心の奥底にある何かがプツッと切れたような音がした………ような気がした。


「おい……この黒い寄生虫サナダムシよぉ………オノレ等みたいな薄汚いカスが、僕の縄張りシマで好き勝手やらすんも……今夜が最後やと思っとけよ。

 悪いけど……オノレにだけは、明日の朝日を浴びさせる訳には行かんなぁ…………」


 怒りのあまり彩藍の顔は凛々しい程の真顔となり、平素の軽口にしか使わない声もドスの効いた口調に変化した。

 その声を認識した這い寄る混沌ナイアルラトホテップも、彩藍から受けていた従前の印象から来る侮りを少しは返上したようだった。


「ほぉ……その様な鋭い気迫で、敵に立ち向かうことも出来るのですね。

 判りました、私も貴方との争いには些か食傷気味でしたので…………。

 今宵を最期に、決着を付けることとしましょうか……灰谷彩藍っ!」


 抜き身の二刀を構える彩藍と、まさしく寄生虫じみた動きを見せる触手をくねらせる這い寄る混沌ナイアルラトホテップ

 半妖と無貌の神による戦闘は、最終局面を迎えつつあった。

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